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誕生日企画(読者プレゼント)

9月12日、46歳になりました。今まで出会えた皆さんと、きっとこれから出会うであろうnote読者の皆さんの一人一人に、人生の共演者として心からの尊敬と感謝と愛を。

早いもので、もはやアラフォーですらなくアラフィフに近づいておりますが、精神的にも肉体的にもどんどんパワーアップしています。

儀式にてインディオにペイントして貰いました。
いつも練習させてくれるバルボ先生達に感謝
いつも読経して世界の平和と幸福を祈っています

というわけで、誕生日企画で読者プレゼントがあります。最後まで読んで下さった方は誰でも漏れなく受け取れるプレゼント。それは「自尊心の種」です。

誰でも自信満々になれる方法の冒頭に書いた通り「自尊心=自信=幸せ」であり「自分自身が大嫌いなのに幸せ」とか「自分自身が大好きなのに不幸」とかは有り得ないのです。幸せになりたいなら、自分を好きになることは必須事項です。自尊心の種は幸せの種であり、もしあなたがそれを丁寧に育てるなら、きっと花開くことでしょう。

世の中には自尊心が下がりきっていて、もう自分を心から好きになることなど不可能であるかのように諦め、仕方なく誤魔化すようにして生きている人も多いと思いますが、それは魂の成長のために生まれてきた我々が共通して乗り越えるべき初期設定=課題であり、自尊心の低さに苦しむところから自尊心を育てていくことが、人生において必須の過程なのです。

人は「こんなにも自尊心が低いのはきっと自分だけだろう」という感じで悩みがちですが、実際今の世の中は能力(他者比較・他者評価)とその実績(お金・権威)を価値としており、すぐ自分を誰かと比較して「自分はダメだ」などと考えてしまって、自尊心が低くなるのは必然なのです。

その自尊心の低さを補うため、すぐ正義を振りかざし、自分を棚に上げて独善的に他人を批判することで「自分は正しい=価値がある」と考える偽りの自信しか持っていない人が多いです。正しさに能力は要らないからです。そうして「自信があるアピール」や「幸せアピール」をすることで、他人から見下されてナメられて惨めにならないように気張っている人だらけですが、みんな本当は自信がなくて内心ビクビクしているのです。

その証拠にちょっとイジられただけでにされただけで本気でバカにされていると勘違いしてキレるような、心に自分を笑える余裕がない人だらけですから。現時点で自分に自信がないことに落ち込む必要は全くありません。みんな一緒なんです。

他人の欠点や過ちを責めたり見下したりすることで手に入る偽りの自信は、弱くて傷つきやすい自分を守るために自らを包み込む「卵の殻」のようなもので、それに守られようとしているといつまでも成長することはできません。本物の自信というのは、その卵の殻を突き破って自分自身を支えながら成長していく「背骨」のようなものなのです。

背骨というのは天より生まれる前から我々に遍く与えられているものであり、本当は誰でも持っているものです。みんな自分を守ろうとして殻に閉じこもるからその存在がわからないだけなのです。100mを10秒で走るのとは違い、覚悟さえあれば誰でもそれを育てることができるのです。

ではどうすればその背骨の如く自分を支える自尊心を育てられるのでしょうか?

僕が覚醒して以来、僕の身に起きている奇跡を話そうとすると、とても信じられない話ばかりのために僕の覚り全体に疑いを持たれかねないので、具体的なエピソードはあんまり語って来なかったんですけど、この「自尊心(幸せ)の種」という素敵なプレゼントを受け取っていただくためには、避けて通れない道です。noteを愛して下さっている読者の皆様であれば、きっと伝わると信じて書きますね。

状況から詳しく説明してしまうと本エピソードまでたどり着けないので、かなりかいつまんで書きますが、2019年の8月に僕は自分自身と世の中に対する絶望から「42歳を迎えたくない」と自殺を決行しました(絶対に真似しないで下さいね)。そして奇跡的に命を救われ、それから創造主より膨大な量の覚りを与えられました。今までの人生に対する疑問・不平不満がすべて解消し、すべてが愛によって与えられていることを実感して、感謝と幸せでいっぱいになり、3日間泣き通しでした。

自分的にはすっかり満足してしまい、逆に「もう死んでも良いかな」と思ってしまったのですが、不幸のどん底から幸せになってしまうと、かつての自分と同じように苦しんでいる人を幸せにせず見殺しにするという選択肢は考えらえれなくなり、残りの人生を人を救うことだけに使おうと決心したのでした。

しかしどうすれば誰でも幸せになれるこの素晴らしい覚りを他人に伝えらるかがわからず、とりあえず動画を作ろうと、必死にプレゼン形式で資料を作っていました。あまりにも夢中になりすぎ、自分のことなどすっかりどうでも良くなっていました。

そんな中、数年ぶりに友人Rから連絡があって久々に会うことになりました。その時にはもう僕は既に全財産と仕事を放棄していたので、ポケットには数百円分のレアルしかありませんでしたが、まぁ何とかなるだろうと地下鉄に乗り込みました。そしてふと地下鉄内の電光掲示板を見ると、9月12日、自分の誕生日であることに気づきました。自分の誕生日のことも忘れるほど、覚りを資料化することに夢中になっていたのです。

その時は「まぁ自分の誕生日なんてどうでもいいや」と思い、黙っておこうと考えました。元々僕は幼い頃から自尊心が低く、友人も少なかったので、自分の誕生日を家族以外に祝ってもらうなんて恥ずかしくてできなかったのです(さすがに彼女がいた時は祝ってもらっていましたが)。あまりにも自尊心が低すぎるがゆえに、他人から自分の誕生日を祝われると身の置き場がない感じで、逆に気遣いで苦しくなってしまい、またお返しに他人の誕生日を覚えていて祝うのも面倒臭く、忘れてしまって何もお返しせずに嫌われるのも面倒臭いと考えるような人間だったので、たった一人で誕生日を迎えることが多かったのです。

ところがその時、創造主から「必ず誕生日を祝ってもらいなさい」と指令が来ました。「えーっ」と思って、僕は一人地下鉄の中で赤面しました。

地下鉄を降りて携帯電話の電波が回復すると、何と友人Rは急に恋人から呼び出しがあったとのことでドタキャンしていました。しかしせっかく遠くまで訪ねてきてくれたからということで3人で飲むことになりました。

友人Rを待っていると、乞食の少女から「ノートを買いたいのでお金が欲しい」と話しかけられ、ポケットにあるわずかなお金も全部渡してしまいました。もう飲み代どころか帰りの地下鉄代もありません。まして終電を逃したらタクシーで帰ることもできません。

それから更に友人Rに職場の同僚から呼び出しがあって、一緒に飲むことになったのです。友人Rは半年もあれば他言語をネイティブレベルに話せるような天才ですし、その職場というのも世界的な大企業で、そこにいた全員が各国から集まった多言語話者の超エリートばかりでした。語学力が全くなく、自尊心もまだ低かった当時の僕は固まってしまいました。ちなみに友人Rの恋人はすぐその場から逃げ出しました。

僕は片言の英語で何とか会話に参加していましたが、僕一人を気遣って英語のレベルを下げてくれているような状況でした。みんなエリート意識バリバリで上昇志向の塊みたいな人たちで、正面に座っていた中国系の美人さんなんかは「お金のない・仕事のできない男とは絶対結婚したくない」と言っていたぐらいだったので、無職で無一文の僕は何を話していいかもわかりませんでした。そこで「今日は僕の誕生日です」なんて恥ずかし過ぎて言えるわけもなく、会計の時に「お金を持っていない」ということで、職場のリーダーにおごってもらうのがやっとでした。

それから友人Rと、日本に留学経験があるという韓国人E(GOOGLEから転職してしてきたという超エリート)と3人で二次会をすることになりました。Eは離婚したばかりでとても悲しそうな顔をしていました。Eはなぜだか僕のことがすごく気に入ってくれたみたいだったので、ようやく僕は今日が自分の誕生日であることを伝えられました。そうしたらEと友人Rはとても喜んでくれて、高級なイタリアンレストランでお祝いをしてくれました。僕はそれで充分嬉しかったのですが、Eはすっかり上機嫌で「まだ君を祝い足りない。もっと祝わせてくれ」と三次会を希望して止みませんでした。

さすがに疲れてもいたので何とかそれを断り、終電はとっくになくなっていたので、友人Rの家に泊めてもらうことになりました。そしたら何と次の日もその職場から友人Rに呼び出しがかかり、飲み会になりました。そこでEに昨日が僕の誕生日であることをあっさりとバラされ、「何で昨日言わなかったの?祝わせてくれよ!」とみんなから祝われました。昨日黙っていた意味がありませんでした。その日もおごりだったのは言うまでもありません。そしてみんな僕を祝って喜ばせることができてとても嬉しそうでした。

僕はお金も仕事も何もないのに、ただ喜ぶだけで人を幸せにしていたのです。僕は覚らされました。世界は僕を愛し祝福してくれているのに、僕は自分を蔑み自分自身も他人も愛せなかったためにそれを受け取れていなかったのだと。自尊心の低さから変に遠慮して卑屈になっていたのだと。自分を愛さずに自己犠牲的に人を幸せにしようと思ってもできないのだと。本当はみんな僕を幸せにしようとしてくれているし、僕が素直にそれを受けっとって幸せになれば相手のことも幸せにできるのだと。世界がそうなってないように見えていたのは、みんなそれぞれに心の傷を抱えて誤った悟り方をしているからなのだと。エゴを世界の本質のように勘違いし、当たり前のようにエゴのために生きてしまって反発し合っているからなのだと。人を頼ることを迷惑をかけること・情けないこと・自分に能力がないことの証明のように考え、人を頼ることも頼られることも避けているからなのだと。

人の価値は「能力」でも「正しさ」でもありません。それを他人に見せつけたり、他人の能力の低さ・欠点や過ちを責めて自尊心を満たそうとしても、結局その刃は必ず鏡のように返ってきて自分の自尊心を引き裂きます。つまり人から愛されず自分でも自分を愛せなくなります。あなたの価値は主人公たるあなたの「存在」そのものであり、愛し愛されることによってのみその価値は高まるのです。

どうか人を愛し、人からの愛を素直に受け取って下さいね。出会った人と無条件にそれをできるようになれば、お互いの自尊心は高まって必ず幸せになるのです。

その日はそれから友人Rとその職場の若い女性の自宅に招かれました。彼女は僕に対して「この人は私の人生の疑問に答えてくれる人に違いない」と直感したそうです。覚りについて朝まで語り合いながら、何とも楽しい誕生日2DAYSになりました。

日本では祝い事は誰か親しい人に主催をお願いするのが通例ですが、ブラジルでは自分が主催してみんなを招くのが通例です。そういう文化的な状況もあるので、僕は自分の誕生日を自分で企画して堂々とみんなに祝ってもらって幸せになり、僕が幸せになることで来てくれた人たちみんなを幸せにしています。今年の誕生日もアヤワスカの儀式で、自分で買って来た日本風のバースデーケーキを振舞い、ファミリーのみんなに祝ってもらいました。日本もこういう感じになれば良いんですけどね。元から親しい友達がいないと誕生会とかやりずらいじゃないですか?ブラジルみたいに誕生日を通じて仲良い友達を増やすことができる方が素敵だと思います。

文化っていうものはそう簡単には変わらないと思いますが、恥ずかしがらず厚顔無恥に堂々と自分の誕生日会を自分で企画して、そんなに親しくない友人もいっぱい誘って祝ってもらってみてはいかがでしょうか?きっとみんな喜んでくれて仲良くなれますし、お互いに幸せになれると思いますよ。

どうか無条件で人を愛して下さいね。理由があれば人を嫌っても良いと考えるなら、自分のことも愛せなくなるのは自明です。罪と恥の存在意義に書いた通り、罪や恥・欠点や過ちは我々が許し合い補い合い愛し合うためのマテリアルです。それがなければ他者の必要性はなくなり、愛は存在し得ないのです。人生という自分が主人公の物語の共演者に無条件の愛を!この物語に悪役はいても悪人はいません。どうかみんな本当は良い人だったというシナリオを成就させて下さい。「風の谷のナウシカ」の腐海の植物と同じで、みんなあなたの愛が足りず心が汚れているから毒を出すのです。心の水を自らの愛で清めて下さい。

覚醒後4年以上経ちますが、出会った人を無条件で尊敬し、感謝し、許し、愛する「嫌いな人ゼロ作戦」を実行し続けた結果、今の僕は自尊心に手足が生えたような男になっています。存在・事象の全てを愛することで、存在・事象の全てから愛されるようになった感じです。ドラゴンボールの元気玉のように、みんなから少しずつ元気・愛を受け取っている感じです。本当に、指先からパワーがほとばしるように感じます。かつて長年鬱でどこに行っても人間関係で問題を起こし嫌われていつも死にたいと思っていた人間と同一人物とは自分でも信じられません。

本当に今は自分が大好きで、生まれ変わっても僕になりたいですし、女性として生まれたら今の僕と結婚したいです(笑) 「例外なく世界中の魂を救う」という夢を実現するために自分がお手伝いできたら、何て幸せで光栄なことだろうって本気で思いますから。

それは他人目線で見れば気違いとしか思われないでしょうけども、そんな他者評価なんてどうでも良いんです。人生の価値は「いかに愛したか」の一点であり、すべてを愛そうとしてそれを実践し続ける自分を自分で愛することができればそれで必ず幸せになれるのです。自尊心はすべての基盤であり、自分を愛さずに人を愛そう・人から愛されようとしても無理なのです。

「他者評価を気にしない」というのは「他人からどう思われようと自分の好き勝手にやる」というエゴ・自己満足とは違います。結果(見返り)を一切期待せず、相手からどう思われようと相手を心から愛することをやめなければ、自分を愛することができますし、その愛はいつかは相手にも伝わってきっと愛されるということです。

この世界の多くの人が常識(ネガティブな思い込みの産物)の奴隷になっていて、みんなエゴ(我欲や保身)のために生きるのが当たり前だと思い、そのためにみんな心を病んでしまっています。それは人生というRPGの初期設定であり、主人公のあなたが乗り越えるべき課題なのだと知って下さい。このRPGはすべて主人公であるあなた次第に創られていて、与えられる課題はすべてはあなたの愛と勇気を試すためのものなのです。最初から愛に満ちていて何も恐れない人の愛と勇気には何の価値もありません。エゴまみれで臆病に創られているあなたが振り絞る一握りの愛と勇気にこそ価値があるのです。

創造主は言いました。「樹が鳥を愛するように人を愛せよ」と。大地と空から愛を受け取り、花を咲かせ、豊かに実り、何も結果(見返り)を求めず、鳥達が集い喜びに歌うのを我が喜びとするのです。

去る者追わず・来る者拒まずで、何ものにも執着せずに。果実を差し出すのにお金とか愛情(尊敬・感謝)という見返り(自己利益)を強要したり、嫌いな鳥を拒絶したり、エゴで執着して鳥達を追いかけまわす樹では愛されません。Giving Treeのように相手の欲しいものを与えられることに喜び感謝して、相手が求めるままに喜びにも悲しみにもそっと寄り添って下さい。愛という果実を無償で提供すれば、自尊心(幸せ)の種は鳥たちがきっとどこまでも運んでくれます。

それでは読者プレゼントの自尊心(幸せ)の種、しっかり受けとって下さったでしょうか?日々水やりを怠らず、人が集まる大木になるまで育てていって下さると嬉しいです。

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ShinyaSalvador
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