すぐそばの戦中派
さきの大戦、といっても、とおいむかしのことになりました。敗戦の夏がちかづくと、特攻隊など当時の話がむしかえされ、テレビや活字媒体がすこしのあいだにぎわいます。忌日(きにち)のように習慣化した行事を、ここで批判したいのではありません。
ふしぎなことに、戦後十五年、一九六〇年に見えていた戦争の記憶は、いまよりずっと浅はかなものでした。「反戦」の叫びも、心情的には必死だったとしても、できあがった戦後の政治コースから、はみ出るものではありません。おさない青年だから半端な理解なのかと反省しますが、おとなも分かっていなかったと思います。
被爆後十数年の爆心地に立ち、『プチマリ』という短編を書いたのですが、(忘れられない小品ですが)、あの沸き立つ感情の渦(うず)よりも、六十数年後、沈思する時間がもたらした認識の果てといいますか、いまになって惨劇のすさまじさに怯(おび)えます。
パールハーバーへの報復、対日戦争で米兵の死者をふやしたくなかったなどと、ワシントンはくり返します。弁解の意見として受け止めますが、爆弾一発で一都市を蒸発できると分かっていて投下したのです。その「人間」の異常能力に驚愕します。かの国がかしましく宣伝する人道から、もっとも遠い距離にある鬼畜の業(わざ)だったのです。
わかってきたのは、ヒロシマ・ナガサキにくらべれば、関ケ原の合戦も応仁の乱も、信長の蛮行も、児童劇のひと幕にすぎないのです。千年、二千年後にも、世界史に特記されるトルーマンの犯罪です。「新世界」文化圏の破綻(はたん)の証明です。
時間が経過してからわかることは、自分の行動についてもあります。わかったとしても、もう現場へもどって修正できません。今回はそんな話になります。
松尾知子さんがまだ元気だったころです。会社の先輩はだれもがおだやかで、現在、しきりに語られる、パワハラもセクハラもない社内でした。例外がひとりだけいましたが、デスクのそばを通りかかる女性のお尻にタッチするのです。青年がびっくりすると、わかい女性社員が笑って、東大卒を自慢しているけれど戦時中で受験者がいなかったから合格できたのよ、といいます。
青年は田舎から出てきたばかりですし、そもそも会社がどのようなものかも知りません。ほかの出版社がどうなのか、また業種によるちがいも知らない。それなのに入社して三カ月後、見習いから正社員へ進んで自動的に組合員になると、すぐに立候補して執行委員になります。(二十一世紀のいまと、当時の「組合」はまったくちがうものだと考えて読んでください)。
春闘が近づいています。
ベースアップを要求するのが定型ですが、わたしは個々の社員がいくら給料をもらっているのか分からない現状で、一律はおかしいと言いつのります。まずは、アンケートで組合員の給与の額を知りたい。
委員長は成り手がないまま、松尾さんの先輩が長年、努めています。会社側と癒着(ゆちゃく)しているのかどうかわからないので、青年は慎重にことをすすめます。ついに承諾を得て、百名弱の組合員に用紙をくばりました。拒絶する人がいて当然と思っていましたが、すべての用紙がかえってきました。若年のわたしを信用してくれたのです。個々人の賃金をグラフにして、みなさんに返しました。
給料の額で社員をコントロールするのが当時の労務管理でした。会社からなんらかの苦情がくるだろうと、やる前から覚悟をきめていますが、役員からも管理職からも、なんの圧迫もなかったのです。
青年の上司は秋山嘉久雄(かくお)さんで、なんと下津井電鉄の経営者一家の出でした。やせ型のスマートな中年で、四十代です。早大閥で占(し)められた会社では、異色の慶応卒でした。わたしを同郷の新人として配下に呼んでいただきました。メカが好きな人で、マイカーがブームになるまえ、他社にさきがけてドライブガイドを編集します。取材ついでに、軽井沢や大洗(おおあらい)の海水浴場に車でつれて行ってもらいました。
そのうち、かれが特攻隊の養成学校にいたことを知ります。「若い血潮の予科練(よかれん)は、七つボタンの桜が錨、今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にゃ、でっかい希望の雲が湧く」を、そのまま地(じ)で行きます。大学卒の予備士官ですから、華々(はなばな)しいエリートでした。
十歳も年上でしたし、わたしのほうから軽々しく、戦時のことを聞くのは憚(はばか)られました。ひざを突きあわせて話すタイプでもなかったので、それ以上のことは知らないままです。そのころ、編集部全体を統括していたひとりが坂本さんで、小説好きの人なら、ああ、あのミュージシャンの坂本龍一のオヤジだろうと言います。坂本一亀(かずき)さんのことです。学徒出陣で通信兵をしていたとブログにあります。
やがて、社内の上司のほとんどが、戦地にいたか内地の兵営にいたかはともかく、「戦争体験派」なのを知ります。かれらの年齢を考えれば想像できることですが、ずっと時間がたったのち、わたしはおおくのことを納得したのです。
戦時中の空気とは無縁な青年がやってきて、会社側にさまざまな要求をする。その行為を管理監督する立場にいながら、かれらは黙認しました。国家主義に自縄自縛(じじょうじばく) された過去の自分をひそかに恥じたのです。たとえ青年の行為が放埓(ほうらつ)に見えたにしても、こんどは体制の方針にしたがいたくない。
高度成長期はのちに語られるような、行け行けドンドン一色の社会ではなく、ふくれあがるパイをめぐって企業間での競争は激化したのです。あおり、あおられ、だまされる。仁義なき戦いがくりひろげられました。青年の就職さきも全集本の売上げは好調でしたが、同業者から目のかたきにされ、資金繰りに失敗します。
ドイツから帰国したばかりの青年は、組合の委員長に推奨され、しばらく奔走することになりました。破綻(はたん)の責任がどこにあるのか。まずそれをはっきりさせなければなりません。
創業家の責任を追求するのは当然として、役員の責任をどうすればいいのか。ワンマン経営が日常化している組織で、部長クラスが経営に異議をはさむことなど困難にきまっています。しかし、平(ひら)の社員に言わせれば、会社側の意見を現場に押しつけてきたのはかれらでした。
人員整理で数百人の社員が生活設計につまずき、無念の思いで去りましました。役員や部長、課長を以前のままの待遇でいいのでしょうか。
秋山嘉久雄さんは、決断したわたしにいいました。編集室のみんながいる場で、わたしのほうは見ないで、しかしわたしに聞こえるように、「これは、ぼくの二度目の敗戦だ」と。吐き捨てました。
坂本さんや秋山さんは、倒産に連座するかたちで去ったのです。もっとも有能な人がいなくなり、無能な社員が更生会社に残ったのです。一九七〇年前後のことです。
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