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Nichijo、日常、にちじょう、ニチジョウ

課題の締め切り。
「絶対無理だ、いや締め切りあるから結局やるんだよな、いやでも論点すらまだ掴めてないし、いや論文読むとこから始めないと、ため息」
を繰り返してベッドから起き上がれない日々。

研究者は絶対向いてないわ。と友人に吐露。

自分がする行動に対して、レスポンスが欲しいんだわきっと。

チームプレー。グループプロジェクト。そこでの自分の行動には滑らかに意味が与えられていく。それはプロジェクトの目的かもしれないし、オオグッジョブ!の一言かもしれない。

そのレスポンスがないと、しんどい。なんで論文読んでるんやね。なんで課題してるんやね、って。そこでもらえるかもしれない成績なんて、自分にとっては無意味だと思えてしまうほど、モチベーションにつながらない。

なんて思っていると、facebookの知人の投稿。「なんとかエッセイも書き切り...!」おお、すごい、書き終えたのか!

なんて思ってると、隣人。「今日朝の5時までドラマ見てた〜」おおなんかいいね!

なんだか知らぬ間に背中押されたような気がして、机に向かう。と、いうより机に向かえた、という方が近い。ベッドからすら立ち上がれなかったのだから。

そうやって、なんだかんだ毎日が進んでいく。課題もきっと時には楽しく感じられて、時にはまた無意味に思えたりして、最後には終わる。

行動の意味が〜なんて抽象的に考えると、自分がベッドから出れない理由とか課題のやる気が出ない理由とかがロジカルに示されて、やっぱり研究者向いてないわ、とかいう次の一手が導き出されるような気もしてしまうのだけど、そんな重そうなロジックは「今日朝の5時までドラマ見てた〜」の一言で吹っ飛ぶのである。

些細な日常の出来事は自分の頭の中で絶え間なく構築されていく枠をヒョヒョイのヒョイと飛び越えていく。

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天気の子を見た。

なんだかすごく感動してしまった。

リアルな東京の描写がとても綺麗で。ものすごく懐かしくなった。自分もそんな場所に住んでいたのだなあ。なんて思ったりして。

俺もマックで素敵な出会いに恵まれないかな、ほだかええなあ〜。くう〜。とかなったりして。

物語のストーリーとかももちろん良かったんだけど、よく知る東京で起きている別の物語にひたれるってのが良い。自分の記憶なんかと繋がりあいながら、懐かしいなあて思いが溢れ出してきながら、物語がただそこにある感じ。物語ていうか、世界?

その物語、世界に後押しされて今日も頑張ろうってなったりもした。そういう物語を届けられる仕事ってかっこいい。物語を届けられるような仕事をしたいな、と割と真剣に思った。

なんてことを思いながらyoutubeなんか見てたりすると、人がただ喋ってる動画とか、対談してる動画とか結構楽しく見てるなあと思う。

インスタとかのストーリーでみんなの生活がチラッと覗き見れるのも、結構楽しく自分見てると思う。

あと友達が書いてるnoteも好きでよく読む。

例えばアメフトめっちゃ頑張ってた友達が悲願のリーグ優勝を果たした!みたいな投稿見た時、すごく嬉しくなった。ついでに自分も頑張ろうってなった。

そうやって別に歴史になんか登らない、なんなら会話にすら上がらない、なんなら意識にすら浮かんでこないかもしれない小さな関わり合い、まるでキメの細かい泡みたいなのが僕たちの身体、もの、自然とかいろんなところに潜んでいて、それが絶えずやりとりされている。それを受け取った時に、自分の人生に意味がもたらされているように思う。

そういやって自分の行動の一つ一つが、物語になっていく。そうやってやっと自分は生きていけるのだ。

自分のこの人生も、誰かにとっての物語になっていたらいいな。

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頭の中でできる想定なんて遥かに上回って、現実はある。

具体の中で生きていたい。

という言葉を、具体の中で生きる、に。



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