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根無草

自分の存在価値が揺らぐ。

あぁ、また来たかこの感じ。

何度目かの、胸の落ち込み。まるで自分には何も無いかのような、何も持っていないかのような、根無草のような存在に感じられる。

「価値」なんて言葉から一番遠い場所で自分と向き合っていて欲しいような存在。そんな存在に対しても、無意識に自分を重ねて、自分の価値を測ろうとしようとしてしまう自分の浅ましさに吐き気がする瞬間。しまいにそんな存在に対してすら嫉妬してしまい、ますます自分という人間がまるで薄っぺらい紙切れのような存在に感じられてくる。

なんで自分は、他者に価値を預けることでしか自分を受け止めてあげることができないのだろうと。自分を自分で定義する力があれば、それは意思なのかもっとプラクティカルに解決できるものなのかわからないけど、それがあれば他者に自分の価値なんて預けなくても生きていけるようになるのだろうか。

自分が体を持っていることすら疎ましい。物理的な身体としても、自分の持つ心としても、他者との間には絶対的な壁が在る。その間の二人がどれだけ近づこうとも、その間の壁がどれだけ膜のように薄くなったとしても、その隔たりは一生埋まることはないのだろう。いっそ合一さえしてしまえば、価値や意味なんて言葉からずっと離れたところで自分は満たされるのだろうに。

何かしら安心を求めているのだ、根無草な自分は。どこかに根を張れる場所を、ずっと探している。何かと一緒になりたいという欲求が、自分の底には漂っている。一緒になりたいという欲求は、それが他者に向けられると、その不可能性に反射して、自分の価値を揺らがせてしまうのだ。

一緒になりたいという欲求は、自分の内にむけるべきものなのかもしれない。こうでありたい、という頭の中に浮かぶその理想と、現実の自分とを近づけていく作業は、「一緒になりたい」という欲求を100%満たさなくても、それを少しくらいは埋める手助けになるのかもしれない。

その欲求を自分に向けることで初めて、他者と一番近い距離で接せられるようになるのかもしれない。ちょっと逆説的だけど。


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