【短編】さようなら、殺人鬼
来留聡一郎の渇望
パンを食べるか、ごはんを食べるか。ここのごはんとは、ライスのことだ。どっちを食べようが理由は後付けのようなもので、賞味期限が近いパンを、冷蔵庫に入ったままの冷えたごはんを、その程度のクソみたいな理由ぐらいで。確かに食べたいからという理由はないでもないが、理由にすらなっていない。理由というのは、動機だ。動機は渇望から生まれるものでなくてはならない。腹が減っている、これは渇望とは言えない。三日間何も食べていなくて空腹で、自分の指すら食ってしまいそうだ。舌が食えるならこのまま焼いて食ってしまいたい。いや生でもいい。これくらいになると、ようやく渇望といえる。
渇望は絶望がセットでついてナンボのものだ。ハンバーガーにポテトぐらいの関係だ。で、何を言いたいのかというと、渇望したうえで、欲望を満たしたとしても飽きるのだ。だからこそ、口直しに絶望が必要だ。ポテトの塩っけは、口直しなのだ。味変ではない。
許して欲しい、帰して欲しいと懇願する若い女たちを何人も見てきた。だが、許してどうなるものか。五年前のことだ、どうしても助けて欲しいと乞う女がいた。それは渇望に近かった。そして、隣には絶望もあった。今日、殺されてしまうかもしれないという絶望だ。
女の声に淅瀝すら感じるほどだった。繋がれた相手に感情を抱くのは初めてだ。この女は「自身に罪がない」とは言わない女だった。よくいる、「罪のないものにこんな仕打ちを!」と声高に叫び罵り、そしていつしか切々と自身の不遇さを語る者たち。無駄だ。それでは私の感情の針が振れることない。渇望と絶望が溜まると女たちの命を土に還す。誰かの命を奪う、そこに至るまでには渇望と絶望が己の中に産まれないことには、行動に至れない、私は自身を合理性と非合理性を併せ持つ殺人鬼だと評価している。命を奪うということは、奪った方は命を得るのだと考えるべきか、この悩ましき問題に私はいつも狼狽する。
さて、この感情の針を動かした女がどうなったのか?気にはならないか?助けを乞うが、己を罪がない、とは言わない。この女は、哀れみや同情と交換に生かされるかもしれない道を選ばなかった。それがよかった、この時は。私はこの女を目隠しし、さらってきた場所まで連れ戻した。五分経つまで目隠しを外すなという条件だった。女は約束を守った。
女はどうやら脱獄した死刑囚だったようだ。そんな女を私は五年もさらっていたらしい。三日後の新聞に、女が再び収監されたという記事が載っていた。逃げ切れなかったのだ。どっちにしても、檻の中で暮らし、命を奪われる。刑務所で命を奪われても、その命は誰も「得る」ことはない。ただ無駄にするだけだ。その点、私は奪った命を「得る」、ここに大きな違いがある。
私がこの女を逃がして得たものは、教訓だ。当然のことながら私の正体を警察は追っている。その手掛かりとなるものを、自ら差し出した。この女はおそらく何も話さなかっただろう。どうせ死ぬなら、刑務所で死にたいとでも思ったのか。自分の死がこれまでの罪との交換ならば、私に殺されるほど無駄死にはない。警察に何か情報を提供すれば、特赦もあったかもしれない。だがどうだ、女は昨日死刑が執行されている。私はこの女を自分の手に掛けられなかったこと、そのせいで渇望が高まっている。理由は十分だ、と目の前で逃がしてくれと懇願する若い女に説明を丁寧にした。この女は死刑囚の女の次に見つけた。雨の中ショッピングモールを出たところで声をかけ、車に乗せた。無理矢理ではない。
女には暴力は振るわない。暴力は頭の悪い装置だ。私は女を尊敬している。だから、殺すのだ。
女は何度も助けてくれと、頼み込んだ。なんでもするからともいう。軽々しく言うな、なんでもするなんてできるわけがない。私ですらなんでもすることが、できないのに。
最後にはお決まりの、罪のないものにこんな酷い仕打ちを!なんて言い放つ。残念だ。
死刑囚の女を逃がしたせいで、ここ五年近くは誰も殺せていない。渇望が満ちているという表現はなんとも矛盾しているが、殺しの渇望は満ちた。あとは絶望だ。サイドディッシュなしでは、殺しはできない。絶望を断ち切るための殺人だ。
六畳ほどの部屋の地下室にトイレとベッドを置いた檻、これが女たちが活きる場所。この檻から出ると、この世からのお別れを意味する。鉄の扉を出ると、左手にもう一つの部屋がある。ここが処分所だ。
私は女を連れ去るとまず外部からの連絡手段も奪い、服は常に新しく洗濯したものを用意している。下着にスウェット、靴下もだ。足が冷えれば、風邪をひく。服結び付けて、首を吊るバカはいない。みんないつか助け出されると本気で信じている。だが、檻から出した瞬間、絶望の顔に変わる。今日なのだ、と自覚するからだ。
食事も十分に与えているからやせ細ることもない。むしろ好きなものを月に一回、与えているほどだ。ただ、箸やフォークの類は与えない。武器になるからだ。手錠をしたまま手づかみで食べさせる。だから誰もがアツアツの肉なんかは欲しがらない。手でつかめないからだ。
五年ぶりに女を始末した。たった二カ月しか監禁しなかった。全く満たされなかった。私は新たに女をさらって来た。この女は月一回のご褒美はいらないと言う。代わりに、毎食三度、梅干しを食べさせて欲しいと言うのだ。梅の実をほぐしたおにぎりはダメらしい。別にして、用意して欲しいということだった。白米、味噌汁、梅干し、蒸し野菜、これが女の望む食事。肉、魚は食べないと言っている。まぁいい、渇望は満ちている。あの逃がした脱獄囚の女、死刑が執行されたらしい。あの女からは奪えなかったこと、それはこの先も変わらない。もうあの女を殺したいと思っても、できないのだ。喪失と言う名の絶望が私を満たす。
あぁ、時が来た。
この女との付き合いは、あれから三年、これほどの渇望と絶望で満たされる日はない。そう確信できた。男は地下室に意気揚々と向かった。鉄扉に二重の鍵。ひとつはシリンダータイプの鍵、住宅の鍵と同じようなもの。もうひとつは、錠前。
ふたつの鍵を外す。檻の前で女を凝視する。
いい面構えだ。今日決行だ。おかしい、女が檻の隅で動かない。死んだのか、そんなことあってはならない。奪われることすらないまま死ぬのは、無駄死にじゃないか。私は檻の鍵を開けた。女はピクリとも動かない。襲われる心配はない、両手には手錠をはめている。檻の中に入った、床は濡れてはいない。むしろカラッと乾いている。そぉっと女に近づく、昔、油断して襲われたことがあるからだ。女はすくっと立ち上がり、檻の出口、私から見れば入口に、向かって走った。この日のために全ての力を温存していたといわんばかりの、クラウチングスタート。この女が陸上短距離走選手だということをすっかり忘れていた。鍵は付けっぱなしだ。まずい、私は振り返り、女を追った。足もとにツブ状の何かが。石ころか?スリッパの私は、勢いよく転んだ。梅干しの種が床に落ちていた。気づかなかった。私が追うルートを絞り込んでいたのか、入った時には気づかなかった。
女は息を切らしながら、檻の鍵を閉めた。重い音がした。だが、この地下室は内鍵。私の持つ鍵を使わなければ、ゼッタイ開かない。このまま、お互いに餓死するのを待つだけになる。私を出さなきゃ、鍵は開かない。私を出せば、女は殺してやる、ということだ。どう考えても、共倒れだ。いわゆる詰んだってやつだ。
*
何時間経ったのか、わからない。腹が減った。私には檻の中のトイレがある。水はある。水があれば、一週間は生き延びることができる。
女はどうだ、飲まず食わずだ。このまま脱水状態になって死ぬだけだ。クソっ、奪いたい、あいつの生を奪い取りたい、私の渇望がこんな時にもザワザワしやがる。
女をじっと観察する。何もすることがないからだ。女はドアの鍵を開けようとしてやがる。両面錠前、室内側からも鍵をかけられるからな。鍵がなければ開けられない。女はドアのノブをガチャガチャと動かしたものの、しばらくして諦めた。生への執着のないやつは死ぬだけだ。
あれから何時間かまた経った。口元をくちゃくちゃといわせてる、なんだ。女はペッと口からイシツブテのようなものを吐き出した。これは忌々しい、梅干しの種だ。梅干しの種、ということは女は梅干しをストックしてやがったのか。そうだ、梅干しの種。中を割れば、白い実がある。いわゆる天神様ってやつだ。これを食えばいい、そうだ、幾分かの塩分も種に残ってる。私の勝ちだ!檻の中にはベッドもトイレもある。トイレは水洗だ、三食付いていて何が不満なんだ。おれはトイレを流し、手洗いに流れる水を飲んだ。流石に、便器の水は飲めない。女は黙ってこっちをじっと見ている。せめて女より長く生きてやる。そうすれば、奪えなかったが私の勝ちだ。
足を滑らせた憎き梅干しの種を口に含んだ。ほんのりと塩味がするが、種が硬くて歯では割れない。歯がかけてしまいそうだ。私は種をしゃぶりつくした。喉が渇く、トイレを流して水を飲む。うまく飲めないが、何度流しても水はなくならない。水道を引いているからな。女が安堵した顔に見えた。薄暗い部屋の中でも表情が見える。目が慣れてきた。なんだ今「笑った」!どうしてだ、何かあるのか?なんだ、梅干しの種に毒でも塗ったか?いや毒なんてもんはここにはない。苦し紛れ、気でも狂ったのか、きっとそうだ。私は見せつけるようにトイレを流し、水を飲む。うまい。腹は減るが、生き延びてやる。
ゴゴゴと何か異様な音がする。女が笑った。確実に笑った。女に着せてやっていた、靴下がない、あいつは裸足だ!トイレの水が逆流し始めていた。女!トイレを詰まらせたのか。それでどうなる。溺れ死ぬか?バカか。女は入口の台車に乗った。案の定逆流する水は大した量にはならない、だが、くるぶしぐらいまでがヒタヒタになるほどだ。六畳一間ほどの地下室だ、量としては多いか。
女の目線を追う、逸らした。何かを隠している、視線の先を追う。足が濡れちまった。クソ、便座の後ろ側、電源コンセント!やりやがった、女が笑ってる。感電を狙ってやがる。ベッドの上に避難だ。馬鹿なヤツだ。これで女は動き回ることはできない。この汚水を飲む算段とも思えない。ほら、台車の上で膝を抱えてやがる。
ボンッと大きな音がした。漏電だ、ブレーカーが落ちた。誰も気にはしないだろうに。全部屋電気をつけっぱなしだったから、電気を消してくれてありがとって感じだな。
*
西古ヨシエの復讐
老婆は、隣人トラブルに頭を抱えていた。気味の悪い男だ。これまで、何人も追い出してきた実績が自分にはある。ルールを守らないヤツは、こっちから攻撃すると老婆は決めていた。男でも女でも、子供でも老人でも、屈強な男でもヤクザでも。とにかく、面倒なら殺してしまえばいい。幸いにも庭は広い、殺して植木を植えればよく育つ。桜の木も、柿の木も、松の木も、そのたびに植えてきた。木の数だけ隣人いたと言ってもいいだろう、老婆は朝起きると庭の木を数えるのが日課だ。隣家の男、名前は憶えない、表札なんて見ないから。三日三晩、電気がつけっぱなしだ。二階も一階も、煌々としてる。深夜はカーテンを閉めていても寝室にうっすらと光を感じてまぶしくて、仕方ない。
文句を言うなら、まず先制攻撃を。老婆は手を組みいつものように後ろ手にはナイフを隠していた。一突き、喉。これで仕留められる。幸いにも身長が百七十五センチもある。男にも負けない体格だ。老婆とも言われてもいい年齢だが、腰も曲がっちゃいない。明日も電気がついているならブチ殺すと決めて寝室に入った。カーテンを開け隣家を見る。まぶしいが人影を感じない。生活音もない。すると、一瞬で全部屋の電気が消えた。一人暮らしと聞いている。独身男、四十代、背格好は自分よりは一回り小さい。そんな一人暮らしの男が、全部屋一度に電気を消せるか?
老婆はブレーカーが落ちたと察した。同時になにか臭う。トイレからだ。水が逆流している。あっという間に廊下に下水が流れ込んできた。老婆は枕元に置いていたサバイバルナイフを柄から取り出し、むき出しのまま窓から裸足で隣家に走っていった。ドアを叩く。無人なはずはない。何かある、と確信した老婆はしつこくドアを叩く。出てきたら理由はいい、首を一突きしてやると決めていた。出てこなければ、窓を突き破り侵入してやる、その覚悟があった。暗がりで見えにくいが、いずれ慣れる。老婆は窓を突き破り、キッチンに忍び込んだ。ガラスが割れる音、威嚇のつもりだったが誰も出てこない。
キッチンの冷蔵庫を開け、明かりを確保した。さらに良く見える。四人掛けの大振りなダイニングテーブルの後ろ側に扉がある。老婆は躊躇なく、半開きの扉を開けた。足もとのセンサーライトが反応した。これは、階段だ。地下に通じる階段、老婆は興奮した。この奥に何かが「いる」。自分と同じニオイがする。老婆は照らされた階段を下りる、鍵のかかったドアがある。内鍵がかかっている。老婆はドアのすき間から漏れ出る水たまりに気づいた。クサイ、汚水だ。老婆はピン止めを外し、鍵穴に突っ込んだ。先日庭に埋めた女から奪った気に入っているピン止めだったが、使うならここだろうと思った。十分近くかかったが、ドアが開いた。複雑なシリンダーだと老婆はつぶやいた。ドアを室内側に押して入る。奥に誰かがいる、檻?部屋の外側から、足元灯が入り込む。老婆は檻の中に誰かがいることに気づいた。
「アンタ!この家の住人かい!」
老婆はうっすらと差し込む光に映る男に狙いをつけた。檻の外から刺し殺してやる、そう決めてツカツカと歩みを進めた。老婆は、男めがけてサバイバルナイフを力いっぱい投げつけた。ナイフはまっすぐな軌道を描き、男の左目に突き刺さった。避ける間もなかった。男は糸が切れたようにベッドから前のめりに倒れ込み、便座に頭を突っ込み苦しそうに暴れた。そして、溺れ死んだ。
女はその様子を確認し、息をひそめたまま、ゆっくりと半開きのドアに近づいた。老婆は女の存在に気づいた。だが遅かった。女は老婆に一瞥をくれながら、ゆっくりと扉を閉じた。
女は階段を駆け上がった。筋力は衰えていなかった。暗がりのなか、ブレーカーを上げた。地下室で絶叫が響く、再び電気が流れたのだ。老婆は汚水まみれのなか、感電死した。
*
木築あずさの断片
九年前
死刑囚、橘あずさは脱獄した。独房で自殺未遂を図った。治療のため輸送される、幸運だった。護送車が事故にあった。刑務官たちは即死、あずさは傷一つなかった。アパートの洗濯物を盗み、靴を盗んだ。近くのコンビニで万引きをして腹を満たした。男に声をかけられた。あずさに一瞬の隙があった。男の顔を見そびれた。そのまま男に拉致された。そして五年近く拉致されていた。殺されることもなく、ただ活かされていた。殺さないでと懇願した、死刑囚が逃げてきたんだ。殺されるなら刑務所の方がいい。同じ「死」も、赦される死の方が得ではないかと。
そして、ある日男の気まぐれで監禁場所から解放された。腹が減ったので、コンビニで万引きをした。それが運の尽きだった、防犯カメラに映り込み、翌日には再逮捕された。だが、護送されたのは刑務所ではなかった。真っ白な四角い建物、正方形、一階建て。奇妙な建物に連れていかれた。そこには、一人の老人がいた。老人は目を閉じて言った。
「木築あずさ、端的に言う。この二人を殺害して欲しい。できるだろう、お前は五人も殺したんだ。罪もない人たちを」
「それは違います、私は」
「まぁ、ここは裁判所でも刑務所でもない。老人の頼みを聞いてくれないか。もちろんタダとは言わない。この老婆とこの男を殺してくれるなら、お前は死んだことにしておいて、新しい戸籍を与えてやる。別人として生きていい」
魅力的な話だった。漫画みたいな話だ。別の戸籍、スパイか。私はタダの死刑囚だ。どうせ死ぬなら、赦される死と思ったが、やるだけやっての死の方がいい。あずさはそう決心した。
「この二人は?」
「この老婆はいわゆる殺人鬼だな。隣人を殺しまくっている。だが、証拠を残さない。この男は、老婆の隣に住んでいる。こいつも厄介でな。女を誘拐しては、監禁して気が向いたら殺している。お前はこの男に五年も監禁されていたんだ」
写真を見せられても、わからない。暗がりだったし、声も覚えていない。殺さないで十何度も懇願したことだけを覚えている。殺されないように、願う。求められるなら、身体だった差し出していた。この男だったのか。因果だ、もう一度コイツに監禁されなければなんて。
「顔がバレています、この男は私の顔を知ってます」
「整形してやる。報酬の前払いみたいなもんでもある。うまく二人を殺せば、新しい人生を歩めるんだ、だが顔が変わってなきゃ、いずれ捕まる。ワシが死んだら、力を尽くしてやることもできん。だから、完全に別人になる必要がある。これから生きるためにな」
選択肢はなかった。老人の誘いに乗るしかない。そうでなければ、ここで殺されるか、刑務所に送られて死刑が執行されるだけだ。
「一つ条件がある、この方法で二人を殺して欲しい。老婆は感電死だ。男は溺死だ」
「殺し方のリクエストなんてあるんですか。方法にこだわる理由は?」
「ん?簡単な話だ。ワシの娘たちがこの方法で殺されたからだ」
「同じ方法で、できるだけ惨たらしくが望みだ」
「違う方法で殺してしまえば?」
「それは、失敗とみなす」
さっきまで大きなソファーにどっしりと座っていた老人が立ち上がり、瞬時にあずさの首元に杖を突きつけた。
「つまり…」
「そういうことだ」
整形し声帯も変えたあずさは、男に拉致されるために夜中、出歩いた。そして二カ月後に拉致された。さらに三年間、地下牢で過ごした。前回と合わせると八年だった。男を溺死、そして隣家の老婆を感電死。この条件は複雑すぎる。時々老婆らしい声が玄関先からうっすらと聞こえてくる。助けを求めるのは悪手だとあずさは判断した。前回拉致されたときと同じ、今も雨の日になるとやたらとトイレから下水のニオイがした。この下水は逆流しやすいということは、詰まりやすくもある。男の溺死は、トイレの水。老婆の感電死は、とあずさは周りを見渡した。トイレを起動させるには電源が必要だ。どこかに電源がある。電源コードが床に埋め込まれ、コンセント自体も壁に埋め込まれていたことに気づいた。こんなこと気づかなかった、前回は五年もいたのにとあずさは突如として高まった自身の観察眼に驚いた。毎日の食事に梅干しをリクエストし、その酸で手錠を溶かし、種を取っておき、床にちりばめて置く。男が滑った瞬間に檻から出て、男を閉じ込める。トイレはブラジャーと靴下を流し、詰まらせる。男が檻の中に入るのは、殺すと決めた時ばかりではないことを知っている。衣類を取り換える時には必ず檻の中に入ってくる。その際に身体の隅々まで状態をチェックされる。裸にされるのだ。屈辱を越えて、憎しみを越えた先の感情が芽生える。そして、毎日の絶望のなかでその感情が死ぬのをあずさは知っていた。
その日が来た。男が檻の中に入ってきた。服を脱がさない。その日だ。殺される日だ。あずさは男が歩くルートを知っている。檻の中でベッドの手前まで来たら、クラウチングスタートで檻の外に飛び出る。そして鍵をかける。鍵は付けっぱなしだ。だが、地下室の扉の鍵は男が持っている。内・外鍵タイプなのも知っている。外から老婆が扉を開けて入ってくることを祈るだけだ。男が水欲しさにトイレを流し始めた。なかなか水が逆流しなかったが、おそらく昨日雨が降ったんだろう。下水の嫌なにおいがしていた。そろそろ逆流すると思った瞬間、便座まで汚水がいっぱいになり一気に逆流した。六畳ほどの地下室は汚水の穢れたニオイで吐きそうだった。もう少しの辛抱、老婆は必ずやってくる。あずさは台車の上で静かに体力を温存した。玄関チャイムの激しくなる音、窓ガラスの割れる音、老婆が侵入してきた。わかる。人の音がする。地下室に向かっているのがわかる。階段の足元灯がうっすらと扉の下すきまから忍び込む。同時に扉がガチャガチャと音を立てる。鍵をこじ開けている音だ。十分ほどで扉が開いた。男があっけに取られている間に、老婆が投げた何かが男の顔に当たる。男はそのまま倒れ込み、便座に顔を突っ込んで溺死した。老婆があずさに気づいたぐらいで、あずさは扉を締め階段を駆け上がり、ブレーカーを戻した。
老婆の悲鳴を聞いたあと、あずさはブレーカーを落とし、老婆を確認した。老婆は黒焦げに近い状態だった。あずさがここで我に返った。〈これはデキスギな話ではないか〉と。
男が私をいつまでも殺さないのはおかしいし、トイレが詰まらなければ男も老婆も死ななかった。それに老婆が必ずこの地下室に来るとは限らないし、ピッキングでこの地下扉を開けられるものだろうか、と。
それよりもなによりも、私はなぜこの家のブレーカーの場所を迷うことなく突き止められたのか。二度拉致されたが、この家の間取りは知らなかった。あずさは疑問と疑念を抱えたまま家を出て、そして消えていった。
*
俳徳重一の因果
「あの女は無事目的を達成したのか?」
重一が運転手に尋ねた。運転手はバックミラー越しに「はい」と答えた。
「思い出したのか?なにか」
「いえ、音声・映像ともに確認しましたが。ただ…」
「ただ?」
「ブレーカーの位置は覚えていたようですね。とっさのことだからだと思いますが」
「まさか自分の家に監禁されているとは思いもしないでしょうね」
運転手は小雨のなか視界が悪くなり始めたため、ハンドルをしっかりと握りなおした。
「あの男は死にました?」
「はい、便座に頭を突っ込んで。直接の死因は、溺死です」
「老婆は?」
「感電で亡くなったのを確認しています。」
「死んだかどうかはまぁ、どうでもいいがな」
「クリーン部隊がいま片付けに向かっています」
運転手は右折の際、横断歩道前の一旦停止で止まった。子どもたちが傘をさしながら、横断歩道を渡る。
「あの女、木築あずさ、というのは何者だった?」
重一は退屈そうに質問する。
「あの男の妻ですよ。たしか本名は、来留めぐみです。死刑囚の」
「そうだった、今回のサンプルはあの死刑囚か。そうだそうだ、老婆の息子家族を殺したって、あの記憶を埋め込んだ、アレか」
「はい。あれは来留めぐみの仕業に仕立てました」
「つまりあれか、冤罪ってやつだな」
「そうです。今回の実験にあたり、お互いの記憶を抜き取るのには苦労しましたが。もちろん老婆の記憶も抜き取りも大変でしたよ」
運転手は車を走らせた。
「誰も記憶は戻らなかったということだな」
「はい。強いストレスを与えても、お互い記憶は戻りませんでした」
車の前に人が飛び出てきた。運転手はブレーキを目いっぱい踏み込む。ハンドルを右に切ったせいで、対向車線のガードレールに突っ込んだ。奇跡的にも重一も運転手も無傷だった。
「おい、なにしてる!」
「すみません、飛び出しに気づかなかったもので」
運転手は車から降り、事故の状況を確認した。人を轢いた感触はなかった。道路には見慣れた顔がいくつもあった。
「これなぁ、首だわ。おまえさんたちの仲間だろ」
運転手が声のする方に振り返ると老婆が両手に首を持っていた。道路に二つ、両手に二つ。クリーン部隊の首だ。運転手は咄嗟に構えたが、老婆はすっと飛び上がり、頭頂部にナイフを突き刺した。運転手が膝から崩れ落ちると同時に、助手席から入り込み、後部座席に座る重一にナイフを突きつけた。
「やっと見つけたわぁ」
「お前、あの老婆か」
「あたしは老婆なんて名前じゃないわ。西古ヨシエだわ」
重一は後部座席から道路に飛び出した。膝裏を蹴り上げられた。悶絶する隙もなく、地面に額を打ち付けた。
「爺さん、会いたかったぁ」
「お前は?」
「来留聡一郎だ」
「お前たち、記憶は」
重一はまだ自分が優位な立場であるかのように訊いた。
「そんなもんとっくに戻ってるわ、ボケ」
ヨシエが言った。
「待ち望んだぜ。ジジイ」
「ウチの息子夫婦を殺したのはお前だな」
通行人の通報を受けて、警察が到着した時には、二人の姿はなかった。道路には、四つの首、絶命した運転手と重一が転がっていた。
*
さようなら、殺人鬼
路地裏を抜け、悠々と歩く聡一郎とヨシエ。「アンタこれからどうするんだい?」
「私は根っからの殺人鬼ですから。またあの家で楽しませてもらいます」
「そうかい、私はそろそろ足が付きそうだからとっとと逃げるとするよ」
別れた二人はお互い反対方向に歩いて行った。薄暗い住宅街に灯が点滅する。聡一郎の前に一台のバンが停まり、手際よく後ろでを取られて後部座席に押し込まれた、隣には縛り上げられたヨシエが横たわっていた。
「もぉ、思い出したわよ。全部。私が思い出したってことは、あなたたちも思い出してるってことじゃない」
「めぐみ、何を考えてる?」
「何も。パンを食べるとか、ご飯を食べるとか、そんなのどっちでもいいじゃない。理由は後付けよ」
来留めぐみはバンを走らせた。
「私、木築あずさにはなれない」
記憶を操作されてもそうでなくても、自身が根っからの殺人鬼だということを思いだした。バンは自宅へと向かう。今度はブレーカーが簡単に落ちないようにしなければならない。下水も詰まりにくく工事をしよう、めぐみはバンを走らせながらすべきことを整理していた。それよりも、檻がもう一つ必要だ。今のうちは相部屋にさせるか、後部座席で二人の殺人鬼は命乞いをし続けた。
めぐみは甲高い声で笑い、ラジオから流れる流行りの曲をあてずっぽうで歌いながらスピードを上げた。