もはや触れられない理念(2024.6.1)
※本当は色々と書いていたのだけれど、話がとうとうまとまらないようだったから、全て省いて下の文章のみ残すことにします。話が断片的なのはそのため。
また頭が整理できたら、再挑戦しようかな。
(写真は本当に何にも関係ない)
人は理念の中で遊んでいられる時が一番生きがいを感じられるって話をしたい。
教育だって、宗教だって、その根本の問題は
「人がどう生きるか」ということに綜合される。
どう生きることが幸せであるのか、
自分にとって幸せな在り方とは何なのか、
その根源的問いに対する実践的思考が「生きる」ということであって、その一つの側面に教育や宗教は関わっている。
昔々は、その全てが手探りで
自分で考えて行動してみる外にはその価値の形成は成し得なかった。だから人は常々考えたことだろう。
それは過酷だったかもしれない。
それは孤独だったかもしれない。
それでも道を切り開く先駆は常に自ら信じるものを自らの手で形作る資格があった。
今はどうだろう。
昔々に築かれた礎が社会の全部を呑み込んだ巨大な価値をなしている。
諸々の理念はその先人たちの働きによって”完成され”たとさえ錯覚させる。
その形作られた理念を眺め、新たな解釈を与えることはできる。
その形作られた理念を修繕し、部分的に新たなものを付け足すこともできる。
しかし、その形作られた理念を取り壊すことは、今の社会にあって人のモラルが許さない。
それは例えば、芸術作品のように
遠巻きで作品を眺めることはできるのに、ある一定の距離でテープが敷かれて、それより内側に入って、眼をまさにその作品にくっつけてこれを眺めたり、その作品に触れたりすることは許されない、みたいなことで、、
つまり、その理念は作り手によって完成された時点で手の届かないものとなる。
理念とは、作られ完成せられたその時点ですでに腐りはじめてくる、と言ったら言い過ぎだろうか。