不登校のSくんへ
不登校のSくん。君は先日、どぎ、まぎ、ためらうように、まるでわたしに神父に大罪を告白するかのような怯えきった目線で、コロナ禍が明け始めた今、
「中学校に進学したけど、行きたくない。気持ち悪くなるし、友達もいないし、休み時間も何していいかわからない」
と訴えたね。場所が適切かわからないけれど、ここで私なりにいったん持ち帰って考えたことを書いてみようと思います。学校に行きたくなくって気づけばクラスに友達がひとりもいなくなったのが小学校5年生とのこと、実際に学校に行かなくなったのが6年生とのことだったね。
まず私自身も不登校経験者で、4か月学校に行きませんでした。中学生の時です。そのとき私は思春期真っただ中の14歳で、今から思えば青臭いことなのだが「自分の人生はわしが切り開くんねん!」と妙な自負がありました。だから私の登校拒否は『行きたいのに行けない』というよりも、『行く必要がないと判断したから行かないことを選択した』と思っていました。
なぜ学校に行きたくないと思ったかというと、そもそもちょっと私は変わった子で小学校2年生ころの時から私はこの日本の学校というシステムにかなり疑問を持っていた。学校には社会に出てからの集団順応という名の、人間をただクッキーの生地のくりぬき型にしていくような、一辺倒な学習教育(と言っていいものか?)があり、強すぎる個性を自分でも持て余していたような私には、とても不便で楽しくないところだった。
「没個性」とか「出る杭は打たれる」とか、そんなシンプルな表現では説明できない、なにかこう軍国主義の時代から受け継がれてきたような、大人が子供をただ扱いやすく飼いならして押し付けるような、そういう不自然さをわずか8歳ころに感じていたのです。
何を思ったか、14歳で単身(と他の小2~中3までのキッズ14名)インドの乾いたデカン高原にポツンと浮かぶようなある民家の家にボランティア活動のホームステイをしました。私たちは2週間の滞在のうちホームステイ先の家から近く(といってもでこぼこの土の道をトラックの荷台に揺られて運搬される)の小学校に3日間一緒に授業を受けました。
はっきり言ってインドのそこの小学校の子供たちには、日本が誇る世界最高水準の教育環境、というものに比べては何もなかった。まず、
「あ、これが体育倉庫ね!」
という石畳をでこぼこに積み上げたような暗い謎の建物が「校舎だ」と言われて、私は脳天をカチ割られたような気分だった。四畳半ほどの部屋が2つあっただけで、窓は30センチほどのガラスなんてもちろんない小さな穴が開いているだけ。電気もない、いすや机もない。壁の1つの面に黒板とチョークがあるだけ。
だいたいムンバイからホームステイ先に行くまで、私たちを乗せた車が信号で止まるたび、私とほぼ歳が同じほどのホームレスの子たちから「ワンルピー、ワンルピー」と細い腕が差し出してきた。髪の毛は色あせて、茶色か白わからないミルクティーのような色。腕は木の枝のように細い。
「そういう子が寄ってきても、お金をあげてはいけませんからね」
と空港到着後リーダーのスタッフに注意されていたので、お金はあげなかったけど、ちょうど同じ年くらいに同じ地球に生まれたのに、この格差は胸を槍で突き刺されたように言葉も出なかった。正直、ワンルピーを差し出したほうがどんなに楽だろうかと思った。だって同じ子供なんだもん。
彼らには教育を受けるなんて、遠い遠い夢物語で、まず今日生きられるというほうがよっぽど大問題なんだ。
そして、日本の支援団体が作った私が体育倉庫だと思った学校は、村のあちこちから集まった子供たちが20人くらい集まっていた。ものすっごく人懐っこくて、外国人が物珍しいのかいつも5人くらいにわらわら囲まれていて、
「名前はなに?」
「お父さんの名前はなに?」
「ミドルネームはなに?」
なんて目をキラキラさせて私たちに話しかけてきた。校舎の周りにあるものは地平線が見えそうなほど乾燥した広大な大地と、校舎から200mほど離れたドラム缶に汲みあげられていた井戸だけ。
インドの子供たちはそれを手ですくいあげて飲んでいたけれど、私たち日本人は腹をくだすから飲むなと言われていた。この水が飲めるインドの子と、浄化槽で薬液でろ過した水しか飲めない私たち、どっちが強いのだろう。
そして算数と英語と美術と体育の授業を一緒に受けたんだ。びっくりした。
もちろん子供は全員石畳の上にあぐらだよ。鉛筆を持っていない彼らは、いつもボールペンみたいなのを使っていて、だから私の消しゴムをすごく不思議そうに見ていた。
私は日本にいたとき授業中「挙手をするやつ」ってのを正直ケーベツしてた。挙手しないのが普通だったから、「くそまじめ」とか「いい成績ほしいのか?」なんて、たいていはクラスメートも冷たい視線を送って、シーンとかったるい時間が5~6限授業が過ぎていくのを待つだけの時間だった。
このとき私は何を学んでいたのだろう。
インドの子供たちは全く違った。先生が投げかける質問が言い終わらないうちに「はいはいはい!」と我先にって全員、目をキラキラさせて挙手していた。教室はあふれんばかりの跳ね飛ぶ声で石造りの壁がぐらつくかと思うほどだったよ。しゃべるときは地方の言語だから何言ってるのかわからなかったけど、衝撃だったよ。彼らにとって学ぶってことは、恩恵なんだって。積極的に生きるってことなんだって。恵みであって天与の権利なんだって。
それに比べて日本の学校ってどう?
勉強になってないよね。それは私自身が子供を産んで子供が小学校にあがり、入学式の日にもうすでに思った。学校の体制は30年前となんも変わってない。相変わらず国旗に敬礼してベルマーク集めてる。なんだこれ、かわってないな~ってため息をついた。
でもそれは教育現場の人のせいじゃないと思う。私は小学校のとき、毎日毎日学校改革を訴えた日記を教師に提出していたら、ある日職員室に呼び出された。その若い女教師は私に「文部省指導要領」とかいう分厚い本を見せて、
「文部省でこういうふうに教えなさいって決められてるのよ」
と悲しそうな申し訳なさそうな目を浮かべて私に小さな声で説明した。
会社と同じように、現場の人には自由がない。そういうもんなんだと納得した瞬間かもしれない。
正直私は今でも学校に行かなければいけない理由を答えることができない。40歳手前でもそうなんだよ。むしろ子供の小学校生活を見ていても「こりゃ、つらいやろな」って思う。
確かに私は学校に通ったことで文字が書けているし計算もできている。友達もできて行事もそれなりに楽しんだのかもしれない。けれど、給食は残さず食べて、集合は5分前集合で、気をつけ、をしたらピクリとも動かないほどにきっちり統制される必要があったのかと言われれば、それは生徒が納得できるように大人が説明できなきゃだめだよ。大人はそのへんの理由をあいまいにしたまま、なんとなく子供にやらせていくもんなの。ずるいといえばずるい逃げ方だと思う。
ルールや規範を教えるとき、きっとインドのあの体育倉庫でひとり一生懸命教えていた先生なら、子供の納得する理由をきちんと述べられるんだろうなって思うよ。
もちろん不登校の原因はひとつじゃない。みんな育った家庭環境も違うし、地域性や校風もちがうんでしょう。でもひとつ言えるのはね、学校ってのは子供が作った場所じゃないわけね。大人が勝手に作ってる場所。そこに行けって言われてるだけなの。理由は「そのほうがいいから」。
家もそうかもしれない。大人が作った空気感にあなたは生まれて押し込まれる。
その窮屈さにあぷあぷしてる大人も子供もたくさんいる。そしてあなたが敗北感だと思っているものは、勝利と呼ばれているものよりも人を笑わせて、その人たちを豊かにして、その人たちに勇気と学びを与える。あなただけの役割というものは実はある。インドのある男の子が、一緒に受けた美術の時間に得意そうな顔でスケッチブックを私に見せてくれた。それは陶器のような瓶で、幾何学文様が一筆書きみたいにぎざぎざに刻まれていた。ムスリムのモスクみたいな線の模様ね。その子はにこにこあぐらをかいたまま、首をぐらぐらインド人らしく揺らして見せた。その隣にいた男の子も、
「こいつの絵、すげえだろ?」
って誇らしげな表情を浮かべて、現地の言葉で話しかけてきて私の反応を待ってた。
私には、正直その絵を見たとき遠近法も陰影もなかったから、日本の美術の授業だったら絶対に評価されないものなんだろうなってひそかに思ってしまった。だけど、彼らの自慢げな顔に応えたいと思って、なんとか苦笑いで返したと思う。
大人も、全体を見ることはものすごく苦手なんだ。人間っていうのは、ステッチの刺繍をひっくりかえして裏側からただもつれた糸を見るように現実なんてこんがらがっているようにしか見えない。でもステッチを表から見たらそれは何かとても美しい作品に描かれている。学校システムにいたら裏側のぐちゃぐちゃの糸しか見えなくてわかりにくいかもしれないけど、神の視線で見たらSくん自身もきらびやかで造形された作品のひとつなんだ。
だから、Sくんも、その刺繍を織りなす1つの糸であることを今日はゆっくり考えてみて。
じゃあまたね!
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