唯川は1987年に目を覚ます 【第5話】
トラブルメーカー
未来にしか存在しないものを、過去に持ち込むことは禁じられています。
まだ発明されていないデバイスが過去の時代の人目に触れたら、その後の世界にどんな影響をもたらすか分からない。
そんなことは承知の上です。それでもぼくは、ルールを破ってスマホを持ち込んできました。
2000年代生まれの人と、初めて会話するのに最適と思われたからです。
灰色のセリカのドライバーが、近づいて来る女の子に警戒されないようにステレオの音量を下げたとき、かすかなメロディが、どこからか聞こえてきました。
だれもが一度は聞いたことのある有名なバロックの名曲でした。
バッハ作曲〈主よ、人の望みの喜びよ〉1723年
明るく軽やかで、しかも神秘的なメロディ。
21世紀生まれの羽根は、すぐに気づいたのです。
デジタル化されたメロディを奏でている「もの」の正体が。
羽根は、自分の周囲を見まわし、どこにあるか探しています。
――あった!
右手のブロック塀の上に、ぼくが置いたスマホの液晶画面が、太りぎみのホタルのように光っています。
羽根の顔は、ぱっと輝きました。それは溺れかけた人に投げられた浮き輪。たとえ、1987年に存在しているのは筋の通らない機械であっても。
すばやく駆けよって、光るスマホをわしづかみにし、耳に押し当てました。
ぼくは、自分用にもう一台持ちこんだスマホを使って(一台では役に立ちませんから)できるだけ、穏やかな声で話します。この人をこれ以上、こわがらせたくなかったから。
「よく聞いて」
「あの」
「スマホは、まだこの時代にはない。君が受け入れやすいと思って使っているだけ。落ち着いてぼくのいうことを聞いて。できる?」
「……はい」
羽根の口から、ほかに言葉が出てきません。
「きみの百メートル先に、クルマが一台止まっている……だめ、顔を動かすんじゃない。
羽根は大きな黒目だけ動かして、セリカを確かめています。
「クルマには男が3人のってて、さっきからきみのことを狙っている」
彼女はすぐに、自分が危険な場所にいることを理解しました。
「そこにいたらまずい」
ぼくの言い方が悪かったのか。
あわてて、羽根は体の向きをかえて走りだそうとします。そのとたん、右のつま先が履きなれない靴に接触して転びそうになります。
「走っちゃだめだ。あいつらを刺激しないように……そう、まだセリカは動いていない、迷っている」
「あなたは、だれなの?」
「あとで説明する」
幸運なことに、一台のベンツが、通りに侵入してきました。途中で曲がることなく羽根のほうへ向かって来ます。
灰色のセリカは動かず止まったまま。でも、このせまい道路のハバでベンツとすれ違うのは、無理があります。
案の定、ベンツは接近してくると、セリカに「動け」とライトでパッシングします。
「いまのうちに部屋に戻ろう。転ばないように足もとをみるんだ」
セリカがマニュアルギアをシフトして、のろのろ後退しているすきに、羽根はまっしぐらにマンションにむかっていきます。
マンションの入り口まで、そんなに遠くありません。
二十秒後にはマンションのエントランスにたどりつきました。
さっきと同様、だれの姿もありませんでしたが、もしも男たちがUターンしたとしても、ここまでは追いかけてこないはず。
羽根はスマホを耳の奥に埋めこむほど強く押し当てたまま、マンションの一階エントランスを抜け、奥の階段室へと進んでいきます。
それにしても……ぼくは少しだけ憂鬱になりました。
あの男たちにつかまっていたら、ひどいことになる可能性だってあった。
いま階段を上がる彼女の頬は走ったために上気して、もぎたての桃のような色になり、うっとりするほど美しいんです。
「監視が必要だ」というのはどういうことなのか、わかった気がしました。
この子は、外に飛び出してたった十分しか経ってないのに、もうトラブルを引き寄せている。知らない過去の世界に突然やってきた、異常に美しい女の子が、どんな危険と遭遇するかわかったものではない。
これからの3日間は、ほんとうに目を離すことはできないかもしれません。
あなたは、だれなの?
「あやしいクルマのこと、教えてくれてありがとうございます」
羽根は階段をのぼりながら、宙にむかってぺこんと頭を下げてから、さっきの質問を繰り返しました。
「あなたはだれ……ですか?」
たったいま危ない目に遭いかけたのに、頭の中は電話をかけてきた得体のしれない相手への疑問でいっぱいです。
ぼくはこの子に、自分の〈役割〉のこととか色んなことを説明しなければいけません。
だけどそれって、もう一回死んでしまいたくなるほど苦手な領域です。
うまく説明できる自信がないままに、こんなふうに切り出しました。
「2024年の病院で、きみと話をしていた白い服の人が、ぼくをここに送り込んだんだ。きみを一人にしないために」
「あの看護士さんが?」
「看護士じゃない」
「だったら、なんですか?」
「あの人がなんなのか、そのうち、説明できるといいけど」
「ぜんぜんわからないです。それで、あなたはだれなの?」
「きみは、部屋の番号をおぼえてる?」
羽根は階段を上りきると、鍵もかけずに飛び出したドアの前で立ち止まりました。
「303です。あの」
「そこがきみのスタート地点なんだ」
「スタート地点?」
羽根は、顔をしかめながらドアを開けました。
靴を脱ぐためにかがんでいる間に、ぼくは横をすりぬけて部屋の中に入ります。
ほんの少し風にあおられて、ほんのり汗をかいた彼女の右の頬に、一房のしなやかな髪がかかっていました。
部屋に戻った羽根は、スマホを握り締めたままで、ベッドのわきに立っていました。
ふうっと、ため息をついています。自分の肩に力が入っているのに気づき、落ち着かせるために目を閉じて力を抜いてから口をひらきました。
「あなたは、ここが『スタート地点』だって言ったけど、わたしの身に何が起こっているか知ってるということですか?」
「知ってる。君がどこからやってきて、本当の君は誰なのかも」
「そう……よくわかりませんけど、とにかくよかった。わたしを知っている人がいて、こうして電話をかけてくれてるんだから」
この子はかなり前向きな性格です。それに羽根は意識していませんが、彼女の唇からこぼれる声は、なんて耳に心地いいんでしょうか。
「あの、お願いがあるんですけど、このスマホでお父さんと話してもいいですか?」
「いいって言いたいけど、お父さんは、君が誰なのかわからないよ」
「わたしが、わからない?」
「君は生まれていないんだ。だからお父さんは、まだお父さんじゃない。それどころか、結婚さえしていない」
――生まれていないのに、ここにいるというのはなんて奇妙なんだろう。
「それに、スマホはどこにもつながらないよ。電話の基地局は電波を受けつけない」
「どうして、あなたとは話ができるの?」
「無線の周波数帯とは、まったく別のネットワークを使っているから」
わけがわからない、という様子で彼女は首を振ります。長いつやつやした髪がふわふわっと踊ります。
羽根は、落ち着かないようすで部屋の中を歩きはじめました。広くない部屋ですから、ぐるぐると時計の反対回りに。
まるで水槽の中にいる美しい生物のようだと思ってしまいます。
「どうしてもわからないんですけど、あなたって…」
窓に近よるとカーテンを開き、サッシを右手で横にスライドさせました。
「どこから電話をかけてるんですか? さっきは、あやしいクルマのことを教えてくれたし、わたしがマンションの近くにいるのもわかってた」
羽根が立っている窓の向こう側、東京の夜空の下には、たくさんの部屋の明かりが灯っています。誰も窓辺に立っている人はいません。下の通りにも誰も歩いていません。
サッシを閉めてふりかえり、探るような目で、空っぽの部屋を見ています。
――この子は勘がするどい。部屋のなかに誰かがいて、見られている気配を感じているようです。
そろそろぼくは、決断しなくてはいけませんでした。
「あの……」羽根は、窓辺から移動して、玄関のドアを確かめます。
「あなたはまるで、わたしのことを見てるみたいですけど」
「ごめん。そうなんだ」
「え?」
羽根はスマホをゆっくり耳からはなしました。だれかの声が、部屋の中から聞こえてきたから。
それは、スマホを通して話すのをやめた、ぼくの声です。
背中を向けて立っていた羽根は、スマホを握った左手を下ろしたまま、固まっています。
まるで、時間が止まったようです。
つぎに何を言うべきか、まっ白になった頭の中から消えてしまったぼくより先に、羽根が口をひらきました。
「……ここに。いるの?」
「うん。いる」
「かくれてるの? かくれる場所なんかないよ」
「何もしないから怖がらないで」
この瞬間がきらいだ。この沈黙もきらいだ。
ぼくの存在に気づいて急におびえはじめ、最後には叫び声をあげる。
――だけど、目の前にいる女の子はそんな予想を裏切って、きっぱり言いました。
「わたし怖がってません。今日はいろんなことがあった。もう何があっても怖がりません」
たしかに羽根はおびえていませんし、むしろ落ち着いてさえ見えます。
「それより誰もこの部屋にはいなかった。ドアにカギもしっかりかけた。それなのに誰かがここにいるなんて変です」
「ごめん」もう一回、ぼくは謝ります。「さっきからここにいる。きみが、この部屋に来てからずっと」
「ずっと? わたしには誰も見えなかった。どうやったらそんなことができるんですか?」
「説明すると……長くなるんだ」
「長くなっても説明すべきだと思います」
「そうだね」
「ううん、やっぱり今はいい。けど、わたし振り向いてもいいですか? こうして背中ごしに話してるの、なんだかいやなんです。振り向いたら誰もいなかったりするんですか?」
彼女は質問したくせに返事も聞かず、右足を軸にしてくるりとターンしました。
……むしろ、怖がっていたのは、ぼくのほうです。
羽根のくちびるがゆがみ、恐怖の叫び声が漏れるのを、何よりも怖がっていました。
このとき、振り向いた彼女の心のなかに、恐怖心がなかったと言えば嘘になります。
でも、それよりもっと大きく膨らんでいたのは、燃えるような好奇心でした。
……こうしてぼくたちは出会ったんです。
つづく
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