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唯川は1987年に目を覚ます【第4話】


過去の町、未来の子

                                 
 ……このときは、むしろぼくのほうが戸惑い、驚いたかもしれません。
 
 夜の匂いと、頬にあたるひんやりした春風の感触を感じたからです。
 長いあいだ(たぶん死んでから)感じることがなかった感覚でした。
 理由は不明ですが、1987年にやってきたぼくには、ずっと失っていた〈五感〉というものが一時的によみがえっているみたいです。
 どういうことなんだろう――ほんの数秒だけ考えこんでいたぼくが、ハッとわれにかえると、一台のホンダ・シティがクラクションを鳴らし、ぎりぎりの間隔で羽根の真横を通り過ぎるところでした。
 あわてて彼女は通りのすみっこに飛びのきます。
 マンション前の道路は、車が二台すれ違うことができないほど、せまいハバしかありませんでした。
 ……この子の反射神経はみごとだ。
 けど、頼むから車に轢かれたりしないで。
 通りのすみっこに避難した彼女は、子猫のようにきょろきょろまわりを見ています。
 
 1987年の時間では、夜の8時過ぎでした。
 月が出ているからまだマシだけど、この頃は街灯が少なくて、あたりは何もかもがぼんやりしています。
 それでも、しばらくすると目が慣れてきて、しだいに夜の風景が姿を現してきました。
 初めて街を見たときの印象は……
 さほど変わっていないようにみえました。
 最初はそう思った。
 一階か二階建ての背の低い建物が目につくけど、五階より高い建物が少ない。そのくらいです。
 ここは住宅と雑居ビルの入り混じった典型的な東京の街。大きな変化は起こっていないのかもしれません。おなじ日本だし、たった36年前だから、一見2024年と変わっていなくてもおかしくないんです。
 ……だけど、なんだろうこの感覚は? 街を見ていると、ぞくぞくします。

 このぞくぞくする違和感の正体がなんなのか、最初はわかりませんでした。
 とつぜん奇妙な世界に置き去りにされたみたいな感覚をおぼえます。
 おなじような違和感があるのか、羽根も形のいい眉をしかめ、不思議そうな表情で東のほうにむかって歩いていきます。

 違和感の正体がしばらくわかりませんでしたが、羽根の後ろをついていくうちに、ようやく気がつきました。
 時間の経過とともに、いつの間にか変わっていて、変わっていたことを気にも止めかなったもの。
 視界に入るすべてのものの「細部」が、違うのです。

 電柱に貼られた広告のフォント、家の屋根のカタチ、窓と壁面のバランス……つまりディテールが、ほとんどすべて違う。
 そう気づいたとたん、西の方角から灰色のクーペがあらわれ、エンジン音を響かせながら狭い通りに侵入してきました。今度のクルマは羽根を後ろから追いこすと減速し、二百メートル先でゆっくり停車します。

 車種はトヨタ・セリカ(三代目・生産終了)――見るからにボディとライトの形が、2020年代のクルマとは違いました。

 もしかすると、いやたぶん、2024年と1987年のあいだに変わったのはクルマの形と建物の高さと密度と、あとは結局ディテールなんだと思います。
 
 ぼくの前を行く羽根は、ときどき頭を左右にふり、一歩一歩、足の裏で地面の感触を確かめるようにして歩いています。
 いまの彼女は過去の世界にいる。もはや疑いようがありません。羽根一人をだますために、街を丸ごと作り替えるなんてできっこない。

 初めて羽根のこころの奥に、灰色の魔物のような〈不安〉が膨らんできます。これは夢でも妄想でもない。正気を保つために、こうして歩き続けないと自分を見失ってしまいそうです。

 街灯と街灯の間隔が開いているために、羽根の歩く夜の通りはますます暗くなりました。
 東京ってこんなに暗かったのか……停車したセリカのブレーキランプが、闇の中から羽根を見つめる赤い目玉のように見えます。
 セリカからは誰もおりてきません。

 車内には3人の男が乗っていて、この距離では聞こえませんが、なにかを話し合っていました。
    


最初の危機

 彼らは車を止めて話しているだけ……自分に言い聞かせます。
 とくに問題はない、ぼくが心配することは何もない。
 ――それにしたって、女の子が一人で夜にうろうろ歩いていても、いいことは何もありません。
 いまの羽根は、まるで家出少女のように見えます。(ある意味ではそうですが)この場所は大通りから離れていて、ひっそりし過ぎている。
 ずっと西の方で、スーツ姿の男が羽根の反対方向にむかって歩いていくだけ。ほかに人通りはありません。
 
 しかたねえな……
 ぼくは心を決めました。
 足を速めて羽根を追いこして(もちろん羽根は気がつきません)、そっと右側のブロック塀の上に〈あれ〉を置きました。
 顔を上げてセリカを見ると、リアウインドウごしに、ひょこりと若い男の顔があらわれ、ぎょっとします。

 後部シートに座っていた男は奇妙な髪型で、黒い丸首のTシャツに銀のネックレス。この時代のサラリーマンでは、あり得ないコーディネート。
 ――男の目線の先には、羽根がいました。これだけ距離があると男の心のなかは読めないけど、羽根を凝視するトカゲのような目をみたら、考えていることはわかります。

 くそっ………心のなかで毒づきました。
 どんな時代だろうが、ばかなやつがいる。
 セリカの車内で息をひそめている男たちは、重そうな鞄をかかえて歩く会社員さんが視界から消えるのを待っていました。

 羽根はどういうわけか、そのままセリカのほうに歩いていきます。
 彼女の頭のなかは、目のまえの現実を消化することにいっぱいで、路上に止まっているクルマには、まったく注意を向けていないのです。
 奇妙な髪型の男たち3人は息をひそめ、爬虫類のようにきょろきょろと周囲の様子を伺っています。
 
 ……もう、このままにしていられない。
 ぼくにできことは、一つしかありませんでした。

つづく


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