みんなで乗り切ろうコロナウィルス
今回のコロナウィルスの件は、311の国難とずいぶん違うなと思う。311のとき、私たちは「復興」を掲げ、「絆」がその年のテーマ漢字になるほど津波と原発で壊滅的ダメージになるところを一致団結して乗り切った。
『がんばろう、休んでもいいよ、そしたらまたがんばろう…』
そう隣人に声を掛け合って、計画停電や節電、義援金、寄付…色んな痛みを分かち合った。
コロナウィルスはその雰囲気が薄い。
「がんばろうね」
とセリフを言うアナウンサーなど1人もおらず「ヤバイ」「壊滅」「死ぬ」という恐怖のストーリーばかりが流れる。日本ってこんな励みにもならぬメディアの国だったか?と思うが、「一緒にがんばろう」というよりも「とにかくヤバイと言うほうが儲かる=私たち視聴者がそっちを望んでいる」という図式がその背後にあるとしたら、余計に背筋が凍る。メディアに洗脳されているとしたら今すぐその考えは振り切るべきだ。
先ほどスーパーへ行ったら根こそぎ生鮮食品が消えていた。1番驚いたのは米がないことだ。
米って!!!!
米ほど貯蔵が効く食べ物もないと思うが、米が売り切れるって相当じゃないか?紙製品が売り切れるのは昔からの日本人の購買行動の習慣だが、米って…。
小池知事は
「1歩も外へ出てはいけません」
と言ったのではない。娯楽や集団の集まり、外食やレジャーは控えろとおっしゃったのだ。しかし私たちはなぜか「1歩も外へ出ず軟禁されるべし」と解釈している。
スーパーだってそんな至近距離で人と会話する場所じゃあるまいし、なぜ私たちは今回のコロナに限っては他人に「譲り合い」の心が沸かないのだろう・・・?
私たちは今回のコロナ騒ぎで隣人を敵に見ている。マスクを買うか買わないか、1枚でも多く買ったほうが勝ち。他の人にマスクが行き渡らなくてもかまわない。医療関係者、介護関係者、教育現場で働く最もマスクが必要な人に行き渡らない。
彼らを殉職させることこそ日本の終わりだ。
先日内科に行ったらまるで野戦病院だった。定期的に会っている内科医(おそらく同い年くらい)だが、疲れ切った顔に不憫になる。こういう人こそ生き延びなければいけない。
しかし今私たちは他人のことをあまりにどうでもいいと思っている。自分の精神が安心できればいいのだ。だからマスクを買う。家にあるのに買う。ストックがあればなお安心する。それが買い占めだ。
今日実家の父に電話をした。地方で、この県に感染者が1人いるかいないかのまだまだ楽観的な場所だ。私の夫は花粉症なのだがマスクがない。辟易する。私の親戚は薬局経営や医療従事者が多いので、1箱くらい余っていないかと尋ねたのだ。
「あのさ、マスクない?あったら1箱送ってほしいんだけど」
「だいぶ前からないよ。体温計も入ってこない」
・・・・・・・・・。
そりゃ、私の実家はかなりの田舎だが体温計がないって、、、どれだけ人々は不安な購買行動をしているのか。。
地元の友人に聞いてもマスクのために朝9時からドラッグストアーで並んでいるそうだ。いやいや、感染者がただ1人の状態でそれはないだろう…。今最もマスクが必要な人に行き渡らせなければいけない。都市の密集度&警戒レベルに比べたら、体温計買い占めるなんてどないやねん!
こういうのってゴミと一緒でさ、人は不安なときとにかく溜め込み行動に出るんだろうな。なんでもいいけどあれば安心、そういうもんだろう・・・。
でもね、自分だけが乗り切ろうと思っていたら、痛い目に合うよマジで。「自分の身は自分で守れ」、確かにそうかもしれないけれど、私たちが幾たびの国難を乗り越えることができてきたのは、ひとえに日本人の性格の良さ、こういうとき譲り合う心ではなかったか?
311の震災の時、信号が停電しても行く道を譲り合い、配給でも順番に並んで盗みをはたらかない世界に誇れる思いやりこそが、国壊滅の受難への勝利の極意ではなかったか?
この10年で私たちはそんなに寂しい国民性になったのか?
自分だけが乗り切ろうとする人は、いつか自分に返ってくる。そういう人に限って大切な人を失うよ。絶対に絶対に大切なのは助け合う心だから、それをみんなで忘れないようにしよう。
みんなでがんばろう。みんなで乗り切ろう。そんな雰囲気にしていこう!
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