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誰かを愛しても、全ては解決しない。どうせ解決しないのが人生だろ、って映画

韓国語が全く話せない主人公・剛(池松壮亮)。兄を頼って、小学生(ぐらいの)息子と一緒に韓国へ。住まいを引き払って、決死の覚悟。その割にかなりの行き当たりばったり。最低限の韓国語、聞き取れなくても多少話せないモノか。いや、スマホで自動翻訳してくんねーのか。

となると、映画のファクターに「スマホ」って小道具はとても厄介だ。なんでも便利になる。冒頭地図を持って、兄・透(オダギリジョー)のもとへと尋ねるシーン。これはスマホでサッと場所特定して解決できないものか。

兄の家に着いた際、兄の仕事仲間に泥棒扱いされる剛。言葉が通じない。スマホでなんとか翻訳して意思疎通できないものか。

できない、というよりしていない。映画の後半にガラケーが出てきた気がする。見返すことはないが。CDをラジカセにぶっこんで流しているシーンもあった。たぶん2000年ぐらいの設定なのか。もう考えるのはやめよう。とにかくこの世界には「スマホ」はないんだ。それでいい。ヨシスタート。

池松壮亮という天才

池松壮亮そうすけ、パソコンで池松まで打ち込むとフルネームで出てくる。「そうりょう」だと思っていたごめん。池松壮亮はいろんな映画で観ているけれど、どこか頼りないというか意思がないというか優柔不断というか、『ちょっと思い出しただけ』なんかはいい映画だった。そこに置きっぱなしにした愛を描いている。愛ってそんなものだろ、ねぇ。

この天才、ヨッ!ドッコイショ!べらんめい!なんて合いの手入れながら映画観たら、映画館じゃぁ無理だな。酒場で涙する、落ち目の歌手ソル。言葉が通じない剛(池松壮亮ね)が何とか会話を試みる。でもダメ。これが全体の伏線。この通じなさを通じ合うところまで、映画のなかで引き上げていく。ゴールが想像できる・想定できる映画って安心とかじゃなくて、目標があっていいなという感じ。映画がたとりつくべき理想の位置へ、向かって行く。

物語そのものや、さまざまな登場人物たちがそれを阻止し、サポートする。よくわからなさって、人生そのものだ。つかみどころがない。そんな映画だった。そのつかみどころのなさは、映画にすべき事柄だし、それを演じるのは映画の世界に陶酔させてくれるような俳優が必要だ。

そういう意味で池松壮亮は最適な俳優だろう。この韓国語不勉強モンが!バカチン!子どもの学校どうするんだよ!転入届、転校届、就労ビザっていらんの?え?引き払うなよ日本の家。と、総ツッコミを入れながらも、まぁこういう人はやっちゃうんだよな。と妙な納得感もあり。

オダギリジョーの適当さが緻密さの裏側にあり

抜ける、抜いた、こういう技術。どんな世界でもある程度のキャリアを積むと求められるというか引き出しに無いと辛い。そうはいいつつも、すっごい難しい。ギャップを作るためにも、速い球もゆっくりとした球もどっちも投げられると幅は広がる。

僕は剣と魔法のファンタジー小説も書くけれど、もともとは重松清先生のファンなので心にじーんとくるお話も書くようにしている。(そのつもりね)シリアスなものは微妙なんだけど、それもトレーニングしている。投げる球の速さは幅があるといいねって話だよ。

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こういう、幅を持てる俳優ってのは映画全体の進行を補正してくれるので取っ散らかりそうになっても、「ところがー実は」みたな枕持ってきても、まぁ仕方ないか。みたいになるのだよ。

韓国と日本の対立軸について考える

僕の世界は狭いんだろうけれど、韓国人の友達もいるし。韓国人と結婚した日本人も、数少ない友達のなかにいる。市民レベルでは対立なんてないよってなってきている。在日韓国人もそろそろ5世の時代で、帰化するかしないかで持てる権利は変わってくるけれど、差別が目の前で堂々と走ってるなんてことは目にしたことがない

それだけ僕の見識も広くないだけなんだろうけど、そもそも相手のことを批判する否定する罵倒する見下すだけの材料なんて持ち合わせていないのだ。知らないのだ。茶碗を持たずにメシを食うことは知っている。でも行儀やマナーはカントリールール(ルールじゃないけど)みたいなものだから、そりゃぁ国が違えば違うだろうに。その延長線上にたぶんお互いの違うところがいくつかあって、でもそんなもの違って当たり前だからどうでも良かろうとなる。

いつの時代も、どこの国でも「あいつが嫌い・あの国が嫌い」なんて人はいるものだから、その主張はその主張。それは時に偏見みたいなもので、言葉にすることすら危ういものだから、穴でも掘ってそこで叫ぶに限ると思う。

という前提みたいな食事会がこの映画にもある。どちらかというと韓国人側・ソルの兄ジョンウがサラッと民族間対立やわかりあえなさを前提に話をする。

そこを突破するのが、剛と透なんだよな。愛なんて次から次へと湧き出るものでもないが、湧き出たらそりゃぁなかなか止まらないものだ。あふれ出た分それを相手が受け止めきれなければ、残像や残骸のようにその場所に転がって置かれたままになっちまう。

そんな零れ落ちそうな愛を自分の喉元で「ングッ」と飲み込むのがこの映画だ。

映画の余白の力が余韻を産む

エンディングまで多少の事件も起こりながらも、すんごく緩く進む。これはこうなのかな?みたいな想像の範囲は多い。明確な答えがセリフや態度からは明らかにされていかないからだ。読み違いするほどでもないが、とにかく映画の余白が多い。これはどういう気持ちなのかな?みたいなのがわかりそうでわからない。いやいや剛がソルのこと好きなんでしょ、それはわかるさ。そうじゃなくて、人を好きになることと、自分がこれからどう立ち上がるかってことは、同時並行で進む課題だけど、交わったり交わらなかったりする課題なのだ。

だから、自分の人生は誰かを愛して愛されたからといって、そのほかの課題がすべて片付くわけじゃぁない。たとえば、仕事なんか。たとえば、子どものことなんか。たとえば、お金の問題も。

自分はこの先どうなっていくのだろう、みたいな不安を登場人物は皆抱えて、それに知らんぷりしたり、見つめたり、つかんでみたり、手放してみたり。その「自分はこの先どうなっていくのだろう」ってやつは厄介だけどいつまでも後ろにじぃいっとついてくる。

いい映画だった。ロードムービーのジャンルにあるらしいけれど、ファミリームービーだな。家族の定義って微妙、そこに日本・韓国を媒介に入れ込むことでいい味付けにしている。だから、エンディングもいい感じだった。

あのエンディング、よくわかんないよ、ってレビューも見た。そうよ、よくわかんないよ、これが余白。あれ、このあとどうなるの?なんてことを、しばらくしてからも思い出す、それが余韻。

余白と余韻が心地いい一作「アジアの天使」、ぜひご鑑賞くださいませ。


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