「任意のひとつ」 は 「すべて」
私が尊敬する人物の一人である佐藤雅彦さんが、とある本で述べていたことが、もうまさしく今日私の身に起こりました。
うわああ、なるほどな、と。
絨毯の上に画鋲を一個落とすと、途端にその絨毯の上を歩けなくなる。たった一個でも、”どこかにいる”ということは”全てに現れる可能性がある”。
これを「任意のひとつ」 とは 「すべて」である、と佐藤雅彦さんは言い表しています。(本当に目の付け所と表現が素晴らしい)
今日、私はいつもより少し早く退社して、電車に乗って音楽を聴きながらぼーっと「noteの記事何書こうかな〜」などと考えていました。
そして次の駅で乗り換え、というタイミングで、そいつはやってきました。
大きい、それはそれは勢いのある蜂が、電車内に入ってきたのです。。
真ん中ら辺に座っていた私は、そいつが車内に入ってきてすぐに気がつき、ハッとして目で追いました。
ドア付近でビュンビュン勢いよく飛び回る蜂に、近くで立っていた女性二人はそそくさとその場を離れ、ついでに乗り込んできた男性サラリーマンもすぐにドアから出て他の車両へ行きました。
他の乗客は、スマホを眺めて全く気づいていないだろう人もいつつ、気づいた人は同じようにその俊敏な動きを必死で目で追いかけていました。
おそらくその追いかけていた人全員が、
(こっちに来るな、、こっちに来るな、、)
と唱えていたことでしょう。声に出したら合唱できたと思う。
実は私、過去に蜂さんに4箇所刺された経験がありまして。
(あれは懐かしい、中学2年の始業式前日。洗濯を取り込んだばかりのジーンズに脚を通した時でした、、ああ恐ろしや)
あれ以来、蜂はそんなに得意ではなく、できれば半径3メートル以内には入れたくないです。アナフィラキシーなんちゃらとか怖いですし。
・・・そうこうしているうちに、電車のドアは閉まってしまい、監禁状態の蜂さん+乗客。(ごめんね、蜂にとって人間もきっと怖いだろうに。でも痛い針を持っているあなたも良くないと思うの。)
狭い電車内で蜂はビュンビュン飛び回り続けます。
一瞬、私の頭上1mくらいにきた時は、流石に身体が仰け反りました。
もうただひたすら(こっちに来るな、、こっちに来るな、、)を願い続けました。
「次は〇〇です。」
電車内のアナウンスが流れ、ああ早く着いてくれ、次の駅まで我慢、、そう思いながら飛び回る蜂を目で追い続けていたそのとき。
突如蜂の姿が、見えなくなってしまったのです。泣
(え、、?今あの男性の近くにいたよな、、?)
そう思いながら周囲を見渡してもどこにも蜂の姿は見当たりません。
私の死角にいるのか?と思い、他に蜂を気にしていたであろう人々の目線を見てみると、同じように蜂を見失ったのか、目が右往左往している人ばかり。
これは困った。あんなに怖い存在のものを見失ってしまった。
どこにいる?どこかから抜け出したのか?まだどこかにいるよな?え、私の足元にいたりする?!それとも誰かの服の中とかにいるのかな、、?!
嫌な想像が膨らむ私。必死に周囲を見渡すも、一向に蜂は見つかりません。
しかもこんな時に限って急行電車!!次の駅までなんでこんなに遠いの?!
いつもなら一瞬だと思う一区間がこんなにも長く感じたのは初めてでした。
・・・結局、次の駅に着くまで蜂を見つけることはできず(見つけたいよりも早く降りたいの方が勝っていたが)駅に着いてそそくさと電車を降りました。
まさに、「任意のひとつ=蜂」が「電車内すべて」に現れてもおかしくない状況。自分の身で体感して、よりその意味が理解できました。
もし、この「任意のひとつ」を認識していなかったら、もはやそれはないものと同義で、ただの電車内でしかない。その二つの状況が混在している空間もなかなかに不思議で、どちらの立場が良いかって聞かれると、悩んでしまいますね。。
少なくとも今日、無事に帰れただけで私は十分です。恐ろしや。
電車を降りた瞬間、安心と共に「ああ、今日のnoteはこれだな」と確信しました。
唯一、ネタを提供してくれたということで、今回のことは水に流してあげましょう。