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これが日常となる初日営業とうさぎ

 工学部が僕を誘うとき「仕事的には楽だよ。あ~でも精神的なところとか、苦手とかはあるかもね」と言ってたことは正しかった。確かに肉体的には負担は全くなかった。最も重いもので『フルーツ盛り』であったが、フルーツ盛は席に出される料理の中ではハイライトであり両手で丁寧に運ぶため、トレイにアイスペール(氷を入れる容器)を2台積んで運ぶよりも軽かった。営業中は目障りでない程度に歩きテーブルとホステスさんの様子を確認し、適時要求を満たしていく。跪いてのアイスの交換、灰皿の交換、食事の提供などコンビニの補充作業より簡単で回数も少ない。
ただ精神的な部分は初日からあった。

「ちょっと」
たまたま3人ともが他の席の対応をしていた時だった、耳の後ろに声がした。振り向くと手を差し出している女性がいる。
「ただいま向かいます」
あれよあれよというまに営業が始まったため、教わっていることも少なく、誰が誰だか全くわかっていない。「あとはやりながら覚えて」だった。
女性の態度を考えるとおそらく社員ホステスさんだろうと思った。
手早く対応しているテーブルのアイス交換を済ませると、了解のサインとして片手を挙げて該当の席に向かい片膝をついた。なれない姿勢でトレイのアイスペールがぐらつく。指に集中した。氷と水の重く冷たい感触が、トレイに立てた三本の指を伝わってきてしびれている。このホステスさんの席は先ほど見たばかりなので、補充関係は問題ないはずだ、つまり僕では対処のしようがない問題に違いない。
「手を挙げたらすぐに来なさいよ」
「失礼しました」
いつの間にか席からお客様が消えていることに気づいた。ホステスさんは、僕に改めてぱっと手を出した。その動作の意味するところはさっぱり分からない。テーブルを見ても足りないものはない。「すみません、今日入ったばかりで」と言いかけた時、ちはるさんがさっとホステスさんに温かいおしぼりを手渡した。
「教育不足ですみません」
ちはるさんが頭を下げる。慌てて僕も頭を下げた。
「すみませんでした」
ホステスさんは無言で受け取った。ちはるさんに促され、待機所へ移動する。舌打ちが聴こえた気がした。ちょうど僕たちが待機所に入ると同時に目の前を先ほどのホステスさんが対応していたお客様が横切る。ちはるさんは笑顔でお客様を見送り僕に耳打ちする。
「お客様がトイレに立ったら、温かいおしぼりをホステスさんに渡しておくの」僕は無言で頷いた。
なるほど。いないと思ったお客様はトイレに行っていた。お客様はトイレで自分で手も拭くのだろうが、あらためて温かいおしぼりをホステスさんから手渡してもらって席に着くのか。温かさは心に染みる気がするのは理解できる。ホステスさんは気が利く女性になるわけだ。席ではすぐに楽しい笑い声が聞こえてきていた。
「新しいことおぼえたね?」
「はい」
「あとでもう一度謝っておきなね。店で女の子に嫌われちゃダメだよ」
ちはるさんはニコリとわらうと、さっと手を挙げVIP席のほうへ移動する。
 ホステスさんと協調して一歩先を行動することが大事なのだ。ホステスさんですら気づかない気づいかいを考える。お客様へのサービスの思考が置いていかれてはいけない。お客様に気づかれない程度に、ホステスさんをフォローする。しかも笑顔で。膝をつき、気を遣い続ける。僕は最適化系のゲームのような面白さを感じていた。

 そのあとは特に問題がないまま時が過ぎた。あっという間の4時間だった。ミラノの営業時間は7時から11時まで。10時30分には、各テーブルにラストオーダーの確認をする。多少お客様が残られても11:30までには送り出しが終わる。
 お客様が次のお店に行く際にホステスさんがついていくアフターというサービスはホステスさんに任せられている。アフターのないホステスさんは担当のお客様の見送りが終わった後、帰りのタクシーを待つ間席で休んでいたり、明日の予約について店長と確認したりとめいめい仕事終わりの時間を過ごしている。営業が終了してメインのライトつけた店内は、営業中の高級感のある夜の社交場から、明るく健康的な姿になっていた。その分小さなゴミなどもよく目立った。
 僕は先ほどのホステスさんを探した。見送りが終わって入り口から店内に戻ってくる姿を見つけて僕は彼女に近づいて話しかける
「今日入りました。シオンといいます。先ほどはすみませんでした」
「あなた鈍いよ。あなたが入ったばかりかどうかはお客様に関係ないから。気づいてくれなきゃ。恥をかくのは私よ」
「はい。覚えました」
「いいわ。次から気を付けて」
背の低い、やたら肩幅の広いジャケットを羽織ったホステスさんだった。名を、さえこといった。さえこさんは煙草をくわえると顎を持ち上げた。この動作を意味することはすぐに分かった。今日何度もホステスさんがお客様にやっていた仕草だからだ。僕はポケットからライターを出すと見よう見まねで彼女のたばこに火をつけ頭を再度下げる。PIANISSIMO Oneから細い紫煙が上がる。
「シオン!お前今日食べていくよな?」
チーフが声をかけてくれる。さえこさんは、行って良しといった素振りで手で僕をしっしと払った。改めて頭を下げてキッチンに向かった。
「なんかやったの?」
工学部が声をかける。事の次第を伝えると笑った。
「さえこさんもピリピリ言い過ぎだけど、シオくんも悪いけどな。ホステスさんフォローするのが役割だし。洗礼うけたね」
「言うようになったねー」
いつの間にか着替え終わったちはるさんが間に割って入った。形の良いフレアのジーパンにどこで買えばそんな形のものが手に入るのかわからない、不思議な形のシャツを着こなしている。聞くと『YOJI YAMAMOTO』のシャツだと言った。ウサギの耳が取れて初めてちはるさんがショートカットなのだと気がついた。
「さっきはありがとうございます!」
ちはるさんに落ち込んでいるのを悟られないよう明るい声で言った
「お!惚れたね!?やった!チーフーやっと私にも春が来たよー」
「おーおめでとー。シオンは罰金だな!給料から引くように店長に言っとく」
チーフが茶化す。
「冗談だよー。シオンくん顔赤!」
ケタケタとちはるさんは笑う。この笑顔には何度も助けられたと思う。
「わ!麻婆豆腐だ!チーフ今日私も食べていくね」
「だろうと思ったよ。シオン店長に挨拶して来いよ」
「はい」
チーフに促され、彼がまかないの準備をしている間に店長の元に向かった。
入口で店長が瓶の片づけとボトル残量のチェックを行っていた。
「お疲れ様です。店長」
なぜかちはるさんがついてきてる。
「シオンめっちゃいいよ!使える子だよ!店長」
「ほんと~じゃあシオンくん本採用ね。これシフト表。出てほしいところ書いてあるから来れないところあるか確認して」
「やった!よかったねシオン」
ちはるさんが背中を叩く。そして、呼び捨てになっている。ドキドキしているのが分かった。僕ってチョロい男のかな。何が精神的な部分は自信があるなのだろう。全然だ。体験入店の僕の意見は特に聞かれずいつの間にか話が進んだ。

 チーフの作ってくれた麻婆豆腐は本当に美味しかった。麻婆豆腐といえばマルミヤの麻婆豆腐であった僕には衝撃的な辛さと痺れだった。舌がヒリヒリジンジンする深い唐辛子の旨味が疲れた体に染み渡った。
「あ、お前らはバイクと車か。しょうがないな俺だけか飲むのは」
チーフはビール瓶を開けると工学部がさっと奪い取り
「俺注ぎますよ」といってコップに注ぐ。
「気が利くね~先輩」チーフが上手そうに一番搾りに喉を鳴らす。
「シオンくんシフト表みせて」
手渡すと、ボールペンを取り出してシフト表に丸を付け始める。
「私の入ってるところは絶対全部きなよ!」
工学部が不平をいう
「えー!なんすかそれ。俺にはそんなこと言ってくれたことないじゃないっすかー!」
「工学部くん。シオンは鍛えがいがあるんんだよ。私は彼を育てたいんだ」
ちはるさんがまっすぐ僕の方をみた。真剣な顔だった。
「シオン。君きっとすごくいい男になるよ」
どう思ってそう言ってくれたのかはわからない。だけどさっきまでごくごく平凡な大学生だった僕には胸に響く言葉だった。
「ありがとうございます」
「ははは。信じてついてきな」
僕の心を見透かすようにそう言って、仕事中とは違う、ちはるさんの幼く見える顔が笑顔で包まれた。まるを付け終わったシフト表を受け取る「全部来れる?」「はい来ます!」恥ずかしいくらい元気よく言った。
「おーい。食べ終わったら手伝って!」
店長が入り口で叫ぶ。僕は、ちょうど食べ終わった麻婆豆腐の食器を片付けると店長と一緒にミラノの看板を下げ、シャッターを閉めた。
「じゃあ、また明後日ね!」
そういってちはるさんはタンカラーとネイビーのツートンカラーで仕立てられたセンスのいいボルボ240エステートに乗り込み形の良いテールライトが深夜の闇に溶けていった。
シフト表を受け取るとまじまじと見つめた。今つけられたばかりの赤い丸印が深い優しさを持つちはるさんの温かさそのもののように感じる。

 食器や中華鍋の洗い方をチーフに教わり、工学部と一緒に簡単にお店を綺麗にする。店長は食事をとり終わると現金とカードの売上集計したサイドバックをもった。シャッターの鍵をチーフに預けると「あとよろしく」といって店を出ていく。売上は銀行の深夜金庫に預けるのだそうだ。
「今日助かったわ」
工学部が言う。僕は不安そうに聞き返したと思う
「工学部はどれくらいシフト入れるの?」
「半分くらいになるね。もっと引継ぎで来ようと思ってたけどもういいだろ。ちはるさんに育てて貰え」
そういって笑った。
改めてシフト表を見ると各日の必要な人員数が書かれている。シフトを考えるとウェイターはあと3~4人はいると思われた。
裏の扉を閉める。相変わらず見た目に相違して軽く感じるドアだった。店の鍵はチーフが預かるらしい。
バイクに跨るとチーフが
「ラルクアンシエルに浸って眠れ」
と言った。僕は笑いながら「はい」と短く返事をした。
こうして僕はあれよあれよという間に僕はミラノに身を置くことになった。これが僕の初日だった。

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