21世紀はアジアの時代になるのかどうか
いまこれから始まる世界的な潮流は、米国主導の下、始まる新たなルールづくり。
米国は世界を牽引するトップであろうとしているのだろうか?
実際に新大統領が就任し、演説の要約をニュースで観ている段階ではあるものの、"一大統領の個人的価値により米国の強さを取り戻そうとする政権"という公私混同しているような、していないような、まだ微妙な始まりのような話題が続いている。
21世紀はアジアの時代と言われて四半世紀が過ぎた。
20世紀に成長した米国が、21世紀を牽引する役目を担うのかは未だよくわからない。
初日から、今までの流れを断ち切るように政策をひっくり返し、世界との関係からは離脱するなど、初日から100近い大統領令の書面にサインをしたらしい。
周囲にはyesマンを揃えての新政権の真意はこれから全容を明かしてゆく。
中庸という観点から言えば、西洋と東洋の橋渡し的な存在価値が米国にある"自由"。
米国の歴史にある新天地開拓は西洋からの流れにあると思うけれど、陰陽の世界観を持つ東洋では、自由にある光と影を見定めながら"ルール"を必要としてゆくプロセスを描いてゆく。21世紀のアジアの時代、わたしはそんな風にこれまでの経緯とこれからの歩みを想像していた。その流れに干渉するようなリーダーシップでは、停滞を招くような気もする。
それぞれの国々が、自国がどう在りたいか、国民の生活はどう営まれているか、成り立っているのか。そういうことを個々が交渉の場で語ることで、改めてその重要性が認識されるようにもなってゆくことは大切だ。でも、交渉とそれは別次元。交渉に長けた側が自国に都合が良いように条件の合意を進める可能性もあるから、資本ありきで弱肉強食の交渉になっては、争い事や偏見を助長させてしまうことにもなりかねない。オープンな交渉というテーブルに着き、話し合われる内容を誰もが確認でき、自分ごととして理解に努めることで、公正な社会形成に向かえばいいけれど。成長を我が物にしてきた米国がどこまで世界に対して開かれた交渉という場を用意するのか、今のところ、懸念の方が圧倒的にメディアでは発信されている。