板倉梓『瓜を破る』について2(6巻を中心に)
前回の記事は『瓜を破る』の全体について述べましたが、ここからは、38話〜41話(6巻収録)がとりわけ白眉である、という話をしたい。このこと自体は大半の読者から同意を得られるのではないかと思っています。
(以下ストーリーの核心に触れたネタバレを含む記述があります。
8巻51話にも少し触れています)
私自身、6巻まで読むか読まないかで作品に対する印象が全く変わったというぐらい重要なのがこの巻でした。いわば、「30代処女」の恋愛というレッテルの物語から、「まい子と鍵谷」という人間の物語になった、という感じ。
なぜそのような印象を受けたのか? ということを、以下、主に構成の観点から考察していきます。
6巻38話~41話
ストーリーについては、掻い摘めばシンプルに、2人が想いを伝え合う。そしてセックスをする。という出来事が起こります。
この38話〜41話において、彼女らは2度告白しあった、と私は読みました。一度目は38話で鍵谷からの交際申し入れ、そして二度目は41話で、まい子からの挿入の要求です。
これはそのまま、一度目は鍵谷の物語、二度目はまい子の物語の中間決算だったと言えると思います。
鍵谷の物語
この日長瀞へ遠出デートをした2人は、次に会う約束をしたいと内心思いつつも踏み切れないでいました。お互いに言い出せないままに、熱のこもったキスを交わします。このまま一線を越えそうな雰囲気でしたが、流れを断ち切り、改まって話を始めたのが鍵谷のほうからなのでした。
告白のタイミングも内容も完璧に良いのです。読者にも(良い意味で)前触れを感じさせないこの展開が、彼なりの誠実さの表明だったのだと思います。
彼の言葉(欲が出た)が語っていますが、「変わりたい」という決意表明こそが鍵谷自身にとって意味あることだったと思います。変わりたいと思った時に人は変わり始めるのですから。
(私見ですが、彼自身が性道徳(交際のないセックスを受け入れるかどうか)をどの程度重要視していたかはあまり問題ではないと思います。彼は、彼自身がどうしたいのかに従っただけなのだろう、と捉えています)
なぜ、意外性がありながら納得感もあるこの告白シーンが出来たのか。
理由のひとつめは「好き」という言葉をここぞという時のみに使って、その純粋さを際立たせたことだと思います。
実は「好き」という言葉は、まい子と鍵谷どちらを見ても、35話、鍵谷が好意を自覚した場面(長瀞デート当日の待ち合わせ)で初めて出てきます。そして次に出てくるのが鍵谷の告白の台詞です。その言葉を簡単に出さなかった。ついでに、告白を切り出される直前のまい子のモノローグ「だって私/鍵谷さんのこと/こんなにーーーー」が途中で途切れており、その後に続くべき言葉(好き)が鍵谷に引き取られる、という流れも美しいです。
はっきりと言葉で示されるのは遅かったのに、唐突感がないのは、それまでの彼らの、恋をしている人間の、具体的な描写を積み重ねてきたからでしょう。彼らの嬉しさも不安も、一言で集約すると「好き」のせい。それをはっきりぶつけてくれた鍵谷の告白は、途轍もなくカタルシスをもたらします。
また、理由のふたつめは、2人があくまで自分の率直な感じ方に基づいて話をしていることだと思います。
彼らがこれまで悩んでいたことの一部は、付き合うってどういうことなのかとか、先の人生も含めた将来がイメージできない、ということでした。これらは、世間的一般的な枠組みの「こうあるべき」で自分達を説明しようとする悩みです。でも鍵谷やまい子の告白の中に、こういった迷いは見られません。そんな悩みよりも、自分の感性のほうを相手にさらけだす、それが出来ていることに、2人の想いが通じ合っているのを感じます。
まい子の物語
次はまい子の物語です。
『瓜を破る』の主人公たる彼女は、物語の初めから、処女であることに引け目を感じているキャラクターでした。「みんな」は当たり前にセックスをしているし、まい子自身にも異性への性欲があるから。彼女は終始、とにかく経験してみたいという気持ちを原動力として行動し、物語を動かしてきました。
陶芸教室のあとナンパ目的の男からからがら逃れて帰ってきた日、まい子は「ーーーー私は あったかい/愛のあるセックスがしたい/それがどういうものか今はまだ/全然わからないけど」(1巻6話)と思いながら泣いていました。
その正当なアンサーが41話であることは言うまでもありません。彼女は自分の力で求めていたものを勝ち取りました。
6話以前では、誰か相手をしてくれる人としたい、と闇雲に動いていたまい子が、鍵谷との交流を通して「あなたとだからしたい」という実感を手に入れる。もともとの目的だった性体験の有無以上に、得難いパートナーと出会えたこと、彼とともに時を過ごすことこそが彼女にとってかけがえのないものになった、ということを、読者は知るのです。
何気ない日常を愛おしむ
私が特に素晴らしいと思う点は、41話が物語としてピークだったことは確かだとしても、また同時に、35話から43話までがひとつながりのお話のように見せられている、ということです(なお告白の順番と同じく、始まりは鍵谷視点、終わりはまい子視点です)。このことが、大人な読み味の効果をもたらしていると思います。
35〜43話に関しては、長瀞デートの長い長い一日、そして翌日、この二日間の出来事が克明に記録されています。まるで映画の長回し撮影のように。 9話ぶんをかけてまとまった流れを見せること自体が、視点人物の切り替えが多く、テンポも良く話が進むこの作品としては異例なことです。この構成によって、2人の営みであるところのセックスは、大袈裟な劇のようなクライマックスではなく、彼女らの人生の、ある一日の一コマになったと思います。
生きる目的を失い抜け殻のようになっていた鍵谷と、みんなと自分の差ばかり気にしていたまい子。彼らは交際を始めたあと、8巻51話において、穏やかな日常を愛するようになります。駅で別れた2人はそれぞれ電車内で、自宅の洗濯機前で、同じ陽の光を受けて、あたたかで穏やかな表情をしています。ここでのまい子のモノローグのように、2人は互いの存在とともに日常に価値を感じながら、時に迷いながらもきっとこれからも生きていくことでしょう。まだ物語は終わっていません。私も続きを楽しみにしたいと思います。