おすすめの鑑賞法、北斗の拳に例えてみました
大人になってから何回泣いただろうか。数えたことはない。数えるほどだと思う。就職活動で苦しかった時、プロポーズを受け入れてもらえた時、仕事で大ミスした時、では泣かなかった。
子どもが生まれた時、父が他界した時、には涙が出た。悲しかったりうれしかったり。喜怒哀楽の感情表現のうち、哀ってのはなかなかに感情の鉱脈・油田みたいに、掘ればワッサーと出てくることがある。そうなると、日常生活では困っちゃうから、蓋をしているのさ。
観ました。また映画の方を先に
小説は持ってます。順番待ちです。なかなかに長いです。150分ですよ。二時間越えてますから。分割鑑賞でした。全体的に感情を揺さぶってくる映画だなぁと思いました。涙ひとつぶも出ませんでしたが、どこか全体に悲しみが伝わってくるのだけれど。
「わたし、可哀そうな子じゃないよ」
という更紗(広瀬すず)の言葉がこの映画の観方をガイドしてくれている気がした。可哀そうな人として、更紗のことも文(松坂桃李)のことも観てしまいがちだ。この映画では、この物語では可哀そうな人はひとりもいない。不幸でもないし、自分で自分の生き方を選択しているだけで。
小児性愛ということがテーマではない、そこを間違うと映画の本筋を見失う気がした。それは、事件が起こるきっかけのようなもので。
例えるなら北斗の拳が戦いがテーマではなく、兄弟愛や仲間を思う「愛」と「宿命」(その不条理さなど愛と対峙する人間が決めたルールや決まり事または勝手に運命と呼んでいるもの)の対決構造だと思う。
この 愛>宿命というコンセンサスに対し、愛<宿命となっている北斗の拳の物語設定に読者が唯一できることは「応援」という形になる。この応援は、感情移入や共感という形になって、主人公のケンシロウだけでなくラオウやカイオウといったヒール側にも宿命に勝ってくれよ!という感情をもたらすのだ。
で、この『流浪の月』は社会通念上そりゃぁダメな「未成年者略取=誘拐」や「小児性愛」を物語のドライバーにしているだけだ。北斗の拳でいうところの、北斗神拳や南斗聖拳というぶっそうな拳法に相当している。もう少し北斗例えで言うと、物語中でどれだけの人が殺されても(特に悪人たち)、それはダメでしょうともならず。善人が殺されても、「この件について、裁判すべきだ!」といった議論にはならない。
「人が殺されるという」事案が発生しても、読者たちがスルーするのは、物語の軸をそこに観なくなっているからだ。なので、『流浪の月』もこの物語を進めるための「未成年者略取=誘拐」や「小児性愛」をテーマとして捉えすぎると、映画として表現したかったことや伝えたかったこと、感じて欲しいこととはちと違ってくる。(ダメなのはダメだよ)
文という誰もが持つ、自分の中の危うさ
佐伯文(松坂桃李)は小児性愛者だが、その欲望を叶えようと積極的に働きかけたかでいうと、生きている流れのなかでそういった事案に巡り合ったというのが適切だと思う。途中、幼少期の更紗とのかかわりあい(食事中に唇についたケチャップをぬぐい取るシーン)で欲望の方が勝ちそうになるが、人間らしい描写のように感じた。
こうした、自分の中の欲望が危うさとなるのは、社会通念上・法律上・人道上・道徳上NGとなっている場合のみだ。たとえば、ダイエットしているのに、何かドカ食いしちゃうなんてのは、自分の欲望が決めたことに勝っている。この決めたことが社会が決めたことじゃなくて、自分で決めたことなので、そのルールを破るのはご自由に、ってとこだ。
欲望の種類がこうした社会通念上・法律上・人道上・道徳上NGなのかそうでないのか、それはその時代が決めることもあるし、昔からダメってこともある。そうなるとこの映画では「誰が誰を裁いているのか」ってことが重要なテーマにも昇格していると思うのだ。
誰が誰を裁くのか
物語の序盤と中盤に出てくる「ロリコン反対!」の中学生たちは、社会そのものだ。無垢な状態の彼らに植え付けられた社会通念はどこから形成されたのか。まだ15歳ぐらいだとして、いつからそれはダメだろう+断罪していいとなるのだろうか?と考えた。
大人がもつ考え方をバージョンアップ・マイナーチェンジして生きているのが次の世代のようにも思う。時に、それに反対し・憎み、時にそれに賛成し・共感する。誰が誰を裁くのかって問題は、それは「あなたには関係のないことでしょうに」っていう解答といつも相撲をとっている。土俵際でいつも戦っていて。結局、誰かが誰かを裁いてもいい社会になってきている。それは、「自分が不愉快に思えば、その相手を叩きのめしていい」文化をみんなで応援しているようなものだ。
自分に関係ないから、無関心であれ とは違う
「自分事でないことには、関心をもつべからず」なんて話しではなく、「自分事でないけれど、自分に置き換えて考える」という話なのだ。何でもかんでもというわけにはいかないけれど、物騒な事件や断罪したくなる事件、そんなことがあると「あーだ、こーだ」と言いたくなるものだ。だけど、「もし、自分ならどうだろう」と考えてみるきっかけでもあるのだ(毎回は無理よ。そりゃぁ)
物語としての引き込み度が強い
というわけで、『流浪の月』はそのセンセーショナルさに負けずで、物語の展開やその展開を自分事の「何か」に置き換えると、グイグイと引き込まれて行ってしまう。
「お前、異常だよ」という中瀬亮(横浜流星)の言葉は、軸が自分にあってその自分を支える背景に社会を味方につけている言いっぷりだ。異常なのかもしれない(詳しくは観てね)、でも、それを自分で選んでいる時点で、それは「自分には、正常なのだ」。
誰かにとっての「異常」は自分にとっての「正常」。これが多様性の正体だと思う。なんでもかんでも、多様性と言っちゃえば便利極まりなしだけども。物語は、「未成年者略取=誘拐」という見え方がする以上、活字情報だけでは佐伯文をかばうだけの材料はどこにもない。
だがそれを家内更紗が許しているのなら、それはもう誰にもとやかく言われることではないのだ。で、これはいいの?これはダメなの?みたいな想いになるというのもこの物語・映画がもたらすお薬の効果だと思う。
正解なんてどこにもないし、よくわからない。
でも、自分なりの正解をだした二人は、ちゃんと次へと進んでいく。エンディングの結び方は、大変だろうなぁと思わせるものだけど、本人たちが選んだのなら、それでいいのではと思うのだ。
まぁ、そういう意味では難しい映画でした。
長い、長いけど観る価値に気づける一作「流浪の月」、ぜひご鑑賞くださいませ。