神の約束:どんな過去もいいものに転じる

聖書には6千もの神の約束があると言われている。そのなかで私が最も好きな箇所とは、新約聖書ローマ人への手紙8章28節だ。

「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

この御言葉は私の心をはなはだ打つものであった。平たく言えば「どんな過去も神はよきものに変えてくださる」という約束だからだ。
私の過去というものはプロフィールに乱書きしているように、辛いことが多かった。いつから辛かったのかと言われたら、やはり不登校をしたときかな、と思う。どん底だったのはポルノ業界に足を踏み入れてしまったときだ。死ぬことしか考えていなかった私は、自分でもまさかそこまで落ちぶれてしまうとは思っていなかった(貴賤意識があるのではなく、自分らしくないという意味)。どうでもよかったのだ、自分のことなど。どうせ死ぬのだし、だったら地獄を見てやろうというくらいの気持ちで事務所に電話をした。このときは摂食障害のピーク直前で体重は38kgほどだったと思う。このころの半年間は、ただ死ぬのを待つためにあっただけの時間だ。私は自殺するタイミングを今か今かと図りながら未遂を繰り返し、ただ苦しみと悲しみと混乱のすべてをかき混ぜた中にいた。

生きるということは過去を背負うということでもある。良いことも悪いことも自分の責任において背負わなければいけない。では、一生傷に残るような過去を背負った者はどうすればいいんだろう。私の左腕にはリストカットの後が薄く白く残っている。大学にいた精神科医から、
「痕が残らないようにしなよ」
とさんざん注意を受けていた。大学のトイレや中庭でもカミソリで腕を切って切って切りまくっていた私は未来のことなどどうでもよかった。結局傷跡は20年近く経っても残っている。みみず腫れのように思いっきり目立つほどではないのだが、それでもわかる人にはわかるようで、職場でも半袖の季節は、
「リストカットしたでしょう?」
と先輩からこそっと耳打ちされたことがある。子供が生まれてからは子供からも「ママここどうしたの?」と言われた。

神がすべてのことを働かせて益としてくださる。

この聖句と出会ったとき、私はそれだけで心から救われた気がした。自業自得なこと、そうでないこと全部ひっくるめて恥ずべきこと苦しいことの多かった私の出来事が、いいことに変えられるらしい、という確信が持てたのだ。神は約束を破るほど暇でもなくバカでもなかろう。人間よりも信頼のおけるこの世界のクリエイターがそういうのであれば、きっとうそうなのだ。

今私は人の見ない現実を見ることができる。最近AV業界のことを二度ほど語る機会があったのだが、やたらみんなが面白がってくれたのが面白かった。というか不思議だった。本人にしてみればそれは台風の目にいた出来事なので、日常の一部というか、格別に面白いという話でもないのだ。
「何が面白いの?」
「やくざと一緒でさー、やっぱり言葉としては知ってても、実際の現場を知るのは違うでしょ?」
とマジックミラー号を好む男から言われた。そういうもんか。なら、笑い話を提供できたということでよかった。といった具合である。リストカットや摂食障害、精神科入院、家族のごたごたも同じだ。同じような経験をした人と分かち合えるのは、やっぱり経験をしたからだ。
誰かが見なければいけない現実を自分は見た。今そう思えていることが、「すべてよきことに変えられる」という神の約束の証である。それで今人生楽しいか?と言われたら私は楽しいと答えられる。そりゃ、落ち込んだり悩んだり、人間だからいろいろあるけどそれなりに楽しい。私は恵まれていると思うし幸せだと思う。ほれ、すでに「益となる」を経験している。

聖書の言葉にはほかにも打つものはたくさんあるけれど、この箇所を選ぶ人は私の周りにはそんなにいない。でも私はこの箇所が一番好きだ。この聖句を知っただけでも私はクリスチャンになってよかった。救いとはなんであろうか。天国に行くことだろうか。それだけではないのだよ。天国のルールが地上に適用されること、それがクリスチャンの醍醐味だと思っている。でなければ今ごろ私の魂は腐って死んでいるだろう。
すべては良きことに変えられる。信仰は誰でも持てる。貧乏、病気、環境、関係ない。持とうと思えば誰でも持てる。アーメン。神は愛なり。神様ありがとう。

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