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子供に気を遣われるのもまた辛いが…?

6歳の娘は私に気を遣う。夫には啖呵を切ってガーガー盾突いていくのだが、私が少々注意しようものなら
「ママごめんね」
としょぼーんとなり、見ているこっちもモヤモヤする。「そんなことでいちいち落ち込むなよー」と言いたくなる。子供は親に見捨てられたら生きていけないって通説はよーくわかっている。子供が成人するまでまともに観察している人間なんて親ぐらいなもの。娘は1人っ子で家庭では親子の縦の関係しかない。兄弟姉妹の逃げ場がないのも理由かもしれないが、ピアノのレッスン中
「ちゃんと先生の話聞きなさいよ」
くらいの言葉でしょげて泣かれては、こちらも『うーむ』と頭を抱えてしまうのだ。

子供は親の超自我(倫理的な規範、縛られているもの)を受け継ぐと聞いたことがある。もちろん人はそれを表立って出すことはない。しかし、無意識は相手の無意識に目に見えないルートによって伝導していくのだ。娘には自己憐憫の気がある。「かわいそうな人はいい人である」「かわいそうなほうが人気者になれる」と思っているフシがある。
なんでそんな発想になるのだ?とわが身を振り替えってみると、十分に私や夫が愛情を注げているか?と考えなければならないのはもちろんのこと、夫婦喧嘩で私が泣くことが多かった。喧嘩になった時、理屈で論破してこようとする夫の圧力はすごい。このときばかりはまるで上司と部下。そのために私は泣くことが多かった。そんな光景を見せられていた娘は『ママがかわいそう』と思い育ったのかもしれない(今は幸いにも喧嘩自体が減ったのだが)。

娘ももう6歳なので、「言語と意味の一致」が進んできた。夫の高血圧のことも「こーけつあつ」と覚えたことだし、ある程度大人の会話もしていいのかもしれない。そう思った私は、昨日しばしソファーで娘と向き合った。
「ママやパパが不機嫌なのは、○○ちゃんとは関係ないんだよ。ママだって仕事や友達や、他の人のことでイライラしたり、疲れたり、悲しいときがある。でもそれはママやパパが自分で解決することであって、○○ちゃんとは関係ない。大人は自分で解決できるし、自分で解決しなきゃいけない。大人は寝たら忘れる、5分経ったら忘れるかもしれない。友達とおしゃべりしたらいい気分に戻れるかもしれない。パパは家に帰って『片付けなさい』ってよく怒ってるよね。でもそれは、パパは仕事で嫌なことがあったり、疲れていたりしているから、パパの問題であって○○ちゃんとは関係ないことなんだよ。」
「かわいそうなほうが好かれるって思うことは絶対にやめたほうがいい。これはだけは強く言っておくね。ママもずっと同じように思ってた。かわいそうで、悲しそうだったら、たくさんの人が寄ってきて、好かれるんじゃないかって。(←学生時代あだ名が『幸薄(サチウス)だったときがあるw』)本当は逆なんだよ。幸せなほうが好かれるの。もしママが悲しい顔をして、いつもかわいそうな人だったら、パパはどう思うと思う?『自分は結婚した人、ママのことを幸せにしてあげられない、笑顔にできない男なんだ』って、自信なくしちゃうよね。ママも同じなんだよ。ママが○○ちゃんに『ごめんなさい』って言われると、つらいなって思うのは、『ああ、子供に”ごめんなさい”って言わせてしまった、なんて悪い母親なんだろう…』と思ってしまうからなんだ。だから、いつも楽しそうにしてくれればママはそれでいい。悲しいときは泣いてもいいよ。でも、ずっとは悲しまないで。ママは○○ちゃんが思いっきり楽しそうにしてたらそれが1番幸せだから。人に好かれるために生きてるわけじゃないけど、人は幸せな人と一緒にいたいんだよ。ママは幸せだったから、パパと出会えたんだよ」

最後に新約聖書の娘の好きな箇所、ピリピ4章4節を読む。
「いつも主にあって喜びなさい。もう1度言います。喜びなさい」

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