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土器川かわ歩きメモ⑤瀬をはやみ
【かわ歩きのコース】
土器川 ▶ 池尻(大束川と綾川の結束部) ▶ 白髪渕(綾川屈曲部) ▶ 滝宮 ▶ 四手池・府中湖 ▶ 大束川
「綾川の河原の特徴はなんでしょう」
滝宮に到着すると、長谷川先生から軽いクイズが出題された。答えは「砂岩」。でもこのとき私は
砂岩… サガン… サガンといえばフランソワーズ・サガンの『悲しみよ こんにちは』だな… どんな話だっけ… 全然思い出せないなぁ… 読んでいないのかもなぁ、サガン… 砂岩…
と完全に上の空で、気がつくと先生の解説は次の話題に移っていた。綾川の河原の石と土器川の河原の石は出どころが違う、という内容だったと思うけれど、なんだかよくわからないままである。
綾川は鋭角に屈曲し、段丘を削りながら北へ流れる。渓谷の入口は川幅が急激に狭まるため水が集まる。それに加えて、河床部が花崗岩であるため水が地下に浸み込まない。だから綾川の渓谷部「滝宮」は水量が多く流れが早い。
一方、県内有数の急流河川である土器川は扇状地を形成し、扇状地を流れる。扇状地の土は水はけがよく、水が石や砂の間に浸み込みこむため、土器川の河原ではあちこちに伏流水が湧き、それが川の流れをつくっている。しかし場所によっては瀬切れが頻発するほど、地表を流れる水の量は少ない。
「大束川の名前の由来はなんでしょう」
ミニクイズは続く。答えは「はっきりした由来はわからない」。
大束川は、東大束川・中大束川・西大束川の3つの流れが飯山で合流して海へ注いでいる。県や四国地方整備局のホームページでは、「大束川は、大窪谷川・沖川・中大束川・台目川・落合川・城山川・鴨田川の各支川を束ねながら北へ流下し、瀬戸内海へ注ぐ」などと説明されている。
山に向かって木の枝のように広がる大束川は、合流によって束ねられながら海へ注ぐ。しかし「大きな束となった川」というには大束川は小さく(河口付近の宇多津でも川幅52メートル)、「大いに収束している川」といったほうがしっくりくる。
ところで大束川の支川のひとつ「台目(だいめ)川」は、「台目=うてめ=余水吐」に由来するのではないかと思うが、確かめていない。
▶ 香川県「大束川水系河川整備計画」p2. 大束川水系概要図
▶ 「大束川の水質汚濁に関する原因調査結果について」
▶ 香川県「空海」
▶ 大林組「弘法大師・空海の修築した『満濃池』の想定復元
「滝宮の滝はどこにあるのでしょう」
滝宮には滝宮神社や滝宮天満宮はあるが、滝はない。そもそも大きな滝ができる地形ではない。ミニクイズの答えは「滝はおそらく”急流”を意味しているが、もしかすると昔どこかに小さな滝があったのかもしれない」だ。
しかし考えてみると確かに、滝がないのに滝宮とは不思議な地名である。観音寺市の「滝宮神社」や愛媛の「瀧神社」に「多伎神社」、伊勢神宮の別宮「瀧原宮」も、Googleマップや神社のサイトを見る限り滝はなさそうだ。
奥伊勢の瀧原宮には、6キロ離れた宮川のそばに「多岐原神社」という摂社がある。宮川は河床が低く、急流が岩にぶつかって分岐する「多岐」の川らしい。綾川の滝宮もまた、大小さまざまな奇岩と岩そそぐ水の渓谷美で名高い「多岐」の宮だった。
▶ 香川県神社庁「瀧宮神社」(観音寺市)
▶ 愛媛県神社庁「瀧神社」(松山市)
▶ 愛媛県神社庁「多伎神社」(今治市)
▶ 伊勢神宮 場外の別宮「瀧原宮」(三重県)
▶ 「宮川水系河川整備計画」
歌に詠まれる川
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」(詞花集・崇徳院)は、離ればなれになってしまった恋人との再会を誓う歌である。
保元の乱に敗れ、讃岐に流された崇徳院は「讃岐院」と呼ばれ、院の住まいは「雲井御所」と呼ばれた。雲井御所近くを流れる綾川を院は「鴨川」と呼んで、都を懐かしんでいたという。この話を踏まえ、藤原孝善が「霜晴れぬ綾の川辺に鳴く千鳥声にや友の行方を知る」(後拾遺集)と詠んだことで、以後綾川は歌の名所となった。
寛政11年(1799)に成立した「讃岐廻遊記」に滝宮は「白岩川一面に厳々たり。其岩の形奇々妙々の次第。態と石工に彫刻させたるかことし」と記されている。昭和40年に府中ダムが完成したことで、これらの景勝は水没したという。平成4年に町の観光協会と有志が協働して、滝宮に人工の滝「綾川の滝」を造った。川辺の小高い場所に水を引き、小さな泉に溜めた水を綾川に落とす仕掛けだったようだが、やがて植物に隠され、幻の滝となった。
幻といえば、崇徳院の歌に詠まれた滝川も恋人も、実在しないというのが定説である。この歌は「ゆきなやみ いはにせかるる たにかはの われてもすゑに あはむとそおもふ」(崇徳院御百首)を改作したものとされる。「ゆきなやみ」を「瀬をはやみ」に、「谷川」を「滝川」に変えたことで、川の流れは急激に早くなった。この川は現実の川ではなく、歌というフィクションの世界を流れる川である。
歌といえば、崇徳院と歌を通して親交のあった西行は、讃岐に配流された院を気にかけていたが生前に訪れることは叶わず、院が亡くなった3年後に讃岐白峰の御陵を詣で、「よしや君昔の玉のゆかとてもかからん後は何にかはせん」(山家集)という歌を残した。
上田秋成の怪談『雨月物語』に収められた短篇「白峰」では、院を偲んで歌を詠んだ西行の前に院の霊が現れ、歌を返してくれる。院にお会いしたかった、という西行の願いが、霊との遭遇という望まぬ形で実現してしまう、恐ろしくも哀しい物語である。しかし物語の中でなら、死者の声を聞くことも死者と語り合うこともできる。現実の世界から欠けてしまったものをフィクションの世界で取り戻し、受け容れがたい事実には物語を添えて、それでどうにか納得することができる。
▶ 日文研 和歌データベース:久安百首(久安六年御百首)
▶ 日文研 和歌データベース:西行法師家集
▶ 坂出市 讃岐へ行脚した歌人『西行法師』
こもりくの泊瀬川
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」の「瀬をはやみ」という言葉から、何を想起するか。早い瀬、早瀬、長谷、初瀬、泊瀬。私の頭に浮かぶのは、万葉の時代の「隠国の泊瀨」である。
◯隠国(こもりく)の泊瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ
◯石(いは)走りたぎち流るる泊瀬川絶ゆることなくまたも来て見む
◯泊瀬川流るる水脈(みお)の瀬を早みゐで越す波の音の清けく
◯泊瀬川早み早瀬をむすび上げて飽かずや妹と問ひし君はも
泊瀬は現在の奈良県桜井市にあたり、三輪山の麓を流れる泊瀨川や初瀬詣、長谷寺の観音で有名な、実在する場所である。しかし万葉集における「隠国の泊瀬」といえば、火葬の煙が立ち上る葬送の地であり、魂の還る山であり、異界の入口であり、清浄な水の流れる川である。
恋の歌「瀬をはやみ」に崇徳院の不遇な生涯を重ねて、歌の後半の「われても末に逢はむとぞ思ふ」が、まるで御霊としての再来を暗示しているかのようだ… と感じる人もいる。別れ方によっては再会の誓いが呪いにもなる。平安びとはこの歌からどんなフィクションの世界を構築したのか、いちど聞いてみたいもんだ。でも怨霊と話すのはいやだな。
考えてたら眠くなってきた。寝よ。
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【大束川】県の中讃地域、綾歌郡綾歌町ー飯山町ー坂出市ー同郡歌津町を南北に流れる川。2級河川。…綾歌町の讃岐山脈の大高見峰を(504m)を水源とする東大束川、猫山(465m)を水源とする中大束川、西山(204m)を水源とする西大束川が飯山町で合流し、坂出市を経て宇多津町に入り瀬戸内海へ注ぐ。
【滝宮】大きな滝の生ずる地形ではなく、むしろ渓谷の意に考えるべきか。…建長8年3月付讃岐国司庁宣に祇園社領萱原神田の四至牓示のうち西限が「滝宮領堺」と示されているのが初見。滝宮とは、現在の滝宮神社の前身である滝宮牛頭天王社のことと考えられるが…
【綾川】坂出市府中では古代の讃岐国府近くを流れるためその名が都に聞え、藤原孝善は「霜晴れぬ綾の川辺に鳴く千鳥声にや友の行方を知る」と詠み(後拾遺集)、以後歌の名所となった。室町時代の宋雅(飛鳥井雅縁)の歌に「夜やさむきみきはの浪におりはへて千鳥しはなくあやの川かせ」がある(「頓證寺法楽続百首和歌」白峯寺蔵)。また沿岸には景勝地が多く、とくに綾南町の滝宮では滝宮神社・滝宮天満宮の境内裏を流れて鮎滝川の名でよばれ、「讃岐廻遊記」に「白岩川一面に厳々たり。其岩の形奇々妙々の次第。態と石工に彫刻させたるかことし」とあるような景観を作り出している。
滝宮を流れる綾川は1965年(昭和40年)に府中ダムが出来るまでは清流が、小岩、大岩、奇岩の間を流れ、瀬があり、渕があり、県下でも有名な渓谷美の景勝地でした。崇徳院もこの地を訪れて綾川の流れを見て、都を思い、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末にあわむとぞ思う」と詠んだのではないでしょうか。