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臨床心理士と父の記憶

眼鏡をかけた強迫性障害の、たしか32歳の色白の女性と、その真正面に座っていた眼鏡をかけた浅黒い臨床心理士は、とても良く似ていると思った。
私が22歳、精神病棟に初めて入院した1月の冬の出来事である。

主治医の指示によってグループカウンセリングに行くように言われた私は頭を抱えこんだ。そんなものは見たことも聞いたこともない。今でこそHuluやNETFLIXなどのVODの普及で海外ドラマの断酒会などの映像が想像できるけど、若干ハタチそこそこの私が「グループカウンセリングに出なさい」と言われて、そこがどんなものなのか、何をするところなのか、イメージはゼロだった。

「じゃ、終わったら迎えに来るからね」
と病棟看護師に連れられてカウンセリング室に入る。ガチャリとドアを開けると6畳ほどの部屋。真っ白な壁のうち1面はガラス張りで、中庭が見える見晴らしのいい空間に6つ椅子が並べられていた。
そのドアから一番遠く、ちょうど私が入った対角線の場所にいたのがこの場の主導権を握る男の臨床心理士である。彼は、当時体重35kg、初対面の痩せこけた謎の少女の私を珍しがるでもなく、ギョロッとした目を一瞥させたあと、すぐに雑談していた患者に目を戻した。

私はその打算的な目線が脳裏に焼き付いてしまった。どこかで見覚えがある目。目尻のしわ、ニヤリとした口角の上がり方。――父。
その顔は私にとって妙な「エロ」の嫌悪感をかき立てるもので、一瞬の目線のやり取りでその男性に秘めた「エロオヤジ」的なものが私の心の深いところからうぉんと蠢くように反応する。

そうだ、父も、こんな顔と表情をしていた。

私は軽く会釈して空いているパイプ椅子に腰かけた。
「お父さんは研究者やったねぇ?」
「はい、父は東北大です」
「ほんなら仙台のほうに住んでたんや」
「18歳までそうですね」
おまけに関西弁かよ…。
開始時間前に交わされていたその強迫性障害の女性と臨床心理士の会話で、彼は私と同じく関西方面から上京してきたのだと知る。その方言もイントネーションも父が間近にいるようで拒絶感が募る。
にしてもこの2人は付き合いが長いのか、仲が良さそうだ。患者の女性がカウンセラーをどれほど信頼しているかはものすごくよく伝わってきて、眼鏡をかけていることも相まって肌の色を対にしたまるで夫婦のよう。患者が心をオープンにすればするほど、その容姿は治療者と似てくるのだろうか?なんてバカな考え事をしていたところ、 中年男性と、摂食障害の若い女性が入ってきて、グループカウンセリングは始まった。
このカウンセリングに別段ルールというのはない。挨拶もなければ誰がしゃべってもいい。しゃべりたくなければ1時間半沈黙でいい。

いざ始まると、臨床心理士はしゃべっている患者だけでなく、絶え間なくきょろきょろと丸になった参加者1人1人に目をやっているのがわかる。
私は初回というだけあり、徹頭徹尾うつむいて床のシミを数えることに集中していたが、その男が自分だけでなく周囲にきょろきょろ目を向ける動作そのものが気持ち悪かった。
なぜかって、父が私にやっていたあの目線を思い出させるから。狡猾で、姑息に何かを狙っている肉食獣のような。臨床心理士は黙した患者の身体反応から何かを読み解いているのだろうが、私も私で臨床心理士を読み解いている。
いったい何をさせようとしているのか?何を引き出そうとしているのか?ぎょろりとにやけた浅黒い肉食獣の獲物は何か…?

その視線を感じるたびにはらわたの底の底の底の絶対に見られたくない秘部の記憶が触発される。それは、幼女の私が父に私の胸や股をまさぐられている記憶だった。
そのときの父の顔はいつも30cmくらい目の前にあった。行為に及んでいるときの父の顔だけはよく覚えているのだ。いつも目尻にしわを寄せてにやけていた。父の右手は「ぱいぱ~い♪」と鼻歌でも歌うように5才の私の乳首をこりこりと触り、胸が終わると今度は「カンチョー!」と右足を私の股の間に入れる。こたつのある和室の何でもない日常の一コマである。

私は「やめて」とも「ぎゃあ!」とも言っていない。ただ、黙って父に合わせるように純朴に笑っていた。
『お父さんが笑っているから笑っている』
ただそれだけの、童心の極みというか、笑って返すことが私なりの父性愛にこたえる方法だと必死で思っていたのだろう。
恐るべきことにこの「ぱいぱ~い♪」と「カンチョー」は幼稚園~小3くらいまで続いていた。ターゲットになったのは私だけでなく、姉も同じ。白のグンゼのタンクトップをまくしあげられて、同じように「ぱいぱ~い♪」とコリコリと胸を触られていたが、そんなときの姉は本当に哀しそうで目に涙をたっぷり含ませていた。
それはまるで、
『なぜこんなことをされる必要があるのか?』
そう疑うけれど、声は上げられない小動物のよう。姉はただうつむいて、反抗せず、声もあげず、ただただ時が経つのをじっと待っていたのだ。

臨床心理士はそんなことにも気づかずに、私の参加4回目にしてこう言う。
「みんなは瀬戸さんのことどう思う?ずっと自分の殻から出てこようとしないよね」

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