【かわ歩きのコース】
土器川 ▶ 池尻(大束川と綾川の結束部) ▶ 白髪渕(綾川屈曲部) ▶ 滝宮 ▶ 四手池・府中湖 ▶ 大束川
川によって形成された、滝宮渓谷と白髪渕
北西方向に流れる綾川は、浦山丘陵に突き当たると屈曲し、流路を北東に変える。段丘を削りながら流れることで、川幅が狭く流れの速い渓谷「滝宮」が形成された。また、川の衝突によって浦山丘陵が侵食され、川の曲線の外側の川底が深く掘られたことで、流れのゆるやかな「白髪渕」が形成された。土木工事の規模が壮大すぎて神話の域である。
長谷川先生がブラタモリの案内人としてここを訪れたとき(2017年1月14日放送分)は、綾川の「中位段丘面を開析した河床」に滝宮水位観測所があったそうだが、現在はなくなっている。
▶ 讃岐ジオパーク推進委員会「讃岐ジオサイト 綾川と堤山」
白髪(しらが)という名前の由来、ついでに鼻毛
白髪(しらが)という名字は全国的には少ないが、出自が明らかである。白髪皇子(清寧天皇)の名代である白髪部(しらかべ)に由来し、のちに光仁天皇の諱「白壁」と同音であることから真壁と改められた。私の育った岡山では、「白髪(しらが)さん」はそれほど珍しくない。ちなみに「白髭(しらひげ)さん」もわりと多いが、こちらの由来については諸説あり。
ヒゲといえば、大阪には「鼻毛(はなげ)さん」もいるらしい。元々「髭(はなげ)」だったのを、正しく読むのが難しいため、幕末から明治の頃に「鼻毛」に変えたという。ヒゲか鼻毛かはっきりしない鼻の下の毛問題に、明治維新が決着をつけたのだ。ここで「髭(ひげ)」と名乗る道を選ばず、おそらく先祖代々の「はなげ」を貫いた鼻毛氏は潔いと思う。
▶ 鼻毛にまつわるエトセトラ 日本の珍しい名字・地名「鼻毛」
白髪渕の名前の由来
さて。光仁天皇の時代(奈良時代)には、軽々に呼ぶことは憚られた「白髪」の渕だ。名前の由来を調べたが、白髪渕周辺を見回しても渕を覗き込んでも資料を探しても、よくわからなかった。白髪渕のそばに「白髪橋」という橋があるほかは、近くに白髪につながりそうな地名も山も建物もない。あるのは昔話だけだった。
白髪渕の昔話、滝宮の昔話
白髪の老人、白鬚の老人
白髪渕の昔話と滝宮の昔話には、共通するイメージがある。渕、水の神、白髪の老人。滝宮では牛頭天王の信仰が篤く、「白髪の老人の正体は牛頭天王、スサノオだった」として納得されているが、牛頭天王は牛の頭を頂く異形の王で、スサノオは荒(すさ)ぶる神である。いずれの神も、白髪の老人の姿で描かれたものを私は見たことがなく、白髪渕で釣りを楽しむ好々爺が誰なのかは見当もつかない。では、この「白髪の老人」のイメージはどこから来たのか。
白鬚神社
綾川の上流、綾上に「川上神社」「猿飼神社」「白鬚神社」などの神社がある。白鬚神社の社伝は「山で道に迷っているときに現れた白鬚の老人が正しい道に導いてくれた」という内容で、道開きの神サルタヒコの話とよく似ているのが少々気になるが、白髪と白ヒゲで親和性が高い。白髪渕や滝宮で目撃された老人と同じ人物かもしれないが、ヒゲと鼻毛ほどの親しみではないというか、なんとなくしっくりこない。綾上の神社の祭神や社伝は山と人との関わりに関するものが多く、全体的に山の神の場所、という印象である。
▶ 國學院大学 神名データベース:猿田毘古神
川女郎
「白髪の老人」からのアプローチが難しいのなら、白髪渕の昔話にあって滝宮の昔話にはないイメージ、「水害」から考えてみるのはどうか。
カワジョロは香川に伝わる妖怪、川女郎である。白髪渕だけでなく、大束川でも語られている。川女郎は大水で堤が切れそうになると「家が流れるわ」といって泣く。我が子が大水に流されるのを悲しんで泣く。大岩の下にいるかもしれない我が子を思って泣く。大水に子を奪われて泣いた女は、あらゆる時代の、あらゆる場所にいただろう。大雨の中、流れているのは川女郎の子どもであり、無数の川女郎たちの涙であり、川女郎とともに大水を恐れ、ともに子どもの死を悼み、残された者に深いあわれみを寄せる、集落全体の涙でもある。
▶ 国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」
:カワジョロ(綾川町)
:カワジョロ(飯山町)
:河女郎(まんのう町)
:カワジョロ(琴南町)
白髪水、白鬚水
伝承とは共同体の記憶を伝えるものであり、白髪渕の昔話には水害の記憶が保存されている。白髪渕の名前の由来は「白髪水」ではないか、と私は思う。香川で洪水を白髪水と呼んでいる場面に遭遇したことはなく、白髪渕と白髪水を直接結びつける資料も結局、見つけられなかったけれど。
滝宮の十一面観音
白髪渕の由来を調べていて、思わぬ知識を得た。水と十一面観音との関わりである。滝宮には十一面観音像があるのだ。
滝宮の「木造十一面観音立像」は、藤原初期の特色を表した檜材一本造りの観音像で、国の重要指定文化財として綾川町の生涯学習センターに保管・展示されている。元々は龍燈院綾川寺の本尊だったが、明治の神仏分離令によって龍燈院は廃寺となり、本尊は常床集落の人々に、盗難に遭った堂床集落の観音の代わりとして引き取られた。
▶ 綾川町立図書館「滝宮ばやし読本:滝宮の十一面観音さん」
▶ さぬき歴史文化探訪ナビ「木造十一面観音立像」
▶ 文化遺産オンライン「木造十一面観音立像」
滝宮と十一面観音
滝宮神社(旧牛頭天王社)は綾川の岸沿いにある。龍燈院に伝わる記録によれば、菅原道真が讃岐の国司だった頃、疫病除災のため祇園牛頭天王を勧請して社殿を創建したとされる。しかし実際の創祀はもっと古くにさかのぼることができるだろう。オミタラさんの渕には龍が棲んでいる、オミタライのの渕は龍穴で龍宮に通じている、などと語られるオミタラ・オミタライとは、鵜足(うたり)の「タリ」であり垂水(たるみ)の「タル」、神格化された雨水である。このような自然崇拝に基づく蛇信仰・龍神信仰に加え、菅公の祈雨伝説と御霊信仰、真言密教の請雨法、念仏踊りなどが結びつき、滝宮は中讃地域の雨乞いの中心となった。
だが、水の神に祈るのは、雨を降らせることだけではない。綾川の屈曲部では洪水被害が頻発し、綾川の氾濫原である羽床下村では、古くから治水のための渡池が築かれていた。渡池は享保年間頃に干拓されて水田に変わったが、洪水被害はその後も発生している。
綾川は渇水も洪水もどちらも起こりうる川で、雨を請うことも雨を鎮めることも、同じだけの切実さで人々は祈っただろう。十一面観音像は治水や利水の象徴として古代・中世に数多く制作され、全国各地で祀られた。滝宮の十一面観音像もまた、そのような経緯で龍燈院に祀られ、人々をなぐさめてきたのではないか。龍燈院がなくなり、綾川の岸辺を離れた今もなお、滝宮の十一面観音は慈悲深い水の化身、清流の菩薩である。