アイスクリームと脱走者/17
17.罪悪感を越えて
遠くで啓吾さんの声が聞こえた。本当はすぐ近くだったはずだ。
煙草の匂いと、すぐ後ろに誰かの気配がある。どうやら、わたしはカウンターに突っ伏しているようだ。
「めずらしいな。美月が店の子連れて来るなんて」
「そうね。彩夏ちゃんとはずいぶん前に来たけど、愛莉たちもいたから。あとは、ヒロセ君」
ぼんやりしていた頭が、パッと覚醒した。
ヒロセ君。そんな呼び方を美月さんがしたことはなかった。問い質したい気持ちを押さえて、わたしは寝たフリをする。
「彩夏ちゃんのことで連れてきたんだろ?」
「そうなんだけど」
「そんな話しないうちに寝ちゃったけど、いいの?」
「何かあれば言ってくるでしょ。千尋ちゃんって分かりやすいし、ダメならもっと暗い顔してる。圭って男の子がいたじゃない? あの子が何かしてくれたんじゃないかな」
「ああ、千尋ちゃんをさらってったヤツ? あいつも苦労してそうだよね」
「そうね。でも苦労なんていくらでも転がってる。友花や愛莉も、今はうまく行ってても何もないわけじゃない。苦しみを抱えてその場にとどまり続けるのも、罪悪感を越えて別の道を選ぶのも本人次第よ」
美月さんはいつもより饒舌だった。楽しげな声は心と裏腹なように思える。
「罪悪感を越えて、か。美月らしいな」
「罪悪感、ない? 苦しみから逃げ出すとき」
圭のことを思い出した。罪悪感を消したくない、そう言っていた。
「俺は人に迷惑かけて当たり前だと思ってるから、美月みたいに罪悪感を感じたりしないよ。苦しかったら逃げる。
まったく罪の意識がないってわけじゃないけど、逃げ足が早い分軽くすんでるかな。逃げないで戦ってるヤツって、それだけ罪悪感も大きそう」
「逃げることもできないまま引きずってると、どんどん罪の意識が大きくなる」
「ヒロセ君のこと? 未練があるわけじゃないだろ」
心臓がバクッと跳ねた。寝たフリなんかやめて、耳を塞いでしまいたかった。
「未練なんてないわよ。昔のハナシ」
美月さんの声はサッパリしていて、わたしはホッとした。そのことがなんだか虚しかった。
「もう、四年くらい前か。あの時の美月は必死に戦ってたな。罪悪感と」
「そうね。奥さんへの罪悪感。ヒロセ君を見捨てることへの罪悪感。板ばさみだったな。まわりが全然見えなくて、本当にどうしていいか分からなかった。奥さんには今でも悪いと思ってるけど、ヒロセ君への罪悪感なんて感じる必要なかった」
「美月は弱ってる男を見るとほっとけないんだろ。そんなヤツは谷に突き落としてやらないと。這いあがってきてから、考えればいいんだよ」
「見る目ないって分かってる。自分で選ぶとまたダメな人を選んじゃいそうだから、今は一人が気楽」
「それで恋人つくらないわけか」
「男ばかりが人生じゃないし、みんなと一緒にモノ作ってるのは楽しいし」
不意に、背後の空気が動いた。煙草の匂いがふわっと鼻に届き、美月さんの声が聞こえた。抑え気味の、小さな叫び声のようだった。
「何、急に」
「ずいぶんひねくれちゃったと思って。世の中ヒロセ君みたいな男ばっかじゃないんだから、そんな警戒しなくていいだろ」
ペチと手を叩くような音がして、啓吾さんが「イテッ」と漏らした。呆れたようなため息は美月さんのものだ。
「まったく。油断も隙もないんだから」
「こっちは長期戦覚悟だからね。――――あ、千尋ちゃん目が覚めた?」
わたしは「ううーん」と伸びをし、たったいま目が覚めたフリをする。ずっと目を閉じていたせいか、薄暗いはずの店内が妙に明るく感じられた。
「千尋ちゃん。もう遅いし、そろそろ帰ろうか。運転手もいるし、ウチに泊まったらいいから」
ちょっとトイレ、と美月さんは席を立ち、啓吾さんは「片づけるか」と呟いてカウンターに戻った。映画『アメリ』のサントラが流れていた。
腕まくりをして洗い物をする啓吾さんの様子をながめていると、不意に彼が顔をあげて目が合う。
「さっきの話、聞かなかったことにして。タヌキさん」
狸寝入りはバレていたようだった。
「スイマセン。起きるタイミングを見失っちゃって」
啓吾さんは「いいよ」と笑う。
「あんな感じだけど、美月かなり酔ってるから。明日になったら覚えてないよ、きっと」
「そんなふうに見えなかったです」
「酔ってなかったらあんなに喋らないから」
わたしはチラとトイレのドアをうかがった。まだ美月さんが戻って来る気配はない。
「啓吾さん、ひとつだけ聞いていいですか?」
「何?」
「美月さんはヒロセさんと、その……」
不倫の二文字が喉の奥でつっかえて出てこなかった。
「昔の話だから」啓吾さんは人さし指を唇の前に立てる。
「ヒロセ君もフラフラしてるから。ここら界隈でもよく見かける」
「女の人と、ですか?」
「千尋ちゃんに言うのも気が引けるけど、この辺では知れ渡ってる話。まあ、女と一緒のときもあるし、そうじゃないときもあるよ、もちろん」
心がザワザワと波立った。
「ショックだった?」
わたしが慌てて首を振ると、啓吾さんは「ごめんね」と苦笑する。
「仕事とプライベートは別物だから、仕事は仕事として評価してやって。って俺が言う話じゃないか」
「わかりました」と答えたけれど、そのプライベートのほうが問題だった。
ヒロセさんからは、週一回くらいのペースで電話がある。顔を合わせるのは仕事だけで、この関係を何と呼ぶのかわたしにはわからなかった。
電話でのヒロセさんは、奥さんや家族、生まれてくる子どもの悩みを口にした。千尋ちゃんがいてくれて助かる、と彼は言う。
電話だけ。繋がりなどあってないようなものだけど、わたしがヒロセさんを求めたら再び体を合わせる。そんな確信があった。
こうしてヒロセさんの不誠実な一面を聞かされても、わたしだけは特別かもしれないという思いが消えてくれない。
次回/18.雨の夜に夢を見る
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アイスクリームと脱走者【完結】
長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。
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