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第27話・希望のジャンヌ、絶望のジャンヌ
立花優子は、いわゆるサレ妻だ。弁護士には、若い女に夫を奪われたと言っていた。夜の生活は悟が産まれてからほとんどない。
夫の隼人が初めての子どもに、喜んだのは最初だけだった。仕事中心の生活に、子どもが必要だったのか?いつも自問自答させられる。子どもを作るのは二人、産むのは一人、そして育てるのは一人だった。孤独のなか優子は悟が三歳の頃には保育園に預入れ、職場に復帰した。家事はすべて優子に任されていたというと聞こえはいいが、隼人に体よく押し付けられていた。
離婚が成立した頃、悟は小学四年生だった。普段から帰ってこない父親だったが、いざ今日から父親いない生活が始まると、悟はぐずることが多くなってきた。小学四年生なのに心が幼稚園児のような、聞き分けや分別がどんどん薄らいでいった。
養育費をしっかりと支払ってもらっていたものの、優子は働くことは止めなかった。いざ養育費が滞ると、生活できなくなる。自立は離婚の必須条件と、弁護士からも言われたこともあり、仕事に邁進した。残業も喜んで引き受け、会社のなかでも一目置かれ昇進していった。順調に見えたが、家庭はすさんでいた。悟は中学一年生になる頃から不登校気味になり、二年生からはほとんど学校に通うことはなくなった。求められるままにゲーミングPCを悟に与えた。
息子に元夫の姿が見えたとか、プログラミング技術育成にもとか、そんな話を用意していたが優子の本心は、ただ「めんどう」なだけだった。息子に足を引っ張られる、自分の人生を離婚してから見つめなおした。学校に行くことが普通と考えている優子にとっては悟の不登校は怠惰・なまけにしか感じられない。ゲームの世界に意識を飲み込まれたとわかったのは、元夫の隼人と話し合った時だ。
悟が意識不明となり、大東寺病院に搬送されたあと、隼人が病室でゲームのログについて説明し始めた。
悟がゲーム内で死亡したこと。それにより意識体がゲーム内にさまよっていること。植物人間状態になっている悟を復活させる手立てはゲーム内のどこかにあると、隼人は言っていた。優子は真には受けていない。不倫でウソをつく男の言うことをいちいち信用できない。
悟が入院して二週間後、【ウッドバルト・オンライン・ワールド】のメーカー、ア・シュラ・ゲームスが突然、入院に関する費用のすべてを負担すると申し出てきた。隼人の会社だ。隼人が圧力をかけたのだろうと、優子はすぐに理解した。そして、悟が植物人間になった原因が【ウッドバルト・オンライン・ワールド】にあることを優子は理解した。ゲームのシステム、仕組みを理解するのには苦労した。元夫のIDは凍結されていたが、悟が不正ログインを通じて、新しい自分用のIDとパスワードを設定していた。優子は悟が遺したメモを読み解き、あるキャラクターをハッキングすることに成功した。剣聖リヒトだった。悟が次に狙いを定めていたキャラクターだった。
航海が大東寺病院の受付で、立花悟の名前を言うと面会はできないと断られた。受付の女性は事務的に淡々と、処理し航海の後ろに並んでいる初老の男性に「どうぞ」と言った。航海には「お帰りください」と言っているようなものだった。
正攻法での面会を諦め、航海は会社にあった白衣をリュックから取り出し、人気のないところで羽織った。ネームプレートも偽造していた。悟が入院しているフロアは八階、個室だった。何食わぬ顔で、通り過ぎる看護師に挨拶をし、805号室の引き戸を開けた。
凄惨な病室だった。邑先あかねの姿をした邑先いずきは優子の返り討ちにあっていた。元夫、隼人の不倫相手、邑先あかねの姿を見て激高したと思われる。優子は肩で息をし、視点が定まっていない。その中身は妹のいずきだと言ったところで無駄だだと、航海は判断した。
いずきがこのまま死んでしまえば、あかねが戻る肉体が無くなってしまう。止血と優子の無力化、航海は龍二に連絡し魁隼人に代わって、【ウッドバルト・オンライン・ワールド】の初期化をするように言った。龍二は待ってましたとばかりに、ゲームのシステムすべての初期化を開始。ゲーム内のログイン対象者は強制的にログアウト。あかねは、ゲームシステム上いずきと認識され、いずきの肉体へ意識体が送り戻された。ゲーム内で死亡した悟はゲームが再起動した際には、初期キャラクターのジャンヌに意識体が戻り、初期化時のエラー要件として、強制ログアウトとなった。植物人間の悟に、意識が戻った。
ここからは一か八かの賭けだった。いずきが乗り移ったあかねの肉体、意識がない。呼びかけてもピクリとも動かない。返り血を浴びた優子からナイフを奪い取り、航海は悟に声をかけた。
「悟!早く目覚めろ!このままじゃ、お前の母ちゃんが殺人者になっちまう。身体の中に、意識の中に、アイツはいるか?アイツも目覚めさせるんだ!悟!!!」
航海の叫び声は、電話越しに龍二にも聞こえている。龍二はスマホをスピーカー状態にして、オフィスのメディカルルーム27階で眠っている邑先いずきを確認しに行った。あかねの意識体がいずきの身体に潜り込み目覚めているはずだからだ。
悟は二年八カ月間眠っていたが、ゲーム内ではさっきまで、ラルフォン・ガーディクスとして剣を振るっていた。そして、敗北したことも理解していた。意識体として再びゲーム内をさまようことになったはずだった。だが、強制的にジャンヌに意識体が組み込まれ、そして実際の肉体に意識体が戻り、目覚めた。
剣聖リヒトこと優子が奪ったジャンヌの記憶が欠損したままだった。この記憶のなかには、ジャンヌとして生きた悟の記憶があったはずだった。殺戮を重ねる、ゲーム内での悟の記憶は失くしたままでいい、と航海は思った。
あかねの肉体からはもう血が無くなったのではと思うくらいの出血をしていた。あかねのなかにいるいずきも呼びかけに反応しない。あかねの肉体は死に、いずきの意識も死んだ。
航海は【エイム・リバウム】を詠唱した。だが、所詮はゲーム内での魔法、蘇生などできるはずもない。
「悟!いや、ジャンヌ!【エイム・リバウム】を詠唱しろ!」
航海の叫びが病室のドアを貫く。あかねの流れる血が廊下にまで流れ出ていた。体内の血が枯れる、そのとき悟の中に潜むもうひとつの意識体が、目覚めた。
「あなたは、リグレット?」
「きみは、悟?それとも」
「僕はジャンヌ」
悟の中にジャンヌが目を覚ました。航海の願いが叶ったかに思えた瞬間だった。