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唯川は1987年に目を覚ます 【第3話】

初めて過去に来たとき、
人はどんな行動をとるか?

 
 ベッドの上で目を開けた彼女は半身を起こし、息をゆっくり吐きながら、自分がいる場所を見回しました。
 ――ここは、さっきまでいた病院じゃない。だとしたら「どこ」にいるの?
 胸がどきどきする。まるで見おぼえのない部屋にいるから。
 彼女のいるベッドの位置から見ると、左側が窓で桜色のカーテンがかかっています。正面の壁には高校の制服が吊るされているから、若い女の子の部屋に見えるけど。
 ななめ前には小さなデスク。上に置いている赤い機械には、AIWAというロゴ……これってラジカセ?
 視線をおろすと、部屋の中央には高さ40センチほどのレトロな丸テーブル。上には雑誌が置かれたまま。表紙に「明星」(昭和62年発行)と印刷されている。
 まっさきに頭に浮かんだのは、〈手の込んだいたずらだ〉というもの。人をだまそうとして、部屋中を昭和風の雑貨で埋めつくして。
 思いを巡らせながら、壁際の方に視線をむけると、異常にかわいい高校生が笑ってる。
 木製の棚の上に飾られていた、写真の中の女の子でした。天気の良い日に、どこか坂の上で撮られた一枚の素敵な写真。
 ――この子、こんなに目が大きいなんて、反則じゃないの。
 
 きらめく瞳を見た瞬間に、誰なのかわかりました。
 ――間違いない、わたしのお母さんだ。
 羽根は写真から目を離し、今度はおそるおそる自分の髪の毛をなでて指先の感触をたしかめ、形容しがたい表情を浮かべています。
 サイドにレイヤーを入れたロングヘア。なんてサラサラでつやつやした髪なの? 
 本当の羽根の髪型はショートボブ。ほんの数分で、長くてつやつやで、おまけにいい香りのするロングヘアになるわけがない。
 頭がくらくらする。
 ――本当に「数分間しか」経っていないの?
 視線を下ろすと、身に着けているのはオフホワイトのトレーナーに、洗いざらしたデニムのパンツ。自分の趣味じゃない。そもそもまったく見覚えがない。
 ――そうだ。鏡。
 確かめるためには、あの鏡を見ればいいんだ。
 
 彼女の視線は、クローゼットの前面に貼られた鏡に吸い寄せられます。
 あれを見たら、はっきりする。
 おそるおそる、ぎしぎし音を立てるベッドから右足をおろします。左足もゆっくりついていきます。よろよろ立ち上がると、まるで氷の上を歩いているかのように、そろそろ鏡にむかって歩きました。
 
 ――あの鏡に映るのは――さっきの看護士の話が真実だとしたら――「わたし」じゃない。
 怖くてたまらない。落ち着け。落ち着くんだ。
 一回だけ深く目を閉じて、それから思い切って目を開け、まっすぐ前をみると――
 
 鏡の向こうから自分を見つめていたのは、大きくてきれいな瞳、日本中の男の子たちが、一瞬で心を奪われたあの瞳。
 
 お母さんの唯川夏目でした。 


塩野秋生による補記


 人によってはもちろん異論もあり不愉快かもしれないけれど、もしも外見が才能の一つだと仮定したなら、唯川夏目は完璧でした。
 この角度から見ると頬から顎にかけて、なめらかでふくよかで絶妙な曲線を描いていて。
それに綺麗なカタチの眉毛、まっすぐ伸びた鼻すじ、可愛らしいくちびる。
 なによりもすばらしく印象に残るのは、この人の瞳でした。
 深みのある茶色の瞳。人間の目はこれほど光を反射するのかと思えるほど、きらめく瞳。
 それ自体が生き物のような瞳です。


 
 われを忘れて鏡を見ていた羽根は、風船の空気が抜けたみたいに、その場に座り込んだのです。四月の床の表面は、まだひんやりとしていて。
 膝頭の上においた、細くきれいな指をじっと見て考え込んでいます。
 自分のからだが、別人のからだに変わったのですから、動揺するのも当然です。
 今まで、確かなものだと信じていた「自分」が消えてしまっている。
 こういう場合、大抵の人はパニックを起こすか、現実を受けいれられず殻にとじこもるもの。だけど、この子のふるまいは違っていました。
 しゃがみこんだままの姿勢で顔を上げると、もう一度自分の姿を確かめるように鏡を見はじめたのです。
 最初、その表情はやっぱり硬くて青ざめていて、長いまつ毛も震えていました。
 だけどそれから、この女の子に起こった変化に、驚いたのです。
 
 鏡をのぞきこんでいる彼女は、とても優しい顔をしています。
 いままでぼくが見たことがないくらい、とてもとても優しくて穏やかな顔を。
 この変化をもたらしたものが何か、考えられることはたった一つしかありません。
 鏡のむこう側から、見てくれている人がいたからです。
 その人が、羽根の気持ちを落ち着かせて、安心させる暖かい何かを与えてくれたからだと思います。
 ぼくの言いたいことが、わかってもらえたらいいのですが……。
 
 しばらく時間が経ってから、東京のどこかにある静かな部屋のなかで、一人の女の子がそっとつぶやく声が聞こえました。

 「これが現実に、わたしの身に起こっていることなら、あの看護士さんが言ったことは本当だったんだ。……だとしたら、お母さんは死んだりしない。いつかきっと目をさまして、わたしの名前を呼んでくれるんだ」


完璧な女の子

                      
 唯川羽根と、唯川夏目の〈適合〉は、最高にうまくいっていました。
 運動神経ニューロンの伝達は、末端までほぼ完璧です。17歳の母と娘の身長も体重も血液型も同じだったのでしょうか。
 あとは、母親である唯川夏目の〈才能〉が100パーセント、唯川羽根に移行されているかどうかでした。
 
 そうです……。
 唯川夏目の長女を追いかけてきたぼくは、この部屋にいて、ずっと様子をうかがっていました。右ななめうしろ、1.5メートルの位置にいるぼくのことに彼女は気づいてもいません。(見えていないのですから)
 あの病院にいた時も、ただ見ていただけ。生きている人を眺めている傍観者でしかありませんでした。
 今回は、ちがいます。
 いずれ自分から姿をあらわして、この女の子と向き合って、話しかけないといけない。
 ……自分から向き合って、話しかける? それも17歳の子に?
 たとえば自分の姿を彼女に見えるようにする(だけ)ならば簡単です。(可視化することを願えばいいだけですから)
 だけどこれから3日間、コミュニケーションをとるとなると話は全く変わります。
 これを読んでいるあなたは笑うかもしれない。でも口をひらいて最初に何を言うか、ただの一語だって思い浮かびません。
 生きている人間と――それも女の子と、どのくらい接していないか記憶にないけれど、なにを話したらいいのかわからない。
 自分が彼女にむかって、こういっている場面を想像してみたんです。
 「こんにちは、ぼくは塩野っていう名前です。死んでいるんだけど、これからよろしく」
 
 ……だめだ。ばかばかしくて、とても言えない。だめだ。
 いいわけかもしれませんが、これ以上、彼女を怖がらせたくもありません。今日のあの子には、あまりにも多くのことが起こったから。
 
 いま、羽根は(外見は唯川夏目ですけど、やっぱりぼくは彼女のことを羽根と書きます)
部屋のすみっこで、自分の姿を見下ろしています。
 見覚えのないトレーナー、見覚えのないデニムパンツ、びっくりするほど細いウエスト。
 断言できるのは、ただのトレーナーが、こんなに〈恐ろしいほど似合ってる人〉を見たことがないということ。ドレスで着飾るよりも素敵で、おまけになんとも可愛い。
 ぼくはその姿に目が吸い寄せられてしまいます。
 
 自分がこの世界にいるのは、3日間。
 まだ「監視」ははじまったばかりです。


 ぼくが、どうやって話しかけようかと悩んでいるのも知らず、羽根は考えていました。
 ――あの看護士が言ったとおり、わたしはお母さんの体の中にいる。しかも、変わったのは、自分の体だけじゃない。
 羽根の頭には一つの疑問が浮かびます。あの人が言ったことが本当なら、自分は、1987年にいるのだろうか?という疑問です。
 じっさい、部屋のなかで目にしているものは、2020年代のものとは違います。
 でも、人は過去に来ていることを、それほど簡単に信じられるわけがないのです。ノスタルジックな趣味の人が、レトロスペクティブな家具をそろえているだけかもしれませんし。
 羽根は、顔の半分位を占めるかと思われる大きな目で、箱型のテレビや本棚やドアを順番に、しげしげ見ています。
 ほんとうに過去の世界にいるのか、自分の目で確かめたい。確かめなきゃ。じっとしてなんかいられない、そういう顔つきです。
 ――だったら、確かめるにはどうしたらいい?
 もう羽根は立ち上がっていました。今度は足も上半身も、ふらついてません。
 この十分間でぼくにわかったのは、この子は他の子とは少し違うということです。こんなに早く、別人の体とすんなり〈適合〉した人を見たのも初めてです。(ふたりが親子で、DNAに共通点が多いとしても)
 たしかに〈代替〉として最高の人材だといわざるを得ません。
 
 感心してる場合ではありません。
 すでにこの人は外へ通じるドアに向かっています。
 羽根は「ごめん。お母さん借りるね」と、この場にいない母親に許しを乞い、ローファーに足をつっこむと(隣のハイヒールには目もくれず)ドアを開け、さっさと外へ出ていきました。
 少なくとも、完璧に美しい女子の姿をしたこの人物は、せっかちな性格のようでした。
 
 羽根につづいて、部屋を出てわかったのは、どうやら、マンションの3階にいるらしいこと。古い建物のようで、エレベータはありません。
 羽根の姿をさがすと、もう通路のむこうにいて、階段を使って下におりようとしています。
 ぼくは、あわてて駆けてゆき、彼女が階段をおりていく様子をはらはらしながら見守ります。
 慣れない体で、あちこち動きまわって転んでけがをするのも心配だし、なにもわからないまま外へ出て事故にあったりしたら、それで終わり。
 監視者として、なんて非難されるかわかったものではありません。
 
 ぼくの心配をよそに、女の子は足をふみはずして骨折することもなく、マンションの一階におりたちました。
 エントランスには、幸か不幸かだれもいません。彼女はなんのためらいもなく、まっしぐらに玄関口から足を一歩ふみだしました……
 
 外の世界へ。1987年の夜空の下へ。

つづく


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