
英語を話すことが怖くなった英語教師の心情
私は英語教師として、英語を使う仕事をしている。「英語教師」としてお給料をいただいているのだから、ある程度のレベルを求められるのは当然のことだろう。
自分で言うのもなんだか癪だが、全く英語を話せないわけではない。むしろ世間的に見たら、話せる方なのかもしれない。
それでも英語を話すのが怖くなってしまった私の心理を分析してみた。
英語を話すのが怖くなった私
私はある日を境に人前で英語を話すのが怖くてたまらなくなった。
学校外でも、英語教師やっています!と公言している手前、「英語教師なのにこのレベルなんだ…」と幻滅されることも怖くて、自分から英語を話さなくなった。
自分の発音を聴くのも嫌になった。自分の発音はアメリカ英語ともイギリス英語とも程遠くて、なんだか英語教師として実力不足な気がしてならない。
発音だけが問題ではない。発話している時にグラマーエラー(文法ミス)があったら、英語教師として実力不足で恥ずかしい…という気持ちも私の中では強いのだと思う。
そんな気持ちになったのは、日本人の同僚がほぼネイティブレベルに流暢な英語を操る姿を毎日見ているからだ。英語が得意な人の前で英語を話す行為に不必要すぎる苦手意識を感じている。
学生時代までは英語が間違っていても、下手くそな英語でも英語を話すことは楽しかった。そして英語を積極的に使いたい気持ちがあり、実際に使っていたから今の私があるはずなのだ。
それなのに最近の私は職業道具の英語を話すことを楽しいとは思えなくなっている。致命的だ。
経験から得た教師としての収穫
そんな私が英語教師を続けていいのだろうかと悩む一方で、間違いを恐れて英語を話さない生徒の気持ちが鮮明にわかるようになった。新しい授業アプローチができそうだ。
これはひとつ、教師として収穫だったと思っている。
他者からの評価を気にしすぎていた私
なぜ英語を話すのが怖くなったのかというと、英語ができない烙印を押されるのが嫌だからだと思う。
要するに私は、誰かに「できない人」認定をされるのが怖いし、嫌なのだ。だからそうなるかもしれない行動を予め遠ざけている。
他者からの評価を気にしすぎて、「なんとしても他人から評価されなければ価値がない」というマインドにいつも陥ることに気がついた。
面と向かって、「あなたは英語ができませんね」と言われるのならばまだ我慢ができるかもしれない。
が、現実は思っていても口に出す人はいないだろう。
他の先生方は心の中で「あの人は能力不足だ」と思うかもしれないし、自然と私の授業への期待値も下がり、私自身も期待されなくなるだろう…。という恐れ。そうしたら英語教師として今の職場でやっていけない…という不安に駆られる。
他者との比較ほど邪魔なものはない
他人の本当の気持ちなんて理解できるはずもないのに、きっと〇〇だろう…、○○かもしれない、という自分の勝手な推測が私の頭をぐるぐるして私は私を苦しめる。
今までの人生、誰かにすごいねと褒めてもらうことで自己肯定感を保ってきたのかもしれないと今更ながらに思う。
だからなのかいつも他者との比較をして評価を下す自分がいる。
そして、自分は人よりも能力が足りていないと落ち込み、努力しなければ価値がなくなる…と自分を追い込み、追い込みすぎてボロボロになって疲れ果ててしまう。それでも自分に自信が持てないから頑張り続ける。この負の連鎖を何度繰り返してきたことだろう。
この経験からの学び
結論、上を見出したらキリがないということ。自分より能力のある人なんてこの世界にはごまんと存在する。
だから他者との比較に価値を見出さないことにした。
誰にでも自分にしかない良さや得意な分野、自分だけの唯一無二の経験があるはず。それが強みになる。
だからこそ、唯一無二の経験をいかに活かしていくかが大事なのだと思うし、価値がある。同時に、自分らしさを全面的に押し出していくことが自己肯定感を保つためにも必要なことだと思う。経験は誰にも奪うことのできない最強の自分の味方だ。
「自分もできていることはある!自信を持ってもバチは当たらん!」と意識的に考えるようにしてからというもの、少しずつまた英語を話すことに前向きになれている気がする。
改めて自己肯定感は大事だなと思わされた。