見出し画像

私のエピソードゼロ #1 滝雲 しおり@にいがたIDOLproject

こんにちは、皆さん。今日は少し勇気を出して、私の物語を皆さんに聞いていただこうと思います。普段は、SNS上で私の日々のアイドル活動を見ていただいているし、今後は、歌などで自分を表現していますが、今日は言葉を通して、私の心の中をお見せしたいと思います。長くなりますが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。


好奇心旺盛な幼少期

私の子供時代は、少し変わっていたかもしれません。同い年の子たちがおままごとに夢中になっている中、私はいつも自分だけの「研究テーマ」に没頭していました。
例えば、5歳の時は「アリの生態」に興味を持ち、庭に小さな観察所を作りました。砂糖や果物の切れ端を置いて、アリたちがどう反応するか観察するのが日課でした。母は最初、虫好きの娘に少し困惑していたようですが、やがて「好きなことを追求する姿勢は大切だ」と理解してくれました。
7歳の時は「雲の形」に夢中になりました。毎日空を見上げては、雲の形を絵日記に描いていました。「あの雲はウサギに見える」「この雲は船みたい」と、想像力を働かせるのが楽しくて仕方ありませんでした。
そんな私を、周りの子たちは少し変わった目で見ていたかもしれません。でも、私にとってはそれが自然なことでした。世界は不思議なことで溢れていて、それを一つずつ理解していくのが楽しかったのです。

揺れる大地、揺れる心

私が4歳の時、東北地方を大地震が襲いました。その日の記憶は、少しだけ今でも残っています。突然の揺れ、停電で真っ暗になった部屋、そして周りの大人たちの慌てふためく様子。幼い私には何が起こっているのか理解できませんでしたが、ただ怖くて仕方がありませんでした。津波が来るかもしれないと町中で叫ぶ声が聞こえ、高台に避難しました。
一番覚えているのは、避難所でお母さんが私を強く抱きしめてくれたことです。その温もりが、恐怖で凍りついた私の心を少しずつ溶かしていきました。でも、その後しばらくの間、小さな揺れでも怖くてたまらず、お母さんが言うには、夜中に目を覚ますことがよくあったようです。
震災後、街の風景は一変しました。住んでいたエリアは立ち入り禁止になったり、近所のおばあちゃんの家は屋根が崩れてしまいました。大人たちは疲れた顔で復興作業に励んでいました。幼い私にできることはほとんどありませんでしたが、「早く元の街に戻ってほしい」と強く願いました。

新しい街、新しい不安

その後、家族で新潟に引っ越すことになりました。新しい環境、知らない顔ばかり。転校した小学校では、友達作りに苦労しました。東北弁のなまりが残る私の話し方を、クラスメイトが面白がって真似をすることもありました。そんな時、私は、無意識に自分の言葉をできるだけ少なくすることで、目立たないようにしていました。もちろん、いじめられていたわけではありません。私が自分で心を閉ざしていたのです。

自然と教室の隅っこの席が私のお気に入りの場所になりました。休み時間、みんなが楽しそうにおしゃべりしている中、私はいつも一人で絵を描いていました。その絵には、東北の懐かしい風景や、地震の後の街の様子が描かれていました。言葉にできない思いを、絵に込めていたのかもしれません。

サチコとの出会い

そんな寂しい日々が続いていた頃、私の人生に変化が訪れました。それは、黒猫のサチコとの出会いです。
ある雨の日、学校からの帰り道で見つけた小さな黒い影。雨に濡れて震えている子猫でした。迷わず抱き上げると、その小さな命が私の手の中で震えていました。家に連れ帰り、両親に相談しました。最初は戸惑っていた両親も、私の必死の様子を見て、飼うことを許してくれました。
こうして、サチコは私たちの家族の一員になりました。名前の由来は、幸せを運んでくれる猫という意味を込めて、「幸子」から「サチコ」としました。
また、新潟の有名人といえば小林幸子さんというお父さんの意見も取り入れてました。
サチコは、私の想像以上に自由奔放な性格でした。時には突っぱねるように背を向け、かと思えば甘えるように膝の上に乗ってくる。そんなサチコの姿に、私は強く惹かれていきました。
人間関係に悩んでいた私にとって、サチコの存在は大きな慰めでした。学校で寂しくても、家に帰ればサチコが待っている。そう思うだけで、少し頑張れる気がしました。
サチコの生き方は、私にとって一つの理想でした。人の目を気にせず、自分の気持ちに正直に生きる。そんなサチコの姿に、私は憧れを抱くようになりました。「私も、サチコのように自由に生きられたらいいな」そんな思いが、心の片隅で芽生え始めていました。そう考えるようになったら、自然と学校でも少しずつ話せるようにもなっていきました。

一緒にゴロゴロ

音楽との出会い

言葉で自分を表現することが苦手な私でしたが、音楽には不思議と心惹かれました。特にダンスをしている時や、好きな曲を聴いている時は、全てを忘れて夢中になれました。体を動かすことで、言葉では伝えられない何かを表現できているような気がしたのです。
中学校に通うある日の音楽の時間、先生がギターを弾きながら歌を教えてくれました。その時の先生の表情が、とても生き生きしていて印象的でした。「私も、あんな風に音楽を奏でてみたい」そう思った瞬間でした。
放課後、勇気を出して先生に「ギターを教えてください」とお願いしました。先生は優しく微笑んで、「いいよ。でも、続けられるかな?」と聞いてきました。その時、久しぶりに自分の声で強く「はい!」と答えることができました。

心の扉を開くメロディ

そんな私を知って、お父さんがギターを買ってくれました。最初は指が痛くて、音もうまく出せなくて挫折しそうになりましたが、少しずつコードが弾けるようになり、やがて歌いながらギターを弾けるようになりました。
練習を重ねるうちに、不思議なことに気づきました。ギターを弾いている時、地震の恐怖や転校先での孤独感が薄れていくのです。メロディを奏でる指の動きに集中していると、嫌な記憶が遠ざかっていきました。
ギターを抱えて歌っている時、私は初めて心から自由に表現できている気がしました。音楽は、言葉を超えた私の新しい言語になったのです。歌詞の中に、自分の思いを込めることができました。「メタメタ」という曲を作ったとき、震災の日の記憶が鮮明によみがえってきました。でも、それを音楽にすることで、怖い記憶が少し和らいだような気がしました。
サチコも私の音楽が好きみたいでした。ギターを弾き始めると、どこからともなく現れて私の足元に座り、聴き入っているような仕草を見せるのです。時には、鳴き声で「合いの手」を入れてくれることもありました。サチコと一緒に音楽を楽しむ時間は、私にとってかけがえのない癒しの時間でした。

時間があればギターを弾いてる

運命の出会い

高校生になった頃、ある日SNSで「にいがた IDOL project」のオーディション告知を見つけました。正直なところ、自分がアイドルになるなんて考えたこともありませんでした。テレビで見るアイドルたちは、いつも明るくて元気で、人々を笑顔にする存在。そんな輝かしい存在に、内向的な私がなれるとは思えませんでした。
でも、何か変わるきっかけが欲しかった私は、思い切って応募することにしました。「もしかしたら、音楽を通じて多くの人に何かを伝えられるかもしれない」そんな小さな希望が、私の背中を押しました。
応募用紙を書いている時、手が震えていました。自己PRの欄には何を書けばいいのか分からず、悩んだ末に「歌を通じて、言葉にできない思いを伝えたいです」と書きました。

お父さんは心配そうに言いました。「アイドルのように笑顔で表現できるの?傷つくだけじゃないかな」と。お母さんも「記念応募ぐらいのつもりで参加してみるならいいんじゃないの」と、半ば諦めたような口調でした。
実際のところ、私も自分の中では変化のきっかけになればいいぐらいの気持ちでした。こんな不器用な私が選ばれるわけがないと思っていたからです。それでも、一歩を踏み出す勇気が欲しかったのです。
続く…

Twitter
https://x.com/shiori_takigumo

Instagram
https://www.instagram.com/s.takigumo?igsh=a2F2dnEwZmNtcm0%3D&utm_source=qr

LINEスタンプ
https://store.line.me/stickershop/product/27505343/ja


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?