めんどうなことは躱して生きてきた
めんどうなことが1番嫌いだ。
それはあくまで自分が思うめんどうなこと。
掃除や洗濯、料理や勉強は違う。
それは楽しいこと。
友だちとの喧嘩、家族とのつながり、誰かを祝福する時間、誰かの喧嘩の仲裁、興味がないことへの努力、興味のない人との関係構築、メイク、球技の練習、何につながるか分からない練習を続けること。
嫌いなことの中で時間がかかりそうなこと、頭を使わなければいけないこと、体力を使うことは基本的にめんどうなこと。
いつもそれを避けてきた。
いまいち仲良くなれないし、いつかぶつかりそうだなと思うクラスメイトからは離れて生きてきたし、よく分からない人が集まる合コンや飲み会は行かないか一瞬で帰っていた。友だちとは喧嘩したことがないし、軋轢があれば仲直りするための話し合いがめんどくさくてそこで友だちという関係にシャッターを降ろした。ずっと苦手な球技はずっとできないし、メイクだってできない。どっちもいまいち興味がわかなかった。
家族とだって、いや、母親と父親とだってずっと仲良くない、価値観のずれが年々増えていく母親とは対話をせずに距離を広げていったし、父親とは中学生以来まともに言葉を交わしていない。母親と対話を求めた大学3年生の冬、あれはたぶん人生で初めて、自分が考えている本当のことを誰かに伝えた日だ。そこで終わった。聞き入れられることなく終わったその日、たぶん誰かに本気で自分の気持ちを伝えることも終わったと思う。
唯一頑張ってみた日だったんだけどな。
逆に言えば、それ以外で感情と共に何かを伝えたことはないと思う。きっと幼稚園生のときくらい。それくらいのときはあったんじゃないかな、記憶にないけれど。
そうやって、めんどうなことは躱してきた。たぶんプロのサッカー選手くらいの勢いで。それがきっと自分の人生の幅を狭くしていることなんて、ずっと分かってる。でもできない、怖いから、めんどくさいから。
そんなことを友だちの結婚報告を聞いて思った。この友だちの結婚が日本にいるときじゃなくてよかった、出向かなくていいんだと思ってしまったから。
いろいろなことから逃げてきたことのひとつに、今の海外移住もあるのかもしれない。誰も知らない土地で、のほほんと過ごしたい。今までの関係は崩さないまま、めんどうなことからは遠ざかりたい。そんな気持ちもあった。
ただありがたいのは、そう言っても「しおんぽい」という言葉で丸めてくれる友だち。そんないい友だちに最低な友だちでごめんと思いながらも、やっぱりめんどくさい。
サポートしてもらったことないから、してほしいな