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普通の暮らしにロングトレイルを。

海外のロングトレイルを目指すのはステキだ。ワタシは行ったことはないんだけど、行った人の話を聞くのはタノシイ。観光とか登山ではなく、歩く旅。自然の中を歩くということだけでなく、トレイルエンジェルによるサポートなんかは、お遍路さんとご接待の関係にも似ていてステキだ。

でも、ワタシのような一介のサラリーマンにとっては、長期の休みに海外のロングトレイルを歩く、というのはなかなか難しい。

ロングトレイルの本質って、海外の有名なロングトレイルを歩かないと味わえないものじゃないと思うんだ。
もちろん、海外のロングトレイルを歩いて初めて得られるものも多いと思う。でもロングトレイルの本質とか価値って一つではなくて、それぞれ歩く人にとって違うんだと思う。

ロングトレイルにはいろんな価値がある、という前提で、ワタシにとってのロングトレイルの本質、価値について、最近つらつら考えていた。

ワタシは平日朝、週2回くらい四王寺山へ家から走っていく。週末は時々家から四王寺宝満と繋いで走る。家から宝満山、そして英彦山まで走っていくのは年一回といいたいところだけど、まだ累計3回しか行けてない。いつも走っていきたいところだけれど、チャリ+ランにするときもある。ごくまれに、駅まで電車で行って、駅から走ったりすることもある。由布院別府国東あたりとかね。

家からとか駅から行くことの価値って、日常生活と繋がっているところじゃないかな。登山口から歩くのは日常と別の場所に出かける感じがあって、ある意味テーマパークに行くようなものだけど、家や駅から行くと、ジブンの日常生活や、駅を使う人の日常生活のなかからスタートして、街を抜けて農業景観、里山の風景を通り、そこに繋がる自然の中に入っていく。少しずつ変わっていく景色の中で、街も里も自然も一続きになっていることを感じる。生態学で「環境勾配」なんて言葉があるけど、人の利用も含めた環境勾配に沿って歩くと色んなことを考えるし、何よりタノシイ。これがワタシにとってのロングトレイルの価値だし、たぶん、みんなにとっても、ロングトレイルの一つの価値。

そう考えると、九州自然歩道に舗装道路が多いということも、街から山に繫がってまた街に繋がるための大切なことに思えてくるね。

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