見出し画像

パンとサーカスと、自転車に乗って【7】

第七話・距離感のなかで数字を噛む

 陽子は、昼間はビルの清掃、夜は学校とハードスケジュールを難なくこなしていた。学校より子育てのほうが肉体的にも精神的にもキツイ。息子が反抗期だったころは、いつもぶつかりすぎるから、もう一人の大人として対応しようと決めた。それが幸いした。放任主義とも違う、自由主義とも違う、もちろん過保護でもない、過干渉でもない。職場の大人と付き合うように、自分の都合だけで話をしない、そのルールだけを課した。するとうまくいった。

 息子の翔太しょうたは今年の春大学を二回生だ。小さいながらマンションのローンは終わった。学費はまだ残るが親孝行にも国立大学だ。金銭的には余裕はないが、借金があるわけではない。資産がある分気持ちは楽だ。どこで聞きつけたのか、同じパートの杉浦は陽子のプライバシーにズカズカと遠慮なく踏み込んでくる。

 息子さんが就職すれば、ちょっとは援助してもらえるんでしょ?最近の杉浦はこんな嫌みばかりを言ってくる。聞こえみよがしに、休憩用の小さな控室で必ず話題に出してくる。
「そんなこと、ありませんよ。息子は息子ですし」
「でも、家に住まわせてるんでしょ。なら生活費もらわないと。携帯代だってばかにならないんだし。どこにお勤めになるの?」
「いえ、まだ大学生ですから」
「大学生も二回生からは就職のこと考えないとダメよ」
 控室のドアが開く、クボさんだ。本名はしらない。みんなクボさんと呼ぶ。
「杉浦さん、お口が過ぎるようね。少しお黙りになったら?」
「あ、クボさん。すみません。わたしそんなつもりじゃなくて」

 陽子は杉浦が極度に怯えていると感じた。クボさんはこの中でも古株のパートだ。社員にならないかと言う声もあったようだが、子育てが忙しいということから、断ったと聞いた。全て杉浦からのこぼれてくる噂話だった。
 杉浦は逃げるように休憩所をあとにした。
「ありがとうございます。私中田陽子と言います。ここにきて一年程度ですが、別の清掃会社で長く働いてきました。清掃一筋です」
「あら、初めましてじゃないわよね。でも、そんな畏まらないで。私面接官じゃないのよ」
 クボさんにはどこか落ち着きのある気品のようなものがあった。年齢は自分より上だと思うが確信が持てない、と陽子は困惑した。
といっても、年齢は?なんて女性同士でも聞けない。そんな失礼なことを訊けば、杉浦と同じ位置になってしまう。陽子は、深呼吸した。
「あ、私、クボさんって言われてるんだけど、本名は久保隅です。久保隅咲江です。年齢は言いっこなしでいいわよね」
 久保隅?どこかで聞いた覚えがある。
「みんな久保隅って長いから、クボさんって呼んでくれるの。咲江さんって呼ぶのは、所長かな。社員の人たちは、付き合いも長いから咲江さんって呼ぶわね」

 陽子は咲江のハキハキとした物言いに、吸い込まれるようだった。

 魅力的な女性だと女性が見えても思う。夫と別れてから一人で翔太を育てて、そのなかで言い寄る男たちもいた。実際に、前の清掃会社を辞めたのは、既婚の社員に言い寄られてうんざりしたからだ。翔太にはそんな話はしていない。反抗期でさんざん苦労した、距離感の取り方は覚えた。息子への距離は夫への距離とは違う。なんでも話していい家族はいない。夫でも。息子ならなおさらだ。よその子と同じくらいの距離感、そう、秀一くんと同じくらいの距離感が大切だ。
 昨日はLIMEの連絡先をもらってどぎまぎした。息子より若い子供に、恋愛感情はない。だが、男の子から連絡先をもらえたのは悪い気はしない。クボさんなら何て言ってくれるだろう。親子ほどの男の子でも舞い上がるわよね、だろうか。それとも、あなたわきまえなさい、だろうか。予想がつかない。どちらを言われても、肯定してしまいそうな気がする。クボさんにはそんな不思議な力があると陽子は感じていた。

 この現場は他のパートさんが急遽退職することとなり、陽子がヘルプで駆り出された。杉浦がいるということで、うんざりしたが、クボさんがいてくれてよかった。会社からはベテランさんがいるから、安心してだった。キャリアなら自分もベテランだが、会社ごとにルールも違う。転職して一年程度では、まだコツが掴めない。特に問題は人間関係だからだ。

 清掃の仕事は黙々と一人でするものと思われがちだが、こんな二十階立てのビル丸ごとの清掃なら、一人では難しい。日を分けて、フロアを回っても、五人は必要だ。ゴミ自体は各テナントの社員さんたちが仕訳して、ゴミ捨て場に捨ててくれる。そういう点ではこういう、大きなビルの清掃はラクだ。だが、一人で回しきれない分、その日のシフトメンバーとのコミュニケーションは大切だ。どの階を回るというだけでない。いつも同じフロアを担当するわけではないから、各々でフロアの特徴や決まり事みたいなことを引き継ぎあわないといけない。
 先日五階の会社の役員室を清掃しようとドアを開けたら、どうも役員の男性と若い女性の修羅場の現場だった。後から聞くと、五階のあの会社は役員会議室の清掃は朝イチで清掃することとされているらしい。
 陽子はコミュニケーションが苦手と言うほどではないが、さっきの杉浦のような図々しいタイプへの対処法はあまりパターンがない。そんなことを思い返しているうちに、おもわずクボさんに
「ありがとうございました」
 とお礼をいい休憩室を出て行った。

 仕事は四時に終え、陽子はいつもより一時間早く学校に向かった。六時授業開始の前、五時に着いて、コミュニケーションルームで秀一と待ち合わせをしていた。会いたいという口実づくりかもしれないが、あの暗号の謎がなんとなく解けそうなのだ。

 昨晩、陽子は秀一の言っていた暗号とにらめっこしていた。25曲目が「2595」で「31曲目が「3194」35曲目が「3513」。つなげると、259531943513。電話番号のように見えるので、スマホでも検索してみたが何もわからなかった。家でノートに書いて、足したり引いたりしていた。一時間近く格闘したが、一向にわからず諦めて風呂に入った。陽子が風呂からあがると、翔太がノートを眺めながら、冷蔵庫に入れておいたオムライスを食べていた。
「帰ってたんだ」
「うん、バイトが早く終わって」
 翔太はオムライスを頬張る。
「スープもあるのに」
「作ってよ」
「母さんいまお風呂上り、髪もぬれてるんだから。ほら、チンして」
 陽子は冷蔵庫からボウルに取り分けて置いたカボチャのスープを渡した。翔太はスープをレンジにいれて、700Wで二分近く温めた。
「温めすぎると、吹き出すわよ」
「あーい」
 翔太はひとくちオムライスを口に入れ、スプーンを持ちながら行儀悪くレンジ前に向かった。一度レンジを止め、スープの温まり具合を確認して、残り一分近くあったタイマーを三十秒に変えて温めなおした。

「ねぇ、この数字なにさ?」
 翔太はノートの数字に興味を持った。
「え、それは、学校の友達に教えてもらった暗号」
「じゃぁ、解読済みってこと?」
「違う違う」
 洗面所からゴーォっとドライヤーの熱風音が響く。翔太が中学生に上がった時に買ったものだ。今時の静音タイプとは違う。音ばかり大きくて、ちっとも乾かない。
「これさぁ、スマホで調べた?」
「なに?聞こえない」
 翔太はスマホで暗号の数字を打ち込んだ。
259531943513、ネットで検索しても何もヒットしない。じっと数字を見つめる。腐っても工学部、理系の端くれ。数字と名のつくものは、自分の守備範囲だと翔太は息巻いた。
 陽子は乾ききらない髪をハンドタオルで拭きながら、キッチンの椅子に座りテレビのリモコンを手にした。
「なんだよ、いま暗号解いてるのに」

 スープをずるずると音を立てながら飲む翔太に「行儀わるいよ」と陽子は笑顔で言い放つ。親子でもこの程度の距離感が大切だ。笑顔は重要。しつけする年齢でもないが、よその家の子と結婚するとなれば、食事のマナーぐらいは覚えておいて欲しい、母としての当然のリクエストだった。
 陽子はリモコンのスイッチを押し、ザッピングする。お目当ての番組を探しているようだ。
「なにか観たい番組でもあるの?」
「懐かしヒットソングベスト100よ」
 4チャンネルにすると、いつも朝の情報番組で見かけるアナウンサーがドレスを着て番組の進行をしている。隣には、芝居でも定評のあるお笑い芸人の男性だった。
「これこれ」
 陽子は冷蔵庫からノンアルコールビールの缶を取り出した。翔太がグラスを二つだして、自分にも注いでとアピールした。泡がとととっと立ち、シフォンケーキのように泡がすぐに引っ込んだ。
「ねぇ、母さん、お目当ての歌手でもいるの?」
「そんなのはいないわよ。でもね、歌を聴くとそのときの想ってたこととか、情景とか、そんなのを思い出すのよ」
「思い出したいの?」
 翔太は気兼ねなく訊いた。翔太は親子の距離感はあまり気にしていない。母はやはり母だ。陽子ほど気にはしていない。
「ほらこの曲、翔太が生まれた時にはやってた曲!」
「ちょうど離婚した時の曲だろ」
 翔太はグラスに並々と注いだノンアルコールビールを飲みほした。
「そうね」

 陽子は翔太が生まれた時のことを思い出していた。不思議とあのろくでなしの元夫のことは思い出せない。顔も思い出せない。声も。不思議だ。曲が変わる。ベスト30の発表に入った。
「ポケベルを忘れて」往年のヒット曲だ。歌っていた歌手が久々にテレビに出ていた。
「ねぇ、母さん、ポケベルってなに?」
「ポケベルってのは、携帯電話が出る前に、こう数字を打って、文字を小さな端末におくるってので。ネットで調べてごらん。説明が難しいわよ」
 翔太は「ぽけべる」とネットで調べた。なるほど、数字の組み合わせで文字を相手に送るサービスか。ちょっと前の携帯の文字入力にも使われていたそうだ。11と入力すれば「あ」らしい。一行目の数字は、あかさたなはまやらわの「行」、二行目の数字は「母音」1が「あ」に5なら「お」だ。21は「か」52で「に」。だから、2152は「かに」ってわけだ。なるほどと、翔太は思った。意外とシンプルだ、二桁の数字、二つ目の数字は、1から5までしかない。

 翔太は「わかった!」と声をあげた。
259531943513は

25
95
31
94
35
13

だ。二行目が必ず1から5の数字だ。これはポケベルの変換コードじゃないか?翔太は陽子に説明した。ポケベルのことなら陽子の方がよくわかっている。ポケベルに届いた怪しいメッセージで元夫の不倫を暴いたのだから。

 陽子は記憶をたどりながら、ポケベルの変換コードで259531943513を解読する。

25=こ
95=ろ
31=さ
94=れ
35=そ
13=う

 数字の意味は「ころされそう」だった。陽子は慌てて、秀一と会う約束を取り付けた。
解読には翔太がいなければ無理だった、陽子はそのプロセスまでも秀一に説明したかった。陽子はとにかく、不穏なメッセージとなるこの暗号を自分の口から伝えたかった。はやる気持ちをおさえきれず、五時の待ち合わせのニ十分前に陽子はコミュニケーションルームに到着していた。


いいなと思ったら応援しよう!