僕の「しにたい星人」(2024.7.8)
「しにたい」って思ってたって話
もう半年くらいになるけれど、
僕はあるときから突然
「しにたい」って思うことがなくなった。
それは、なんだかほんとに不思議で
しにたいっていう感情に対する悲しさがなくなった感じがする。
今までは、勝手に心が
「あぁ、しにたい」って呟いている感じだった。
心が呟かなくっても、
僕が「しにたいな」って呟くと
心もそれに応えるようにぎゅーっとなった。
今はそんなことない。
心はそんなこと呟かなくなった。
僕が呟いても、心はそれに応えなくなった。
そんなことまるで気にしていないみたいに、他人事みたいに「しにたい」は僕に聞こえるようになった。
ほんとにほんとに不思議だ。
「しにたい」っていう想いに対する切迫感が全くなくなって、「しにたい」って思う自分がリアルじゃなくなった感じ。
だから、しにたいって口にしても、全然それは本気じゃない。
僕は去年の12月、友達とお酒の席で盛大に酔ってしまって、全然そんな気なかったのに大号泣してしまったの。
それはそれでほんとに黒歴史なんだけど、
とにかくその日を境に僕の「しにたい星人」はぷっつり姿を消した。
僕はみんなのおかげで明日も頑張ろうって思えた。
みんなが優しいから僕は明日も生きようって思えた。
僕は優しいフリをしてるだけの汚い人間だ。
優しい人になったフリして、僕はいつも汚い。
僕もみんなみたいな優しい人になりたいって思えた。
だから生きようって思えた。
みたいなことを泣きながら話した気がする。
ほんとに恥ずかしいな。
でも、きっと心の底からの言葉だった。
僕はそのとき、僕が今まで誰にも話せないと思っていた、そして死ぬまで誰にも話さないだろうと思っていたことを垂れ流して、それを受け入れられてしまった。
僕はただ自分の心の檻に固く閉じ込めていた黒い塊を吐き出すことで、世界ごと救われたように感じた。
人の「悩み」と人の「救い」
人に打ち明けることができない禁忌を持っていること、これが人の生きる苦しさの主であるんだと思った。
どんなスケールであれ、悩みは「言えない」ことで苦しみに変わる。
ただ口に出して聞いてもらうだけで、人は前を向けるのに。
聞いてもらう人がいない、受け入れてくれる人がいない、そう思って自分をころしてしまう人がきっとたくさんいる。
多分、「話してもいいよ」って言う人には話せない。
何か自分の中にきっかけが起こって、溢れ出てしまった”それ”をたまたま掬い取ってくれる人がいること、これが救いの構造のような気がする。
、、、
なんだか、何を言いたかったんだっけな、、
つまり、その奇跡みたいなフツーのことが
人の救いなんだってことで、、
えっと、、んー、、、
言葉にするの、難しいな。