パンとサーカスと、自転車に乗って【5】
第五話・日記とファイル名
英子は正美が三歳の頃離婚した。英子は正美が事故にあったのは、何か自分が憑き物に呪われているからではと悩んでいた。正美が五歳の頃にある集会に誘われた。友人がいない英子は、集会に参加した。地域ボランティアという名目だった。地元の子供たちを集めて、お楽しみ会をしたり、独居老人たちの話を聴いたり、地域の清掃活動も行っている団体だった。その団体が新興宗教だと気づいたのは正美だった。家じゅうのお金を浄化と称して献金する英子に、正美は抗うつもりで登校拒否になった。見せかけは学校に嫌なヤツがいる、本心は、母親をその団体から離脱させるためだった。秀一は正美から預かった楽曲に詩をつける際に、正美の日記を借りたことで正美の本心がわかった。
「英子おばさん、正美に記憶戻って欲しくないのかな?」
秀一は夕食をとりながら、咲江に訊いた。大好物のハンバーグは和風ソースに茹でたブロッコリーと炒めたコーンが添えられている。「そんな親いないでしょ。でもね、英子さんに関わらない方がいいわ」
咲江は冷蔵庫からビールを取り出した。
「どうして?」
「正美くんから聞いてない?」
「何を」
咲江は含みを持たせた言い方をする。
「英子おばさん、ほら私に勧めてきたのよ。「ほがらかさん」ってボランティアに参加しないって?でも、私これでもわかってたのよ。彼女のよくない噂も」
「どんな?」
「入院費が払えないって、私に貸してくれって」
咲江はビールをグラスに注いでゴクゴクっと飲み始めた。体調のいいときは、ビールを飲む。夏だから無理もない。今日は暑かった。僕も大人になったら飲むのだろうかと、旨そうにビールを飲む咲江を見て秀一は思った。
「正美の家ってそんなにお金がないの?」
「だから、ほがらかさんにハマって、その新興宗教っていうの?お布施でスッカラカンらしいのよ」
「そうだったのか」
そのあと咲江はハンバーグをつまみにビール三百五十ミリリットルを二缶空け、キッチンは沈黙のままだった。
秀一は食事を終えると部屋に戻った。パソコンに取り込んだ正美の作った音源を起動し、フリーのDTMソフトにボカロの音声を打ち込み始めた。どれも自分の中から生まれてくるとは思えない音だった。
「凄まじいな」
正美の創る音には、美しい旋律・コードを幾層にもミルフィーユのように重ねていた。コードの入りが美しかった。サビから入る、Aメロが途中で終わるが、またAメロに。印象の強い曲調、途中で転調が入る。正美はUSBに入っていた全曲、時間をかけて聴き尽くした。違和感があった。どの曲にも転調がある。
曲の順番がファイル名に書かれている。1曲目のファイル名は01だ。USBには41曲入っていた。違和感の正体はわからない、逆回しにしてなにか潜んでいるような。どういうわけか、25曲目には95と、31曲目には94とそして、35曲目には13と。わけがわからない。正美は本当に僕に曲を完成させて欲しくて音源を貸してくれたのか?と秀一は考えた。考えに考えたがわからなかった。単にファイル名の打ち間違えだろう。そう考えると落ち着くが、合理性を欠いていた。正美は几帳面だ。借りた日記もびっしり毎日三行で書かれている。一日たりとも休まず。事故があったあの日まで。
このとき、曲のファイル名に隠されている正美の想いにはまだ気づかなかった。