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パンとサーカスと、自転車に乗って【9】

第九話・川村紗智の十五年前の記憶

 川村紗智かわむらさちは、芽の出ない役者生活に見切りをつけるべく、退団届を劇団の主宰、合田に出した。かつては恋人の関係でもあったが、結局は合田が劇団員の若手俳優に手を出し、妊娠、結婚とお決まりのコースになったことで終止符を打った。身体だけの関係を継続しようと合田は紗智に頻繁に連絡を試みるも、紗智のガードは固かった。不倫はこりごりだからだ、紗智は過去の不倫で金銭的にも精神的にもダメージを負っていた。そして、それを十年以上経った今も引きずっていた。

 合田は端役にすら紗智を起用することを止めた。看板女優とまではいかないが、紗智目当てに観劇に来るファンもいる。劇団内オーディションに挑んだが、ここ五作、一年近くは出番がなかった。
 もう三十九歳だ。行くも戻るもいまが大切だと思うと、前にも後ろにも一歩も進めなくなっていた。紗智の生活の基盤は、カラオケ店でのアルバイトだ。かれこれ五年近くになる。若いアルバイトの仲間たちは、ほとんどが大学生ばかりだった。龍正館大学の通学の途中にあるからだと知ったのは、同じアルバイトの大学生からだった。先月から入ったアルバイトの菅野奈緒かんのなおは大学の小劇場で女優を務めていた。紗智がプロの劇団員だと知ると、休憩時間によく話しかけるようになってきた。一度、紗智の所属する劇団を観に行きたいというものの、丁重に断っていた。

 紗智はこの一年近く役を与えられていなかったからだ。若いキラキラしたこんな時代が自分にもあったと思うと、それは羨ましくもあったが、自分はその時間を無駄に消費したことを後悔するしかない。劇団に入団して間もない頃、あるセミナーで女性と知り合った。女性のための生活支援といったセミナーだった。チケットノルマを売りさばくために、セミナーに参加して知り合いを作れと、先輩の俳優から教えられた。
 セミナーで知り合った人たちにチケットを買わないかと持ち掛けるも、まるで宗教の勧誘をされているかのごとく邪険にされた。一緒にお茶をした同年代の大学生に、怪訝そうな顔をされたのが今でも忘れられない。

 席を立ちレジへ向かおうとしたとき、腕を掴まれた。後ろの席にいた女性だった。彼女は早田千賀子そうだちかこと名乗り、さっきのセミナーに出ていたと言った。整った顔立ち、すらっとした背筋、上品なワンピースに、持っているバッグはブランド品ではなさそうだったが、質のいいものだと、若かった紗智にも一目でわかった。千賀子は紗智の腕をそっと離し、「ねぇ、いいかしら」と今更ながらに許可を求めてきた。紗智は当惑したが、千賀子の美しさに判断が鈍り「はい」と答えた。
「何のチケットを売っているの?」
「あぁ、これですか。私が所属している劇団の今度の公演チケットで…」
 紗智は伏し目に言った。
「ここ座らない?」
 紗智は千賀子の前に座った。
「私、お芝居って大好きなの。私に買わせてくれない?」
「い、いいんですか?」
「もちろんよ」
「いつ公演かしら?」
「今月三十日、18時からで、駅前のシアタースネイクというところです」
「ちょうど、空いてるわ。じゃぁいただくわ。チケット」
「四千五百円です」
「あら、じゃぁ十枚いただくわね」

 紗智はソファー席の後ろに座りなおした。この初対面の女性は、見知らぬ売れてもいない劇団のチケットを十枚も買うと言ったのだ。四万五千円、当時の紗智のアパートの家賃と同じだった。
 千賀子は友達を連れて、観劇に来てくれた。何度も何度も、チケットを大量に買い、多い時で五十枚は買ってくれた。千賀子に頼めばノルマも簡単に越えられる。千賀子と知り合って一年ほどすると、紗智にもどこか甘えやゆるみのようなものが生まれていた。千賀子は紗智に頼みごとをした。
 千賀子からあるアルバイトを頼まれた。二カ月にわたるものだった。二カ月で前金三百万円、成功報酬で追加二百万円。合計五百万円にもなるアルバイト。性的なものではない、ただ、今となって、あれは犯罪に加担したのではないかと思えてならない。墓場まで持っていかなければならない、と今も紗智は思っていた。京都から離れて、別の地で住むことも考えた。だが劇団で成功することを考えると、京都を離れることはできなかった。

 あれから十五年経った。今日、街で千賀子を見かけた。時間は経っていたが、あの凛とした容姿は変わっていなかった。一目見れば千賀子とわかった。自分の母親が年をとっても認識できるように、あれは千賀子だとわかった。四条通を北に曲がり、高辻通をまっすぐ向かって歩いていた。
                   
 やはり、市内にいればどこかで会う。千賀子とはあのアルバイト以降は会えていなかった。チケットをたくさん買ってくれた恩人だったし、二カ月に及ぶあのアルバイトで本当に後金二百万円も支払ってくれた。前金の三百万円と合わせて、五百万円もの大金。
 あの頃、どこか怪しさや不可思議さを紗智は感じていた。が、それを言えば、五百万円は手に入らなかった。もしかしたら、別の千賀子の友人が手にすることになるかもしれない。これだけのお金があれば、バイトの量も減らして劇団に集中する時間も増やせる、紗智はそう考えた。すべては、俳優として大成するためだと、割り切った。もう十五年も前のことだと、どこかで大人になるようにしていた。

 十五年ぶりに見かけた千賀子の後ろを紗智はつけていった。千賀子は北へ北へと向かって行った。御池通に差し掛かるあたりで、誰かに声を掛けられているようだった。「サキエさん」と呼ばれていた。苗字はたしか「ソウダ」だったはずだ。
 声を掛けたのは、女性だ。後ろ姿しか見えない。若い女性だ。大学生ぐらい、二十歳そこそこ。横顔を見て紗智は声をあげそうになった。アルバイト仲間の菅野奈緒だった。千賀子と奈緒が知り合い?偶然なのか必然なのか、菜緒も私と同じ“劇団員”だ。彼女は大学のアマチュアではあるが、自分だって同じようなものだなんじゃないのかと、紗智は自虐的な問いと答えを投げかけた。
 
 千賀子から依頼されたあのアルバイト、今となっては後悔している。確かにあの時の五百万円は、俳優を続けるために必要だった。でも、今となってはその俳優を辞めようとしている。いつも後から答え合わせすれば、その選択肢は間違っていたのではと思うことが多い。だれだってそうかもしれない、でもだれだって“そうでない”かもしれない。

 早田千賀子は偽名を使っているかもしれない。「サキエ」はおそらく下の名前だろう。奈緒に知らせた方がいいのか、知らせるとしても今ではないだろう。話が複雑になりかねない。自分が十五年前に報酬として受け取った五百万円のことを持ち出されたら、奈緒から警察に話が流れるかもしれない。「あのこと」は墓場まで持っていくと決めたこと、紗智は二人に背を向け高辻通を南へと歩き始めた。過去にも背を向ける、それが自分の生き方だ、若い頃の不倫にしても、千賀子からの怪しいアルバイトにしても、青春のすべてを投げうって注ぎ込んだ俳優という仕事も、すべてに背を向ける。うつむいて歩く紗智は、何かにぶつかった。人だ。男の人、背の高い青年だった。

「大丈夫ですか。すみません、歩きスマホしちゃいました」
 青年は地図のナビゲーションを見せながら言った。
「ええ、大丈夫です」
 青年はよろけて地面に座り込んだ紗智に左手を差し出し、引っ張り起そうとしてくれた。御池通の方から、若い女性の声がする。奈緒だ。まずい、ここから離れないと、と紗智は地面に打ち付けた左足の痛みを堪えながら、青年に会釈してその場を立ち去ろうとした。
 若い女性の声がまだ聞こえる。
「久保隅くんっ」
 奈緒が青年に、ここだよ、と知らせんばかりに大きな声で手を振りながら呼びかけていた。千賀子の声も聞こえる。
「秀一、ここよ」と。

 “シュウイチ”私が十五年前に千賀子から頼まれたあの子は、“リュウイチ”といったことを思いだした。少し似た名前、青年が差し出した左手には特徴的なホクロがあった。三つ並んだホクロ。紗智はすっかり忘れていた記憶が一気に思い起こされていくことに嫌悪感を抱いた。十五年前の記憶、そこに至るまでの記憶はすっ飛ばされて、まさにあの二カ月にタイムリープしているように。

 紗智は痛む左足を庇うように、歩き続け路地へ進み、最初に目に入った喫茶店のドアを開いた。千賀子にも、奈緒にも見つかりたくはない。ただ、奈緒にはどうにかして、千賀子のことを訊きだしたい。

 あの人の名前は?試しにスマホで“ソウダサキエ”と検索しても何も出てこない。“クボズミシュウイチ”と検索してみた。特に何も出てこない。紗智は“クボズミリュウイチ”で検索した。まさかと思ったが、動画配信のZユーブがヒットした。
 自己紹介欄には、音楽?夜学に通う十七歳・ボカロPとあった。自作の音楽を配信しているのだと、ようやくわかったのは、注文したアイスコーヒーと昼食代わりのパンケーキがテーブルに置かれた時だった。
“クボズミリュウイチ”は「久保隅龍一」と書くらしい。自己紹介欄にそう書いてある。
 久保隅龍一の「夕暮れに笑う」という曲を聴いた。歌詞の情景、それは、紗智が辛い時に決まって夢で見るものと同じだった。
“細くまっすぐな川沿いを、手をつないで歩く。小さな手と大きな手、古びた橋の間から見える夕焼けと聞こえる電車の音。カレーのにおいがいつもしていた”紗智は歌詞を書き出した。

 十五年前のアルバイト中に唯一許された外出は、アパート前の川沿い。駅から近かったせいか、単線の電車の音が響いていた。石造りの古河橋はマンションとマンションの間に挟まれ、そのすき間に夕焼けが見える。五分程度の散歩道、近くにあったカレー屋からスパイシーな香りがしていた。似ている。あの子の名前は“リュウイチ”、これは偶然の一致なのか?
 コメント欄で訊くわけにもいかない、奈緒にどう聞くか悩ましい。千賀子について、久保隅龍一こと久保隅秀一について、手順を間違えば野暮なことになる。
 紗智はパンケーキを半分ほど食べ終えたころには、コメント欄に本人が呟いているのを発見した。今日の日付だ、時間は朝方。
〈259531943513、今日わかるかもしれない〉と投稿されていた。
紗智はコメントをスクショし、スマホをスリープにした。追加オーダーでピザを頼んだ。もう体型を気にする必要もない、思い通りの人生を思い通りに生きてやると、劇団を退団する決意を強くしていた。

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