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パンとサーカスと、自転車に乗って【16】
第十六話・非合理な自殺
「葉狩さん!杉浦杏子を轢き殺した一ツ橋要ですが、出頭連絡があったまま連絡がとれなくなりまして」
葉狩悟は、二課の入口ドア近くで押上裕也からの報告を受けていた。キャリアもそこそこにある葉狩のデスクが入口近くにあるのは、自ら申し出たことだ。署内にいても事件は解決しない、だからデスクはできるだけ入口近くに、どうせ使わないんだからと。そのせいで、たまに署内にいるとどこにいるかすぐ見つかる。押上はいつもどこかにフラッと捜査に出てしまう葉狩に会えるチャンスを逃すまいと、今日は朝から意気込んでいた。
「それで、一ツ橋はどうなった?」
「響木先輩と令状持って、このあと踏み込みます」
「おぉ、そんな朝からよく裁判所出してくれたな」
別件で逮捕したチンケな詐欺事件が解決したことで、葉狩も捜査に加わるように課長からの要請された。おそらく響木優子が頼んだのだろう。俺たちは、一ツ橋の住む久御山町へと向かった。杉浦杏子がバイクで轢かれた様子は周囲の防犯カメラにはっきりと映っていた。歩道からはみ出て歩いていた杉浦に中型バイクが背後からぶつかった。バイクはバランスを崩し転倒。そのままバイクの持ち主らしき人物はバイクを起こし、何事がなかったかのように現場を逃走。ライトの破片が落ちていた。
周囲の防犯カメラを数珠繋ぎでたどり、一ツ橋の住むアパートを割り出していた。報道は一部規制をかけている。というのも、この一ツ橋要という人物は前科があったからだ。葉狩が先日解決したチンケな詐欺事件、そこに一つピースが足りなかった。弁護士役の男が痕跡を消して逃げ切っていたからだ。
一ツ橋要・三十八歳・無職、前科あり。結婚詐欺と保険金詐欺。三十二歳の頃、二度目の保険金詐欺で実刑をくらっている。飯場で知り合った男に多額の保険金をかけ死亡したことにして、多額の保険金をだまし取った。死亡したこととされた人物と保険をかけられた人物は別人だが、戸籍を入れ替える方法でだまし取ったのだ。懲役六年の実刑だったが、模範囚だったため三年目に仮釈放となった。身元引受人の記録が残っていない。
一ツ橋の住まいは古い平屋の木造アパート。近所の住人の評判はすこぶるいい。隣の部屋の住人によると、酒を飲んでタクシーで帰宅するような日もあれば、借金の取り立てにヤクザまがいの男たちに囲まれていることもあると、いっていた。事故を起こしたバイクが見当たらず、押上たちは近隣の修理工場を一軒一軒しらみつぶしにあたっていた。
逮捕に向けて証拠固めをしているとき、ある男から一本の電話が署内にかかってきた。その男は八賀純治と名乗り、先日のバイクひき逃げ事故で自首したいというものだった。
電話応対した警察官がそれは自首にはあたらず、出頭になると伝えたところ、どう違うのかで揉めたらしい。自首は犯罪が露見する前に自ら申告するものだ。刑法上の減刑が期待できる。一方出頭は、警察署や裁判所に自ら出向くことを指し、罪状の認否は本人に委ねられている。つまり出頭しても、無実を訴えることも可能なのだ。こういった点から刑法上の減刑は期待できない。裁判所の心証は良くなるかもしれないが。
八賀はしぶしぶ、明日出頭する旨を伝え、電話を切った。八賀は非通知で電話を掛けている旨を自ら申告していたが、警察では非通知通話の通話番号を特定できる。八賀はそんなことも知らなかったのだ。八賀の携帯電話番号から、照会にかけ契約者を特定するのは容易だった。携帯電話の契約者は一ツ橋要といった。住所は捜査線上に上がっていた久御山町の一ツ橋の住所と合致する。電話口は四十前後の男。だがこれだけの情報で一ツ橋を逮捕するわけにもいかない。明らかに物的証拠が少なすぎる。先日も誤認逮捕で大問題になったところだ。対応した警察官から報告を受けた押上や響木は、慎重に出頭を待つことにした。だが、一日待っても出頭はされず、しびれを切らした課長の指示のもと、一ツ橋要の家宅捜索の令状を取ることにした。容疑は万引き。一ツ橋を追跡する過程で、コンビニに立ち寄った姿が確認されており、店内のカメラからスナック菓子とビールを万引きする様子が映っていた。
葉狩たちが一ツ橋の住むアパートに着くと、狭い駐車場には軽自動車が雑然と停められていた。その中に、ライトが破損したバイクが停まっていた。つい一昨日までは、なかった中型バイクがそこに停められていた。押上と響木はこんな証拠を見逃すことはないといった。葉狩もこの二人がそんなへまをするとは思えなかった。何かがあると思いながら、葉狩は一〇三号室のチャイムを鳴らしドアをノックした。反応はない。大家立ち合いのもと、ドアをあける。
「一ツ橋さん、東字宇署です。コンビニエンスストア・エビスでの万引き容疑があなたにかかっています。捜査令状に基づき、家宅捜索を行います」と丁寧に押上が申し送りを行った。儀礼的だ、靴は脱がずに部屋へと入り込む。響木は玄関先でバックアップ係となった。狭いコンロひとつのキッチン、奥にはバストイレのユニット。整然としている。整理整頓が行き届いている。几帳面な男なのか。未開封のビールとスナック菓子がリビング前の扉にそのままの姿で転がっている。万引きをされた商品と同一のものだ。押上がせり出すようにして葉狩の前に出て、ワンルームのリビングにつながる引き戸を開けた。押し入れの壁を打ち抜いてロープをまわし、座るようにして首を吊っている男がいた。かすかに腐臭がする。一ツ橋要で間違いなかった。
葉狩は響木を玄関から呼び入れ、課長に連絡させ鑑識を手配した。室内には争った跡はなく、キッチンの印象と同じく整然と整った部屋だった。ベッドはなく布団が三つ折りに畳まれ、テレビはない。小さなテーブルと座椅子、テーブルの上にはノートパソコンが一台。ゴミ箱は空っぽだ。時計があるが時間が狂っている。今は午前十時半だが、時計は六時半をさしている。時間の経過がわかりにくい部屋だと葉狩は思った。一ツ橋要がひき逃げ犯であることは状況証拠から確実で、外には事故を起こしたバイクが修理もされないまま置かれている。犯行を苦にしての自殺、前科二犯でひき逃げ死亡事故を起こせば、どう考えても実刑は免れない。身寄りも何もなさそうなところを見ると、たとえ仮釈放になったとしても身元引受人は見つかりそうもない。
身元引受人?葉狩は手がかりに気が付いた。どうして俺は見逃してたんだと。保険金詐欺で服役していたとき、仮釈放が出たときろくにあった。身元引受人がいるはずだ。一ツ橋要の身元引受人の記録を引っ張り出せば、何か手掛かりがあるのかもしれない。そんな妙な執念に狩られるのは、葉狩にはこの自殺が偽装されたものだと感じたからだ。どうせ自殺するなら、盗んだビールは飲むはずだし、スナック菓子も食べるだろう。キッチンや冷蔵庫の様子から、他に何かを飲み食いした形跡もない。腹は減っているはずだ。ひき逃げをして生き抜きたいと思う人間が、万引きをし、手つかずのまま、警察に出頭の電話をし、そのまま自殺をする。どうも合理的ではない、だが刑事の勘というものが一ツ橋の自殺を受け入れさせない。葉狩は一ツ橋の所持品から名刺を見つけた。一ツ橋要 弁護士 とある。
チンケな詐欺事件、はまっていなかったピースは弁護士。疲れた頭のなかで、カチッと気持ちいい音がした。パズルが完成した気がしたが、そのパズルは全体のほんの一部だということに気づくのはもう少し後のことだった。