【エッセイ】感じ悪い人
感じの悪い人、それだけで嫌われる理由になる。ほとんど第一印象で決まる。表情のなかでも、目を合わせるか、口角が上がっているか、歯が見えているかが大切だと思う。言葉遣いだと、言葉そのもの(語彙)や語尾のアクセント、丁寧語の使い方なんかが大切。感じのいい人ってのは、その逆なのだろうか?
光と影、表と裏、空腹と満腹ぐらいの真逆だともいえず。感じのいい人は、感じの悪い人の逆であるものの、その底には「感じよく見られようという厭らしさ」が漂ってたり、潜んでたりするものだ。
そんな疑心と暗鬼が心のなかで跋扈するもんだから、僕はなにかと感情が忙しい。つまり、感じの悪い人は自分の感じの悪さをもうそろそろ気づいていると思う。だけど、直さないまたは直せない。この人たちは確信犯なのだ。「感じ悪く見えるけども、話せばわかるぜ!」といったある意味自信家なのだ。人と人は一期一会なのだが、運命ならそこを乗り越えるだけのものがあると思っているのだろう。確信犯は戦略家であり、したたかだ。そういう意味では「感じの悪い人」はそういった逆アドバンテージ状況を乗り越えてくる人を求める「他人依存型」ともいえるのだ。
一方、感じのいい人は厄介だ。そもそも、全方位に網を広げているといえるからだ。わかりやすい、その罠にすっぽりとハマれば、感じのよさだけが依り代となり、信じ続けることになる。ひよこたちのインプリンティング=刷り込みと同じようなものだ。感じのいい人は、感じの悪い人と違って「無意識」だ。無意識に感じがいいというのは、表情や言葉遣いがデフォルトでいい感じなのだ。だけど気づかない。人から嫌われるどころか、何かと好かれる。バイトの面接に落ちたことがない、消しゴムを貸してもらえる、部活で失敗しても多少のことなら「ドンマイ」と声をかけてもらえるなどだ。この積み重ねが、感じのいい人を鈍感にしていく。ここに無邪気さがくっ付いてくれば、小さな穴となりつまづくとこけてしまう「罠」となるのだ。
ここまでわかった上で、今日あったことを少し。みどりの窓口で新幹線の切符を買った。東京に行く用事があるのだ。乗る新幹線の時間・のぞみ●●号、往復で調べて、いざ窓口へ。
子どものころ、好きな子に振り向いて欲しくてイジワルをするなんてのがある。「感じ悪い」のギャップが「好きな気持ち」ってのは、子どものうちにしか通用しなくて、大人になるにつれて、そのギャップで相手の感情をゆさぶるのはやっぱり幼稚だ。
「感じのいい」を無意識にできる人は、置いといて。厄介だから。意識的に「感じのいい」を貫く人は、週末に花束をあげなくちゃいけないぐらい素敵な人だということだ。せめて、家に帰ったらその仮面を脱ぎ去って、「感じ悪い」自分でバランスをとるといい。
僕はフリーランスになってから、「感じいい」を目指している。そもそもは口角は下がっていたし、顔はブッチョウ面だ。だから口角を上げる練習をして、眼鏡はトボケタ感じの丸メガネ。ハンカチはかわいらしいチェック柄。いつも散髪したてで清潔にする。
だけども、僕の会話は食い気味だ。相手の話に。カミさんからは、「ヒトの会話を聞かない人ほど、感じ悪い奴はいない」とよく言われる。電話口の僕は、いつも相手の会話を食ってしまいがちなのだ。顔が見えないから、声のトーンだけが勝負だと思っていたが、そうじゃない。傾聴できない奴ぁ、「感じ悪い人」なんだぞと。
ということだ。もっと傾聴して、謙虚に生きて行こうと51歳にして誓った。
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