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信じることの意義

※2023年4月13日更新

宇多田ヒカルの歌詞に「リスクがあるからこそ信じることに意味がある」というものがありますが、本当にその通りだと思います。

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今、地球が回っているということを「信じている」と言う人はいません。ガリレオの時代にはリスクがあったから信じるという意味があったでしょうけども、確証が得られて裏切られるリスクがなくなった時点でそれは知識となり、わざわざ「信じる」と言う意味(価値)がなくなるのです。

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神様は「ワイは神様やでー」と姿を現しはしません。聖書には神を試すなと書かれています。存在が実験証明されてしまったら「信じる」という意味(価値)がなくなるからです。だから創造主は神の存在が決して科学的に証明されないよう天塩をかけてこの世界を創り運営しているのです。

そしてこの世界には絶対に正しいという宗教も存在し得ません。そんなものがあるならみんな無条件にその教えに従うのでやはり「信じる」という意味はなくなります。それは神が人間に信仰を強制しているのと同じになってしまいます。神が自分を信じるように人間を作ったら、人間に自由意志を与えた意味はなくなってしまうのです。創造主は人間に自由意志を与え、神を信じないように世の中を作り、むしろ宗教の腐敗や宗教を悪用した詐欺などを横行させ、神を信じる人は気違いだとまで思わせ、その上でそれを乗り越えて自発的に信心を持って欲しいのです。またそういう信心でなければ神にとって存在価値がないのです。

すべての存在には個性が与えられているのであり、それは欠点や過ちと不可分です。神々でさえ個性(欠点や過ち)があるのですから、まして人間が運営する宗教団体に個性(欠点や過ち)あるのは当たり前です。様々な宗教を学ばず、一つの宗教だけを比較対象もなく妄信すれば道を誤るのも必然といえます。その上、現代の宗教というのは資本主義に毒されて関係者のエゴにより腐敗するのがデフォルトであり、例え創始者がどんなに純粋で清い思いで作った宗教でも、その没後は形骸主義・権威主義・営利主義などに陥って腐敗するものなのです。でも我々が信じるべき対象は本来神そのもの(創造主とその分身の神々)であり宗教団体ではありません。自分が神を信じようとしない・宗教を原典から学ぼうとしない怠惰を宗教団体のせいにして正当化しているようでは、自分自身の腐敗も世の中の腐敗も止めることはできないのです。

特に日本人は宗教に対する嫌悪感が強く、宗教を信じないと言う人が多いです。それは宗教を悪用した悪質な詐欺が横行しているからであり、またかつての戦争が狂信的な国家神道が原因だと認識されているせいでもあるでしょう。でも「私は宗教を信じない」という人は、自分の常識を信じている自覚すらがないだけです。そしてその常識は資本主義に毒されるのが必然であり、無宗教(≒唯物主義)というのは、人の存在そのものではなく能力を価値とし、金を崇拝し、エゴ(我欲と保身)のために生きることを常識としているものであり、それを無自覚に信じるのは悪魔教に入信しているのとほぼイコールなのです。

常識とは何か?」に書きましたが、常識というのは人生というRPGにおける初期設定であり、必ず課題(誤り)を含んでいるものなのです。実際昔の常識というのは今の非常識であり、間違っていたことが既に証明されているでしょう。ですから様々な宗教について学ばず、今の自分の常識を無自覚に信仰対象にして疑うことすらしない態度はとても危険であり、単に周囲のみんなもそういう「常識教」の信者だから目立たないだけで、基本的には何かの宗教の狂信者と変わらないのです。そして仲間外れにされたり見下されたりバカにされたりして傷つかないよう無理やり常識に自分を合わせ、その常識を更新しない・乗り越えようとしないのは、RPGにおいてスタート地点の街から動かず冒険を始めないようなものです。

さて、数年前、学校の先生をしていた僕の友人が無実の罪(幼児虐待)で起訴されたことがありました。そこで僕は彼に子供が世話になっていた父兄たちから彼の無実を証明するための証言を集めようとしたのですが、残念ながら2件しか集まりませんでした。父兄たちは友人が有罪になった時に責任を取らされるリスクを恐れたのです。そしてこう言われました。「私たちも彼を信じているのですが、ブラジルの法律では彼は有罪になるのですか?」僕はまだ目覚める前だったので、その父兄たちの気持ちを思いやれずにブチ切れて「いやいや、僕は彼の無実を信じているから、彼が裁判で無罪を勝ち取るための証言を集めているんです!」と言って悔し泣きしていました。その頃は神なんてきっといないだろうと思っていました。ちなみにその友人は長い裁判の末に完全無罪となりましたが、失ったものは計り知れません。

このように「信じる」ってことを競馬の予想か何かと勘違いしている人が多いようです。ジョッキーの武豊は負けるとファンから「金返せ!」と罵声を浴び、「借りてねーよ!」と言い返していたそうです。「裏切られた」と文句を言う人は、信じていたわけではなく勝ち馬に乗って儲けたかっただけなのでしょう。それは自己利益を期待した単なる「結果予想」であり、外れたりすることがあるのは必然ですし、信じるということとは次元が違うのです。

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古い記憶なので内容はうろ覚えですが、高校の頃の先生がこんな中国の故事を教えてくれました。ある将軍が宴を開いた時、ふと強い風が吹いてロウソクの灯りが全て消えてしまいました。その間に家来の一人が将軍の側女を押し倒したのです。灯りが戻った時、側女は事の次第を将軍に訴えたのですが「あいつがそんなことをするわけがない、お前は間違っている」と言って家来をかばったのです。後にその家来は将軍の為に命がけで戦って果てたそうです。(そんな素晴らしい将軍ならきっと側女のことも信じていて後からフォローしたでしょうね)

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信じることの本質はここにあります。裏切られた時にこそ信じることの価値が問われるのです。人は裏切られることを恐れて他人を疑いますが、それでは信頼関係などできません。あくまでも能動的に相手を信じぬくという信念が相手を変え、信頼関係を作るのです。単に自己利益を期待してつながっているだけの関係は、利益が他の人より期待できなくなったらあっさり切れます。

人間は一切例外なくみんな欠点があり、過ちを犯します。欠点や過ちを理由に人を信じないなら、誰のことも信じられなくなりますし、きっと自分自身のことさえ信じられなくなるでしょう。疑心暗鬼は不幸の元であり、臆病は人類最大の罪なのです。だから勇気が必要なのです。

だいたい裏切られたと感じる度に相手に文句を言って逐一疑ってかかるようになれば、相手の自尊心を下げてしまいます。「反省してはいけない」に書いた通り、人が自発的に良い思考・行動をするのは自尊心ゆえであり、相手の自尊心を下げれば相手は自分の思考・行動が悪いとわかっていてさえも止められなくなってしまうのです。そしてお互いに自尊心を下げ合い、お互いに悪い思考や行動が止められず、お互いを嫌い合う悪循環に陥ってしまいます。それでは信頼関係など築けるわけがありません。

凶悪な犯罪を犯す人も、子供の頃からそういう悪循環を繰り返し、信じる人も信じてくれる人もいなくて自尊心が育たずに自己嫌悪でいっぱいになり、心のタガが外れてしまった結果そうなったのではないでしょうか?

僕らはみんな一つですから、自分を信じてくれている人を結果的に裏切って傷つけてしまったら必ず自分の心も傷つくのです。そこで「裏切られた」と文句を言われて責められると、その人は相手を嫌うことで傷を解消しようとし、お互い嫌い合ってそのうち関係が終わります。人の欠点や過ちを責めても何も良いことはありません。「罪と恥の存在意義」の記事にも書きましたが、罪や恥、欠点や過ちはより深く愛し合うためのマテリアルです。許すことが愛です。信じることが愛です。信じるということは創造主から人間だけに与えられた尊い「祈り」であり、それは愛そものなのです。

もし裏切られて傷ついたのなら、それを相手にはぶつけず、ただ素直に悲しめばいいのです。悲しみは解決しようとするから終わらなくなるのです(これも鬱の本質の一つです)。そして裏切られてもなお信じ続けるのです。それで相手は「私に裏切られてもなお信頼し続けてくれているこの人を愛している。愛する人をこれ以上自分の悪事の為に悲しませてはいけない」と自分の行動を考え直すのです。不平不満ではなく、出会った人に対する無条件の愛(許し・信頼・尊敬・感謝)が相手を変えるのです。

信じるということは愛することとイコールであり、クリエイターが自分を信じる・愛するようにAIをプログラムしたらその信心・愛には価値がなく、もはやそれは信心・愛とすら呼べないものです。創造主が、人間に愛(感情)を強制したら愛(感情)に価値はないのです。だから創造主は人間に自由意志を与え、また愛(感情)を強要されたら必ず反発するように人間をプログラムしているのです。

「私を愛しなさい・尊敬しなさい・感謝しなさい」などと言われたら必ず逆の感情が湧くでしょう。もちろんそこまでダイレクトに感情を他人に強要するほど愚かな人はいませんが、みんな無意識かつ遠回しにやってしまっているものなのです。身内に対して愛情を当然の権利のように要求していたり、自慢話をして尊敬を強要していたり、恩着せがましい態度で感謝を強要していたりするものなのです。しかし愛(信頼・尊敬・感謝など)というポジティブな感情は、相手の側に期待したり強要しようとすると必ず逆の結果が待っています。だからただひたすら自分から、見返りを求めず・裏切りを恐れずに与え続けることでしか得られないもののです。だからこそ人の感情というのは繊細で尊いものなのです。

目覚めてからの僕は、自分に必要な素晴らしい出会いしか与えられていないと気づきました。縁があって出会うことが、僕にとって相手を信じる唯一の条件なのです。自己利益のために期待しているわけではありませんし、欠点や過ちは誰にでもあると思っているので、別に何か悪いことが起きても裏切られたとは感じません。だから僕は人に裏切られる可能性がゼロなのです。

出会ったら無条件で信じ、無条件で尊敬し、無条件で愛する。人に出会う前にもう最初からそう決めておくのです。そうやって条件付けをどんどん外していくことで僕はどんどん自分を信じ尊敬し愛せるようになってどんどん幸せになっています。

生きることは何かを信じることなのです。人生わからないことだらけの人間が、何も信じずに生きるなんてことはできません。何も信じてないつもりの人は、何も信じないという愚かな考えを信じているのであり、それは単に自分が勝手に常識だと思っていることを信じて疑ってもいないことに自ら気づいてさえいないだけなのです。我々は他人の感情すら目に見ることはできないのに、目に見えるものだけを信じて真実など見えるわけがないのです。

神を信じない人は、神を信じないという考え方を信じているのです。そういう人は目に見える現実の常識とお金の力だけは信じて疑いません。そして現実に・お金に振り回されるようになります。そうやって唯物論者は無自覚に悪魔教に陥り、お金の奴隷となるのです。

信じないという選択肢はないのです。同じ信じるなら、この世界の常識や、確率的に起こりそうなことを信じるのではなく、信じたいものを信じ抜いて下さい。それが人生です。

・・・って、毎度説教臭くてどうもすみません。僕も全然完璧にできているわけではありません。だからこその修業の日々です。

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ShinyaSalvador
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