2024年、人生の点と点がつながった。
駆け込みで2024年のふりかえりを残しておく。
2024年は
「点と点がつながった」まさにそんな一年だった。
人生のトラウマに向き合った
いきなりヘビーな見出しだが、そこまででもない。ただ、長い間、見て見ぬ振りをしてきたことに向き合えたのは、めちゃくちゃ大きかった。
生まれ持った生きづらさに対して、自分なりには本気で向き合ってきたつもりだった。でも、一番向き合うべき相手との対峙を避けていた。
親である。
無意識的に感じ取ってきた親からの「期待」を背負い込み、人生の転機となる節目節目で、どこか親の価値観を持って意思決定をしてきたことに向き合えた。
「あの違和感はコレだったのか」
「言われてみれば、ワクワクよりも責任感が強い」
点と点がつながった。
向き合うことを避けてた一番の理由は明白で、それを認めたら親を否定することにならないだろうか?という不安があったから。
でも、違う。
その時(しかも20年も前)に親がそう思っただけで、ぼくに責任もなければ、それが正しいかどうかは分からない。
Noということは悪いことじゃない。
むしろ、自分の意思で生きていくべきだ。
34歳にして、生きづらさの上に乗っかった別の生きづらさの正体が見えた気がした。
でも、もう大丈夫。
「もう一回、自分で自分の人生を歩いていこう」
自然とそんな気持ちになれているから。
旅でつながる仲間の輪、ご縁の輪
POOLO LOCALの視察で北海道の知床へ行き、
石垣島や宮古島、座間味島、阿嘉島、西表島
沖縄のいろんな海の世界にふれてきた。
家族で念願の小笠原諸島にある父島にも行った。
仙台で古くからの友人とも深く語り合えた。
ばーちゃんの納骨を機に、佐賀県に初上陸。
名古屋や東京でたくさんのコミュニティメンバーと出会えた。
すべての場所で
来るべくして来たんだろうな
点と点がつながった。
そんな感覚だった。
多くが「人」に会うことが目的の旅だったように思う。だから、現地の情報をあまり知らずに訪れることも多かった。
でも、というか、だからこそ
現地の仲間が情報をくれたり、
ふらっと立ち寄る場所にご縁を感じたり、
きっとこの旅でしかつながらなかったであろう出会いがたくさんあった。
常に頭のどこかには、「沖縄で今後、海の活動をどうしていこうか?」みたいなことを考えてたので、
めちゃくちゃたくさんのインスピレーションをもらった。
憧れの人に出会えたり、
新たな目標が見つかったり。
沖縄の生活もめちゃくちゃ良いのだけれど、
やっぱり定期的に外の世界で刺激もほしい。
だからこそ、沖縄の生活や活動が充実する。
あらためて、自分にとって旅の必要性も感じた。
やっぱり、旅はいい。
3月の知床から、沖縄でやりたいことが見えてきた
3月に知床を訪れる前、きっとここに
ぼく自身の海の活動のヒントがあると思った。
実際に視察して、現地の活動家の方にお話を聞いて、やっぱり理想だなと思った。
ヒグマの保全に関わる活動をするために、
観光の本職をベースに置きつつ、
本職の環境も自身の活動に活用している。
様々なステークホルダーを巻き込んでいるし、
観光という仕事を通して大好きな地域を伝える人生を楽しんでいる。
好き✖️やりたいを実現している理想的なスタイル。「こんなふうに生きられたら」うっすらそんな気持ちになった。でも、まだこの時は憧れレベル。
それから、たくさんいろんな地域を訪れ、
人や自然との出会いに感動しつつも、
「やっぱり海は沖縄本島が一番だ」と気づいた。
そして、もっともっと、この海の価値を
たくさんの人に伝えたいと思った。
とくに地元の子供たちや、子どもを取り巻く大人たちへ。
なぜなら、観光や開発が進み続ける沖縄において、手つかずの海というのは本当に減っている。
でも、もっと大切にしなくちゃ、島の経済は生き残れない。
これを単なる焦りや危機感で発信してもハッピーではないし、イチ移住者の声に影響力はない。
だったら、というかそもそも、
その土地に暮らす人たちが島の海を誇れたら最高に良いな、と思った。
一つのシビックプライドとして、県内から訪れる人に向けて、「沖縄の海ってすごいんだぜ」と言える感じになったら最強だなと思った。
そこで、知床での経験が思い出され、
点と点がつながった。
人の価値観や行動を、力や言葉で変えるのは到底むずかしいし、本質的に変わるもんじゃない。
ただ知らないだけのことが多く、
シンプルに見ている世界がちがうんだ。
だったらまずは、自分が伝える人間になって
いろんな人に知ってもらえばいいんだ。
あらためてそう思うことができて、12月には東京での展示会開催を決断できた。
これは県外の人に向けてだったけど、
大きな手応えがあったので、2025年は再び県内での活動も力を入れていきたいと思う。
価値観とコンフォートゾーンが、want toにつながり始めた
医療の仕事について11年
まわりの人や友人からは「ステキな仕事だよね」
「社会にとって大切な仕事だもんね」
とポジティブに言ってもらうことが多い仕事。
ただ、当の本人はどことなく、心の中でしっくり来ていないのが本音だった。この一年ほどは。
「ありがとう」がやりがいになるとか、
人の役に立てるとか、
そんなふうにPRされることが多いし、実際そう思ってやってきた。
でも、なんかちがうぞ。
ありがとうと言われてもまったく嬉しくないし、
むしろ居心地の悪さを感じる。
なんなら、会社の方針とかの前に
国が進める医療の方向性だったり、
待遇に対する考え方など
「搾取」の文字しか頭をよぎらない時期もあった。それでも、国の方針で働くしかない。
国家資格で働く、というのはそういうことだから。
そうなった時、そもそもの違和感に気づく。
本当にこの仕事をやりたかったんだっけ?
冒頭のトラウマの話につながる。
自分で選択した大学へ行き、資格を取った。
進路を決めるにあたって親からの助言が、自分の中で強い指針になりすぎた自覚はある。
「安定」「確実性」
医療という手堅い仕事を選ぶのは良いことだ
という感覚があった。
でも、いろんなモヤモヤに気づいてしまった今、この仕事でなくても良いことはわかっている。
というか、分かってしまった。
自分が、自信をもって社会や世界に発信できる仕事をしたい。人生の大半の時間を費やすのだから。
モヤモヤの原因とwant toやりたいことがつながり始めたのは、自分の中で大きな一歩。
ずっと医療の世界にいることには何年も前から違和感があったのに、認められない、動けない。
そんな状態だったから。
来年は心のままに動いていこ。
駆け込みの振り返りを実家に向かう帰り道に書いている。
過去と今、未来
いろんな点と点がつながった2024年
全ては動き続けて出会い続けた収穫だと思うので、2025年も歩みは止めず、動き続けます。
出会ってくださったすべての方に
感謝。