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片頭痛と私と母

 2024年9月某日。
 長く短い20代を終え、ようやく30代の仲間入りをした私は、夫や友人たちの三十路冷やかしに渋い顔を見せながら、心の中では「やっとか」とひとり胸を撫で下ろしていた。
 高校の頃から悩まされてきた持病には、30代を越え閉経が近付くにつれ症状が緩和されるとの噂があった。私は一刻も早く歳を取りたかったのだ。
 その持病は、片頭痛である。

 私が初めて片頭痛を起こしたのは、9歳の冬だった。
 中部の平野にしては珍しくまとまった量の積雪があり、一限の授業を潰して全校生徒が校庭で雪遊びを堪能したその後、私は割れるような激しい頭痛に襲われた。
 迎えに来た祖父の手にすがり、痛みに耐えかねて帰り道の雪の上に嘔吐したあの瞬間を、毎年冬が訪れ、冴えた冷気が鼻の奥に沁みる度に思い出す。あれから私は雪の日が苦手になった。

 痛みの前兆である、「閃輝暗点」を初めて認識した日のことも忘れない。それは高校最後の冬、日本史の学年末試験が始まった直後のことだった。

 試験開始が告げられ、問題用紙を表に返した私は目を疑った。
 問題文が、読めないのだ。
 視界の真ん中あたり、文字を認識するために必要な視野範囲が、カメラのレンズに水滴がついた時のようにボヤボヤとモザイクがかかっていた。
 私は困惑した。常識人なら、視界の異常といえば脳の病気を疑うものだが、発達障害グレーゾーンかつ世間知らずな当時の私には、そんな知識が備わっていなかったのだ。
 試験中の静かな教室でひとり手を挙げ、「センセイわたし何だか視界の一部がモヤモヤして問題が読めません」なんて訳のわからない事を言い出して変人扱いされるのは、とても恥ずかしいことのように思えた。
 
 どうしたものかと悩むうちに視界のモヤはどんどん広がり、ギラギラとトゲのある光が視界いっぱいに明滅していた。
 もはや何も見えない。お手上げだ。
 私はシャーペン片手に、ひとり途方にくれた。
 だがしばらくすると、視界のギラギラトゲトゲは中央から端に移動し始め、範囲も徐々に小さくなりとうとう消滅した。
 よく分からないが、無事にクリアな視界が戻ったのだ。
 私は歓喜した。試験時間はまだ十分残っている。
 目の奥に起きた軽い痛みをギラギラの余韻だろうかと考えながら問題文を読み、最初の解答を記入した。
 解答欄を五つほど埋めた頃、目の奥の痛みは無視できない程強くなっていた。本格的な片頭痛の到来である。
 あまりの痛みに、私はシャーペンを机の上に取り落とした。
 目の奥、鼻の奥を抉るような鋭い痛みと、同時に強い吐き気が私を襲っていた。
 もう、試験どころではなかった。
 耐え難い痛み、吐き気。このタイプの頭痛には、嫌なほど覚えがあった。高校に入ってから、かなりの頻度で起こっていたからだ。
 だが、卒業まであと二ヶ月を残して、ゲロ女の称号を与えられてしまうことだけは避けたい。
 私は頭を抱え、シャーペンを再び手に取ることなく、試験終了までひたすら耐えた。

 今思えば、激しい頭痛が起きた時点で、素直に手を挙げ「頭が痛いです」と言えばよかったのだ。
 だが、そのころ頭痛は他人に理解されにくいという事実が、私の中で強く印象付けられていた。私の「頭痛い」は学校を休みたいだけの嘘だと常々母に言われていたからだ。
 教師やクラスメイトたちに、再テストを受けるためのあさはかな虚言だと思われてしまう。と、見当違いの恐怖が、わたしの頭を占めていた。

 1週間後、その日本史の答案の返却が行われた。
 ひとりずつ教壇に呼ばれ、教師から答案を受けとる。
 私の番が来て、そういやあの日は頭痛で散々だったな、と思い出しながら日本史教師の美魔女の前まで行くと、普段温厚なその教師は私と目も合わさずに「○○さん、前回は頑張ったのにね。そういうことをする子なんだ、って見損ないました」と冷たく言い、答案を私へ押し付けた。
 ほぼ空白の答案には、大きなバツと右上にヒトケタ台の点数。
 
 数秒後、教師が何を怒っているのか悟ったわたしの胸に、悲しみが広がった。口を開くこともできず、ただその場に佇んでいた。

 その年の中間試験、一年次から赤点スレスレ常習犯だった私は、いよいよ卒業が危ういと焦り、どうにか頑張って日本史にて90点台を勝ち取っていた。赤点基準でいうとトリプルスコアだ。
 つまりは中間試験の結果で卒業確約の計算をした私が、学年末試験では開き直ってあからさまに手を抜いた、と思われていたのだ。
 中間試験の時には笑顔でたくさん褒めてくれた先生の冷たい横顔は、わたしの心をひどく打ちのめした。
 結局、言い訳がましく頭痛の話をする時間は与えて貰えず、私は憧れの教師に軽蔑されたまま高校を卒業した。

 片頭痛の意味を正しく理解し、ギラギラトゲトゲ現象に閃輝暗点という名がついているのを知ったのはそれから数年後、社会に出てからだった。
 耐え難い頭痛が続き、頭痛外来でエレトリプタンを処方された日。      
 高三の試験を思い出して、あれもそうなのだろうと数年越しに納得した。

 そして、次に覚えたのは母への失望だった。
 あのころ度々起きていた強い頭痛を母が信じ、案じて病院に連れていってくれていたなら、早いうちに片頭痛の診断が出ていただろう。
 そうしたら適切な薬が処方され、私が痛みに苦しむ事も少なくなっただろうし、試験で視覚の異常を感じた時点で退室を願い出る事も躊躇しなかっただろう。

 これに似たような事がある。わたしの生理事情だ。
 中学で初潮を迎えた私は、その後毎月来るという生理をびくびくしながら待った。だが長いこと音沙汰なく、人生二度目の生理が来たのは初潮の四年後。大学に入った後だった。
 その後人生三度目の生理はまたさらに四年後だった。もはやオリンピックだ。
 母親なら、娘の生理不順を知ったらどうするだろうか。
 もちろん、本人が嫌がらない限りは(嫌がったとしても何とか説得して)早めに婦人科へ連れていくだろう。
 年単位の不順なら、尚更心配に思うだろう。

 だが、私の母はこう言った。「いいんじゃない。楽で」
 その楽観的な言葉に、いいんだ。そんなものか。と思った私は、12年もの間不順を放置し続けた。
 友人にそのことを話す機会がありもちろん心配されたが、まぁ大丈夫なんじゃないかな、と楽観的思考は止まなかった。

 その重大さをやっと知ったのは、子宮がん検診でポロっと生理不順をこぼし、それを聞いて血相を変えた婦人科医にしこたま怒られた時である。
 生理不順に潜む病や毎月生理が来ないことのデメリットをこんこんと話され、そこでやっと私の頭にも危機感というのが芽生えた。そして、すぐさま投薬治療が始まった。
 前兆つき片頭痛を持病に抱えた私は、ピルが飲めない。血栓リスクが高いのだという。
 排卵を促す薬だかなんだかを処方してもらって、しばらく婦人科に通っていたら生理不順はみる間に改善した。
 本当に同じ周期で来るものなんだ、と感動したのを覚えている。

 自営業を営む厳しい祖母と風来坊な祖父の元、母はネグレクト気味で育ったのだという。 
 そんな母は私のやることに反対することはほぼないが、興味を持つことも絶対にない。私が中学~大学までずっと続けていた吹奏楽部のステージを観に来た事は一度もない。
 私の交友関係を全て把握したがり(友人の家族構成や住所まで全て)LINEをしょっちゅう寄越し返信を急かす過干渉ぎみな母だが、基本的には私に興味がないのだ。
 自分でも身勝手な怒りだと思ったので本人には言わなかったが、心の奥にはひっそりと母への恨みが積もっていった。 

 そんな私も結婚し、子を持った。
 お腹が痛い……と激しく泣く二歳の子を夜間救急へ連れて行き、診察室に入る頃にはすっかりニコニコ笑顔な子供のお腹を診てもらい「異常なしですね」と言われ窓口で安くはない選定医療費を支払う事が、もう二回は起きている。
 お腹が痛いの、ぐるぐるして。と泣きながら縋る子を寝かせ、その丸くて柔らかいお腹をさすっていると、夫は「構ってもらいたいだけの仮病じゃん」と横から口を挟む。
 私も十中八九仮病とは思うのだが、それでもやはり、痛い、痛い、と引き絞るような声で訴えてくる幼児の姿は、とても痛ましい。
 そうやっていると頭に浮かぶのは、自分の母の事だ。
 
 母は、どういう気持ちで私の頭痛を嘘だと断じたのだろう。

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