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法華経要約・解説

【前書き】法華経は仏教の様々な宗派において仏身そのものとして崇拝され「諸経の王」と呼ばれる特別な経です。「南無妙法蓮華経」のお題目口唱だけでも現世利益が与えられ、奇跡譚も数多いので、「そこには実際何が書かれているのだろうか?」と気になっている人はきっと多いことかと思います。しかし法華経は現代人にとっては大変読み辛く、大概の人は読む途中で挫折してしまうのではないかと思います。私自身も初見は挫折しかけました。

そこで今回、法華経への入口として多くの方にその全体像を掴んでいただけるよう、超簡潔に要約してみました。また大変僭越ながら解説もさせていただいておりますが、本当はあくまでも自分で(主体者として)解釈することに意義があるのであり、また私自身の解釈も私がこれを書いた時点での一つの解釈に過ぎないことを踏まえつつ、全体理解の一助としていただけると幸いです。

法華経の読み辛さの主な原因ですが、まず日本語訳はだいたい漢訳からの翻訳なので漢文の読み下し文みたいですし、普段使わないようなわかりずらい言葉・仏教用語がたくさん出てきて、またそれらの多くがサンスクリット語(梵語)の音写であるという点でしょう。それに加えて繰り返しと誇張表現が多く、自賛表現がクド過ぎるという点もあると思います。

ただ事前に知っておかなければいけないことは、そもそも経というものが元々は口伝を前提として作られたものであり、言葉選びにおいて意味のわかりやすさよりも音やリズムの美しさ(印象)の方が大切にされている詩(歌・音楽・芸術)であるということです。経には和歌と同じようにある程度の型があり、覚えやすくするため(また言霊の力を得るため)大事なことは何度もリピートし、大げさに感じられるような表現も多用して真の悟りの素晴らしさを強調し、印象深くしているのでしょう。

しかし梵語から現代語訳された法華経は、元々の音もリズムも型も全く関係なくなっていて、日本語の詩(歌・音楽・芸術)として再構成されていないのです。だからいたずらに繰り返しや誇張表現が多く、とてもわかりずらくて読み難い文章だと感じられるのは当然のことなのです。

経には元の言語とその背景にある文化を深く知らないと伝わらないような表現(暗喩・複数の意味を重ねた掛詞)がたくさんあり、和歌や俳句や古事記などを英訳するのとほぼ同じで、正確に翻訳することは不可能なのです。

ですから私は今回の要約にあたって割り切りを大事にし、また自分なりに法華経の大意を汲み取って言葉を選び直し、繰り返しと誇張表現を極力絞って、簡潔に読みやすくまとめることを心掛けました。そして一般人に馴染みのない仏教用語などは必要最低限にして、別な言葉に置き換えたりしました。例えば「阿羅漢(あらかん)」という仏教用語も「菩薩」としてひとまとめにしました。また仏教の世界観では時間・大きさ・長さなどの単位もあまりに大きくて具体的にイメージしにくいので「悠久」などの言葉に置き換えています。最低限必要だと思われる重要な仏教用語には詳しく注釈をつけました。今回の要約・解説はあくまで初見の方に法華経の全体像を把握していただくためのものなので、正確性を欠く部分は予めご了承下さい。

南無妙法蓮華経の「妙法蓮華経」とは、いくつかある法華経の漢語訳の中で最も優れているとされる鳩摩羅什(くまらじゅう・クマーラジーヴァ)による訳のことです。彼は梵語で書かれた法華経の大意をしっかり汲んだ上で、言語体系が全然違う漢語で詩・芸術として再編成し、経が持つ言霊(言葉が持つ霊的な力)・経力を見事に引き出した預言者なのです。

日本の仏教はこのような中国経由の漢語訳のお経を聖典としており、漢詩として音読みする方が言霊・経力は引き出し易いのですが、内容を理解する上では漢文の読み下し文からの現代語訳を読むよりも、梵語から現代語訳されたものを読んだ方が理解しやすいでしょう。漢文の経を唱えるにしても、意味がよくわかって思いを込めて唱えるのと何もわからないで音だけ真似て唱えるのとでは、経力が全然違うと思います。

一番誤解してはいけない点は、法華経に真理(覚り)そのものズバリが書かれているわけではないということです。法華経は人生というRPGにおけるガイドブックのようなもので、答えそのものを全部書いたら人生はゲームとして成立しません。そしてもし経が単なる説明文のようになってしまっていたら、詩(歌・音楽・芸術)として成立しません。また人がそのような説明を言葉で聞くだけで全部覚れるのなら人生を経験することに意味がなくなり、人生自体も芸術として成立しなくなります。だから経というのは読む人がその人の人生を通じてその真意を覚れるように、例え話や方便が多用され、また詩・芸術として美しく作られているのです。当然、解釈は読み手に委ねられており、解釈は本当に人それぞれなのです。法華経は人がそれぞれの人生経験を通じて真理を覚れるようにヒントとして書かれているのです。
そして誰でも真理に至れるということを伝え、また真理に至るとどんなに素晴らしいことがあるのかを伝えて、我々に菩提心(真理を求めて生きる覚悟・衆生を救う覚悟)を起こさせようとしてくれているのです。

法華経が人間・釈迦の生前の教えではないことを根拠に、法華経をメインにしていない宗派の人達は「法華経は仏説にあらず」と主張しますが、法華経というのは、釈迦の魂本体である「久遠本仏」から「使命ある者」に与えられた霊的体験を通じて書かれたものなのです。法華経の内容が真実であるということは、法華経を信じることの功徳(奇跡・霊的体験)を通じて覚れるものであり、信心なく理屈で覚れるものではないのです。

ちなみに「南無妙法蓮華経」とは梵語のNamas(ナマス=南無・尊敬し帰依します)Saddharma(サッダルマ=妙法・偉大なる法)Puṇḍarīka(プンダリーカ=蓮華・白蓮‘’のように優れた”)Sūtra(スートラ=経)の中国語訳です。悪世に苦しむ衆生を真理に至らしめて救済するこの偉大なる経が、汚泥・汚水から白蓮が美しい花を咲かせることに象徴されており、南無妙法蓮華経はその真理を仏身そのものとし、帰依を誓う言葉なのです。

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序品(じょほん)第一 
ある時、釈尊は真の悟りを求める多くの僧・菩薩・神々と一緒にインドの霊鷲山(りょうじゅせん)という山に来ていた。全ての会衆から師と仰がれ称賛され尊敬される釈尊は、偉大なる数々の教えを説いた後に、とても深い瞑想に入った。すると天の花々が降り注ぎ、天地が激しく揺れたのである。そして釈尊は眉間から一条の光を東に向かって放った。その光は幾千万の世界を照らし出し、地獄から天国まで世界の全てが見通せた。諸仏が経を説く姿が見え、僧や菩薩たちが修行して悟りに至るのが見え、諸仏が※涅槃(ねはん)に至るのが見えた。
文殊(もんじゅ)菩薩が言った。「今起きた奇跡は遥か遠い昔に※如来(にょらい)が法華経を説いた時にも見られました。釈尊はこれから偉大なる法華経を説かれようとされているのでしょう」

※涅槃:一切の煩悩から解脱した不生不滅の境地。転じて釈迦や聖者の現世における死。入滅。
※如来:菩薩がさらに修行を重ね、真の悟りに至った尊い仏

【解説①】この序品ではこれから語られる法華経がいかに素晴らしいものか壮大な描写によって予感させています。ただ法華経本文では冒頭からいきなり耳慣れない神々や修行者や人外の存在の名前が何ページにも渡って羅列されているため、初見では読むのがかなり苦痛に感じられると思います。法華経は万人の救済を目指した※大乗仏教(万人救済の教え)の経典でありながら、入口でいきなりその敷居を高くし、読む者に覚悟を要求しているのでしょう。
この点は新約聖書も似ていて、キリストに繋がる系譜の名前が冒頭から延々と書かれているために読み辛く、初見では読み飛ばした方が全体理解はしやすいと思います。
また法華経には人外の存在がたくさん登場するため、現実としては受け入れがたく引いてしまう人も多いと思います。聖書も天使による受胎告知・マリアの処女懐妊などという信じ難い話から始まりますが、やはりどちらもこれから学ぼうとする者に覚悟を要求しているのだと思います。能力ではなく信心によってしか理解できないものである、と。
どうかこの物質世界の常識に捉われず、頭と心を柔らかくして、法華経の出来事はこの物質世界と折り重なる想念の世界で起きていることだと、とりあえずは納得して読み進めてみて下さい。
般若心経などでも再三説かれている通り、想念・魂の世界こそが本質であり、時間も物質も命も「空」で本当は幻のように実体がないものです。法華経は決して「遠い昔の荒唐無稽なおとぎ話」ではありません。そしてこの世の全ては創造主の創造物であり、この世に偶然など何一つ存在しません。あなたは途方もない因果と輪廻の末にようやくこの法華経に巡り合えるというご縁にたどり着けたということなのです。そして仏は今まさに法華経を通じて真理に導くべく、主人公であるあなたの心に語り掛けてきているのです。

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方便品(ほうべんほん)第二
釈尊は瞑想を終えて語り出した。「諸仏の智慧(ちえ)は限りなく深く難解である。如来は遥か遠い昔から幾千万億の諸仏に仕えて修行し、この極めて尊い※法(ほう・ダルマ)を得たのである。その法があまりに難解なため、如来は様々な方便をもって語り、衆生を悟りに導いてきた。この法は如来のみが理解できるのである。即ちこの世界の本質である。例えそなたたちのように世間で賢者と言われる者たちでもきっと理解できないであろう」すると会衆の心に疑念が生じた。「我々の誰も理解できないのであれば、なぜ我々にその存在を明らかにして、しかもそれを賞賛されるのでしょうか?どうか我々にその尊い法をお説きになって下さい」と釈迦の高弟である舎利弗(しゃりほつ)が懇願した。釈尊は「人々を恐れさせ惑わせたくない」と再三固辞したが、舎利弗は決して引き下がらないので、最後にはその熱意に応えることにした。
「それではよく聴きなさい。如来がこの法を語るのは※優曇華(うどんげ)の花のように稀有な事なのだ。如来は一大事の※因縁をもって世に出現するのである。一大事の因縁とは、衆生に如来の知見を表して悟りに導くことである。そのために如来は現在・過去・未来の世に出現するのである。如来の法はただ一つである。仏は末法の世に現われ、汚れ多く心頑なな衆生に、※方便をもって悟りに導くのである。僧たちが真の悟りを得たと慢心して真の悟りを求めないのは大変な間違いである。如来は誰にでもこの真実の法を説く訳ではない。真実の法を求める菩薩たちにのみ説くのだ。この法は途方もなく会い難く尊いものである」

※法:ダルマ。真理の教え・法則・道理・秩序。
 三宝(仏・法・僧)の一つとされる。超重要な仏教用語。
※優曇華:三千年に一度咲くと言われる伝説上の花
 実在するフサナリイチジクや芭蕉の花もウドンゲと呼ばれる
※因縁:下記の解説参照
※方便:衆生を教え導く巧みな手段。
 真実の教法に誘い入れるための仮の教え。

【解説②】
序品に引き続き、これから語られる法華経の教えがいかに尊く貴重で素晴らしいものかを予感させています。釈迦はもちろん舎利弗が引き下がらないことを予めわかった上で(舎利弗がここで引き下がったら話が終わっちゃいますからねw)法華経の存在をほのめかし、それがとても理解し難く受け入れ難いものだということを予め伝えることで、これから法華経を学ぼうとする者に対して相当な覚悟を求めているのです。
ここに出てくる※因縁という言葉はとても大切な仏教的概念なので、私なりにご説明させていただきます。因縁とは物事が生じる直接の力である内因と、それを助ける間接的な力である外縁を合わせた言葉で、一言でいえば運命です。一切の存在は、因縁によって生じ、因縁によって滅すると言います。すべての存在には因縁(運命)の糸があり、この世に偶然などは一つもないのです。釈迦が創造主について言及しなかったため、一般に仏教では創造主の存在が否定されていますが、因縁を与えているのは仏であり(与仏有因・与仏有縁)、もし偶然が存在しないなら、その大元を作っている創造主がいないわけがありません。すべての存在にはちゃんと理由・意味・役割があり、すべての人生にシナリオがあるのです。もちろんあなたの存在には理由・意味・役割があり、あなたの人生にもシナリオがあって、あなたがこうして法華経に出会ったことも決して偶然ではなく、運命(因縁)なのです。

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譬喩品(ひゆほん)第三
舎利弗は歓喜した。「今まで私は修行で真の悟りの境地に達したと思っていましたが、もしかして釈尊は我らに劣った教えを説いて、我らはそれを修行しているのではないかという疑念がありました。それが我らを真の悟りへ導くためであったことを今知り、一切の疑念は消え、真に仏の子になった気がします」釈尊は言った。「舎利弗よ、そなたは遥か遠い未来において幾千万億の諸仏に仕え、菩薩の成すべき事を終えて如来となるであろう。そして過去の如来のように法を説くであろう。そなたの国では菩薩が宝であり、素晴らしい菩薩たちが数限りなくいるだろう。そして命は無量の長きに渡るであろう」舎利弗が真の悟りを受けると、虚空に花々が舞い、天衣がたゆたい、音楽が響き渡り、会衆が賞賛した。舎利弗は言った。「ここにいる菩薩たちはみな釈尊の教えの通り修行を重ね、※四苦(生老病死)を離れて真の悟りを得たと思っております。しかし今これまで授けられなかった尊い法を授けていただけると聞いて大変動揺しております。どうかこの疑惑を晴らして下さい」

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三車火宅(さんしゃかたく)の例え ※クリックすると動画に飛びます
釈尊は例えて言った。「あるところに無量の資産を持つ大富豪がいた。富豪の家は大きかったが、既に古く朽ちかけていて、中には悪魔が沢山巣くっていた。ある時この家が火事になった。中には富豪の子供たちが数十人いたが、火事に気付かず遊んでいた。富豪はどうやって子供たちを避難させようかと思案した。この家は門が一つしかなくてしかも狭かった。このままでは子供たちは焼け死んでしまうだろう。富豪は大声で叫んで危険を知らせたのだが、子供たちは本気にせず誰も出て来なかった。そこで富豪は子供たちがおもちゃの車が大好きなのを思い出して一計を案じた。『門の外に出てきなさい、色んな珍しいおもちゃの車があるぞ。すぐに出てくればどれでも好きな物をあげよう』と言った。これを聞くと子供たちは先を争って火宅から出てきて、全員が難を逃れた。それを喜んだ富豪は『せっかく助かった可愛い我が子たちにおもちゃの車を与えるべきではない』と思い、子供たち全員に見事な本物の高級車を与えた。この富豪は子供たちに嘘をついたことになるだろうか?」
舎利弗は答えた。「いいえ。富豪は子供たちを救い出すためにしたことですし、結局子供たちは図らずも望んでいた以上のものをもらえたのですから、嘘をついたことにはならないでしょう」釈尊は語った。「そうだ。そして如来もまったくこの通りなのだ。この朽ちた家というのはあなたたちの居る世界である。如来はあえて神通力を使って直接的に衆生を救わず、それぞれに合わせて方便の教えをもって導き、最後はすべての衆生を真の悟りに至らしめるのである。すべての者たちに伝えよ。この法華経こそが究極の教えである。この経は信心のみによって理解できるのであり、能力で理解できるものではない。この経を信ぜず疑いけなす者は現世においても転生しても語りつくせないほどの様々な報いを受けるであろう。つまり※地獄界畜生界に堕ちて苦しむだろう。もし転生して人になっても生き地獄に堕ち、様々な障害を抱え、また様々な病になるだろう。また我執に捉われて心が醜くなるだろう。だからこの経は見識の浅い者に説くべきではない。智慧と菩提心(ぼだいしん=悟りを求める心)を持った菩薩たちから説くべきである」

※地獄界・畜生界:それぞれ六道の一つ。
 六道とは衆生が業(カルマ)により輪廻転生する世界。ここから脱することを解脱と言う。地蔵菩薩はこの六道それぞれに赴き救いをもたらす。
・天道 天人が住まう世界である。天国ではなく、天人にも煩悩はある。
 享楽ばかりで成長機会に乏しく、仏法にも出会ず解脱のチャンスがない。
・人間道 我々人間が住む世界。四苦八苦に悩まされ苦しみが大きい。
 しかし享楽もあり、六道の中で仏法に出会い解脱できる唯一の世界。
・修羅道 阿修羅の住まう世界。修羅は争い合い、救いがない。
 地獄ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい。
・畜生道 動物界。本能で生きており、仏の教えを得ることができない。
・餓鬼道 餓鬼の世界。常に餓えと渇きに悩まされる。
     思いやりのない人間が落ちる。
・地獄道 罪を償わせるための、苦しみに満ちた世界。

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【解説③】この品では「今までの教えは法華経によって真の悟りに導くための仮の教え(方便)であった」ということが語られています。この仮の教えというのは、人間・釈迦が生前に説いてきた※小乗仏教的な教えの事を指しています。
人間釈迦が生前に小乗的な教えを説いてきたのは、悪意で間違ったことを教えていたのではなく、真の悟りがあまりに難解なため、過程(方便)として仮の教えを説かざるを得なかったのだと伝えているのです。今までの修行は決して無駄だったわけではなく、必要な過程だったのだと。そして今までの教えを極めたからといって既に真の悟りを得たかのように慢心してはいけないのだと伝えています。
法華経は大乗の聖典でありながら決して小乗を否定しない、非常に巧妙な論理展開がなされているのです。釈尊は仏として・万民の父としての限りない愛情ゆえに、人々をそれぞれの個性やレベルに合わせて真の悟りに導いてきたのです。
その仏の深い愛情を知った弟子たちは、教えの具体的な内容がまだ何も語られる前であるにも関わらず、真の悟りに至ることを釈迦に保証されたことで歓喜しています。これはそれまでの釈迦が弟子たちの慢心を戒めるために「あなたがたは決して如来(真の覚り)には到達しない」と厳しく諭されていたという、法華経には描かれていない伏線があります。
さて、この三車火宅の例えにおける火宅というのは我々のいる三界(さんがい)・娑婆世界の例えであると釈迦は言っているのですが、それはつまり我々一人一人の心の中が作り出す三千大千世界の仏国土だと解釈すれば、火事=世界の終末=己の死とも読み解けます。我々はまだ未熟な仏の子であり、我々の心(仏国土)には朽ち果てかけて悪魔が住んでいますが、この仏国土こそが我々の修行の場であり、生きている間に成仏できるように仏は親としてのありったけの愛情で我々を導いてくれているのです。我々はあの世では成長できませんから、この世で修行するしかないのです。釈尊が舎利弗に語った「そなたの国では菩薩が宝であり」というのは、舎利弗が彼の心の仏国土に住んでいる人たち(縁あって出会う人たち)をそれぞれの道で悟りに至ろうとしている菩薩として宝のように大事にする如来になるだろう、という意味だと思います。
釈迦は法華経をあまねく世に伝えるように勧めながら、同時に「この経は見識の浅い者(心の素直でない愚者)には説いてはいけない」とも言っています。つまり救いには仏が用意した順番があるということです。では仏はどのような順番で人を救うのでしょうか?それは自分に一番近いところにいる者から救うのです。仏は物質的な存在ではなく光の如き存在ですから、仏に近いところにいる者とは仏に近い心の波動の高さを持つ者のことです。だから我々は心の波動を上げていかなければいけないのです。そして我々も仏と同じように、一番近くにいる人(縁あって出会った人)から救わなければならないのです。でも結局、我々が直接的に救えるのは、自分と心の波動のレベルが近い人だけということでしょう。
※小乗仏教(上座部仏教):厳しい修行を積んで自らが救われれば良いという自己完結型の教えで、大乗のように衆生すべてを救おうとする考えとは仏教成立初期から対立している。一般に東南アジアやチベット経由の南伝仏教は小乗・上座部であり、中国経由の北伝仏教は大乗である。

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信解品(しんげほん)第四
会衆は歓喜してこう言った。「我らは既に真の悟りの境地に達していると思い込んでそれ以上を望みませんでした。真実の法を極め、仏国土を清くし、衆生を導こうとはしませんでした。今、真の悟りを授けられて大変嬉しく思いますと共に、この上なく貴重な宝を自ら求めることもなくいただいた心地がします。今のこの気持ちを例え話で語らせて下さい」

長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の例え ※クリックすると動画に飛びます
ある子供が家出したまま数十年が経とうとしていた。彼は処々を放浪していたが、その日暮らしの生活に疲れ果てていた。父はその息子をずっと探していたが、行方知れずのままだった。ある日その子は偶然父のいる国に入った。父は巨万の富を持つ大富豪となっていた。そして偶然その子は富豪の父の住む大邸宅の前に来た。その子は富豪のあまりの豪勢さに圧倒され、驚くと同時に恐れをなし、急いで立ち去った。しかし父は一目で自分の息子であることに気がつき、使用人にその子を連れて来させた。するとその子は恐怖のあまり失神してしまった。それを見た富豪はその子を一度解放することにした。自分の豪勢さが我が子を怖がらせ、またその子の志が低いことを知ったからである。そこで富豪は策を講じ、貧相な男二人を雇ってその子の所に行かせ「あの屋敷に働き口があるらしい。便所の汲み取りが主な仕事らしいが、給金は二倍だそうだ。一緒に行って雇ってもらおう 」と言わせた。こうしてこの子は近くの粗末な小屋に住みながら富豪の邸宅で働くようになった。そうして月日が経ち、富豪から信頼され、邸宅にも自由に出入りして家事をするようになり、やがて財産管理まで任されるようになった。富豪は「欲しいものは何でも言うように」と言っていたが、その子に欲はなく相変わらず貧しい境遇で満足して暮らしていた。しかし富豪はその子の志が少しずつ変化し、新しい境遇に適応してきたのを見ていた。そして富豪は死期が近づくと、みんなを集めてこの子が自分の実の息子だと打ち明け、自分の財産の一切をこの息子に譲ると宣言した。息子は大感激してこう思った。「自ら願うことなく大変な財宝を得ることになった」と。
この富豪とは如来の事です。我らは今本当に仏の子になったと実感しました。釈尊は我らに諸々の汚れを除かせ、我らは日銭を稼ぐように真の悟りを求め、その日の稼ぎを得て満足していたのです。我らは目先の事のみを求めて大乗を求めませんでした。釈尊は我らが志の低いことを見られて、方便によって我々に合わせて法を説かれていたのです。今釈尊がこの経を説くのを聞き、仏の子である我々は仏の慈悲深い心によって自ら求めずして如来の宝を得られたのです。

【解説④】長者窮子の例えは法華七譬(ほっけしちゆ)と言われる法華経の中の優れた7つの例え話の中でも最高と言われているものです。これによって法華経は万民が一人の例外もなく仏の子であることを非常にわかりやすく伝えています。つまりあなたこそが仏の子(主人公)であるということです。あなたはいきなり自分が仏の子だなどと言われても信じることは到底できないでしょう。様々な欠点や今まで積み重ねてきた過去の過ちによる罪・恥の意識で自尊心が低くなり、自分も他人も大した事のない存在だと考え、自分自身のことも他人ことも仏の子として大事に扱ってこなかったからです。同じようにして多くの人は人間の価値がわからず、志が低くなり、愚痴を言ったり自分や他人を責めてますます苦しみを抱えながら生きることになってしまっているのでしょう。しかし仏は各自の段階に合わせて少しずつ我々を導き、自らの心の仏性に気づかせ、悟りに至らしめようとしてくれているのです。そして我欲に捉われず、贅沢を望まず、ただただ人に奉仕すべきだと伝えているのです。そのためにまずやるべきことは、汚れを毎日掃除して心身を磨き続けることだということです。汚物処理などは誰しもが嫌がり他人に押しつけたくなる仕事ですが、実は最も尊い神事なのです。トイレ掃除を大事にする成功者が多いのも当然でしょう。心身を磨き続けることで、心の中に既に与えられている真の財産(=仏性)を呼び覚ますことが、真の悟りに至る道なのです。このあたりは周利槃特(しゅりはんどく)のエピソード(※クリックで動画に飛びます)からも、釈尊の真意だと察することができます。(記憶力が悪くて経を全く覚えられない弟子に、釈迦がみんなの履物の汚れを毎日掃除させることで悟りに至らしめた話です)大切なのは能力ではなく、我欲に執着せず純粋に人に奉仕しようという美しい心の発露だということでしょう。
長者窮子の例えは新約聖書の「放蕩息子の例え」との類似がよく指摘されます。あなたが神仏の教えから遠ざかっていたこと(放蕩)も、再びそれに出会えたことも、決して偶然ではなく因縁による運命なのです。神仏は決してあなたの放蕩(信心から離れていたこと)を責めることなく迎え入れ、歓迎してくれることでしょう。あなたは神仏の子です。人生で卑屈になって神仏を恐れ信ぜず、自分や他人の欠点や失敗を責めて尊敬せず、神仏の愛より自ら遠ざかるようなことがあってはならないのです。

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薬草喩品(やくそうゆほん)第五 
三草二木(さんそうにもく)の例え ※クリックで動画に飛びます
釈尊は語った。「草木は種類によってそれぞれ姿形は異なるが、等しく雨の恵みを受けて各々成長する。種類や生まれた場所によって差別されることはない。如来の慈愛もこのようである。つまり衆生の心・所業をすべて知りながら、慈愛の雨を降らすように等しく法を説き、物事の本質と真実のみを語り、智慧の恩恵を与えるのである。そして真の悟りの彼岸に渡れない者を渡らせ、心の平安を得ていない者の心を安らかにし、涅槃を得ていない者を涅槃に至らしめる。如来は過去・現在・未来の一切を知る者であり、道を知って導く者である。そして如来は幾千億という衆生の一人一人の個性に応じて法を説くのである。如来の説くところは一味の雨であるが、それによって得る様々な功徳を衆生は知ることがないのである。雨に潤う草木が自らと他の種の違いを知ることがないように。そなたたちが如来の説く深淵なる法を聞いて信じ理解したのは稀なことである」

【解説⑤】仏の慈愛は生きとし生けるもの全てに平等に与えられるものだということが例え話をもって語られています。人はそれぞれの個性に応じて平等に仏から愛を与えられているのですが、我々の目にはそれがひどく不平等に見えてしまい、与えられたものより与えられていないものに捉われて不平不満ばかりになり、仏の平等な愛にはなかなか気づけず感謝できていないものです。しかし仏の愛は真に平等であり、みんなが必ず最後には成仏できると法華経は説いているのです。人生の苦難は決して意地悪を目的として与えられたものではなく、それぞれの立場で苦難を乗り越えて成長して行けるように与えられたものであり、それが生きる喜びであり、使命でもあるのです。自分と他人を比較し、与えられている才能や環境などの違いで他人を羨んだり妬んだりして、我が身の苦難を不幸と考えて嘆いてはいけないのです。また逆に自分より不幸そうな人を下に見て、自分はまだマシだから大丈夫だなどと考えて今の境遇に甘んじて怠惰に陥ってはいけないのです。人生は魂成長のために与えられた機会であり、何を途中で達成しようと死ぬまで苦労する定めであり、最後の最後まで成長をやめてはいけないのです。そして人生はRPGであり、クリアを目指して成長を続けて行けば、今不足があるように感じられても、必要なものは必要な時に与えられているのです。それなのに人間は貪欲・不安・保身・執着のために必要以上に欲しがり、他人と争って奪い合い、誰かより多く与えられないことを恨んだりして自ら地獄を生んで苦しんでいるということに気づくべきでしょう。
この例えは聖書における「種を蒔く人の例え」との類似点がよく指摘されますが、どちらも優れた例えであり真理だと私は思います。様々な宗教を並行して学ぶと、やはり宗教にもそれぞれ個性があるだけで、伝えようとしている真理は同じであると感じます。仏も神も我々が思ったこと感じたことまで含めてすべて見ていて、その上でみんなを平等に愛しているのです。我々も仏や神の子なのであれば、人の善悪などを判断せず、日光や雨水のように出会った人みんなに無条件で愛情を注がなければならないということです。

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授記品(じゅきほん)第六
釈尊は大弟子である摩迦葉(まかしょう)たちに、真の悟りに至る記別(きべつ)を授けた。「そなたたちはみな、未来世において幾千万億の諸仏に仕え、七宝と花と様々な香料と音楽で諸仏を供養し、真の法を説く仏になり、無量の菩薩たちを解脱させるだろう。そなたたちの寿命と(ダルマ=真理の教え)は悠久に続くだろう。国土は平坦で美しく、人々は楼閣に住まい、香しい宝塔が立ち並ぶだろう。土は瑠璃で輝き、宝玉の樹木が街に並び、黄金が道を作り、花々が散り敷き、清らかだろう。そこには幾百万億の菩薩たちが往来しているだろう。魔物が現われても改心して如来を守護するようになるだろう。
※記別:仏が弟子に授ける、仏となることの予言・証。記別を与えることを授記という。

【解説⑥】釈迦が弟子に真の悟りに至るという記別を与え、その後どんなに素晴らしいことが待っているかを語っています。ただやはりこの辺りの本文は特に繰り返しと誇張表現が多すぎるので、大幅に割愛しました。ここでも成仏すると素晴らしい「国」を手に入れられるという表現がよく出てきますが、やはり我々一人ひとりの心が作る三千大千世界という広大な仏国土を指しているのでしょう。「宇宙の仕組み」に書いた通り、世界は自分の心がプロジェクターのように映し出して創り出しているのです。それはつまり自らの心を日々美しく磨けば世界が美しくなるということでもあり、自ら法(ダルマ)を守れば世界の秩序と平和が保たれるということでもあるのです。その国土が「平坦」というのはもちろん物理的に山や谷がなくて平らだという意味ではなく、差別がなく平等な世界だということです。我々の誰一人としてつまらない存在はなく、自分も他人もそれぞれみんな心に広大な仏国土を持つ尊い仏の子なのです。だから自分も他人も等しく尊んで大切にしなくてはならないということです。世界=自分=他人です。世の中の腐敗や他人の堕落もすべて自分自身が作り出している幻影であり、それを自分が改善努力をしない己の怠惰や頑健さの言い訳にしてはならないのです。人は例外なく心という三千大世界の主であり、仏とは常に1対1の関係で、すべてを見られていているのです。自分の世界の中に何十億人住んでいようともそれはあなたの心が作り出す幻のようなものであり、その背中に隠れることはできないのです。
この品で真っ先に記別を授けられた摩迦葉(マハーカッサパ)というのは、釈迦より特に愛された高弟の一人であり、仏教教団における釈迦の後継(仏教第二祖)とされ、釈迦の死後、初めての結集(第1結集、経典の編纂事業)の座長を務めた人物です。頭陀第一と言われ、大富豪家の出身であるにも関わらず、清貧の修行を行いました。彼は光明如来という如来になると予言されています。その光明如来が世界救世教で本尊とされている大光明真神(みろくおおみかみ)なのです。

化城喩品 ( けじょうゆほん ) 第七
釈尊は語った。「遥かなる昔に大通智勝(だいつうちしょう)という如来がいた。彼がまだ菩薩であった頃、真の悟りに至る寸前で久しく真実の法に出会えず、真の悟りまでには至れずにいた。しかしこの如来が諸天の神々から贈られたとてつもない高さを持つ椅子に座ると、天の花が降り注ぎ、芳しい風が吹き、音楽が奏でられ、それが久しく続いた。それからその如来は遂に真の悟りを成就したのである。その如来は出家前に成した十六人の子供がいて、彼らは父が真の悟りを成就したことを聞いて父の元へ馳せ参じ、その歓びを伝えた。『如来は衆生を救うために無量の※劫(こう)を経て成仏された。今まで久しく仏の名を聞かず、衆生は苦しみの尽きる道を知らず、悪がはびこって十方の世界は闇に包まれています。我々にどうか真実の(ダルマ)を説いて下さい。そして世界と人とを安穏にして下さい。衆生の心と仏の智慧とすべてご存じでしたら、どうか憐れみをお与え下さい』と。すると十方の幾千万億の天地は様々に揺れ、隅々の闇にまで光明が輝いた。それを見た東の幾千万億の梵天王たちが如来を訪ねに来た。そこで如来が大層高い座に座り、天の神々や人々に囲まれて礼拝され、王子たちから真実の法を懇願されているのを見た。そして梵天王たちはみな礼拝して天の花で供養し、各々の宮殿を差し出してこう言った。『我々は今こうして稀有にして会い難き如来にお会いすることができました。無量の慈悲で世を憐れみ下さい。我ら幾千万億の国々からここに来て仏を供養します。これまで途方もなく長い時間が空しく過ぎて、仏に会うことなく、十方は暗く世界に悪がはびこっています。どうか法を説いて衆生を涅槃に至らしめ苦悩を救って下さい。どうか法の功徳をあまねく一切に及ぼし、我らと衆生とをみな共に仏道に導いて下さい』と。すると如来はまず※四諦(したい)と※十二因縁の法を説いた。説法を一つ一つ説く度に無数の衆生は諸々の苦しみより解脱して菩薩となった。十六人の王子は聡明で既に菩薩の智慧が具わっていた。彼らはかつて幾千万の諸仏の元で修行していたのである。彼らは言った『既にこの幾千万億という菩薩たちは悟りに達しています。この上はぜひ真実の法を説いて真の悟りに至らしめて下さい。どうか我々に如来の知見を示して下さい』そして如来が悠久の間に法華経を説くと、十六人の菩薩たちはみなよく理解した。その後に如来は悠久の禅定に入った。その間に十六人の菩薩たちは代わる代わる法座に上り、また悠久の間に人々に法華経を説いた。それぞれが幾千万億の人々にこの法を示し、教え導いて菩提心を起こさせた。かの如来は悠久の瞑想より立ち上がって大衆に告げた。『この十六人の菩薩たちは真に稀有な存在である。よくこの菩薩たちの説くところを信じてけなすことがなければ、真の悟りを得るであろう』と。この十六人の菩薩たちは真の悟りを得て如来となり、今もなお十方の国土において法を説いている。その菩薩の一人は私であり、娑婆世界(しゃばせかい=現世)で真の悟りを得たのである。私たちが菩薩であった時、それぞれが幾千万億の衆生を教化したが、その衆生とはここにいる会衆であり、未来世に会う会衆である。会衆も私が真の悟りを説く事によって仏道に入るであろう。なぜなら真の悟りに至らしめる教えは法華経のみあり、その他はないからである。

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※劫(こう)は極めて長い時間の単位とされますが、これはカルパ(劫波)の音写の略語であり、私は人生経験を数として表しているのだと思います。人生とは波羅蜜多(はらみた・過去現在未来が一様に存在する悟りの大海)の波の揺らぎのようなものであり、我々の魂は劫(光)なのです。詳しくは「宇宙の仕組み」をご覧下さい。例えば弥勒菩薩は56億7千万年後にこの世に下生すると言われていますが、もし時間が未来へ一方向に進むものなのであれば、弥勒菩薩が下生する前に太陽の寿命が尽きて人間は絶滅してしまいます。つまりこれは56億7千万年ではなく56憶7千万劫(=人生)であり、人口が56億7千万人を超えた現代こそがまさに弥勒菩薩が下生している時代なのです。この困難多き娑婆世界は弥勒菩薩の修行の場であり、弥勒菩薩が我々の心と体に宿って色んな人生を経験しながら修行を積んでいるということなのだと思います。逆に言えば我々はみんな弥勒菩薩の仏国土の住民でもあるということです。だとすれば我々がみな真実に目覚め、力を合わせて上の次元へと進むべきなのは必然なのです(アセンション)。
四諦:仏教が説く4種の基本的な真理
 苦諦(くたい)迷いのこの世は一切が苦である事
 集諦(じったい)苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執である事
 滅諦(めったい)執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地である事
 道諦(どうたい)悟りに至るためには八正道によるべきでという事
十二因縁:三界の迷の因果を十二に分けて衆生輪回の様を示したもの。
無明、行、識、名色、六処、觸、受、愛、取、有、生、老死

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化城宝処(けじょうほうしょ)の例え ※クリックで動画に飛びます
例えば広い荒野があり、その悪路を大勢で宝を求めて歩いて行くとする。道は険しく、人々は途中で口々に不平を言い始める。「疲れてもうこれ以上歩けない、先がどれだけ遠いかわからない、もう引き返そう」と。案内人はこのままでは宝のところまで行けないと判断し、神通力で荒野に城を作って一行に言ったのである。「あそこに城があるから一晩休んでから行こう」と。一行は大いに喜んでそこに宿泊した。そうして案内人は人々が保養し元気を回復したのを見て、城を消滅させてこう言ったのである。「諸君、宝の場所はもうすぐ近くだ、この城はみんなを休養させるために私が仮に作ったものだ」と。そして一行はまた元気よく宝の場所へ向かって歩き出した。如来もまたこのようなものである。衆生のために道案内となり、煩悩の悪路を通り過ぎなければならないのだ。もし衆生が一仏乗のみを聞いて導かれるならば、衆生は仏道のあまりの遠さに絶望し、先に進むのを諦めてしまうだろう。だから仏は方便で「宝の場所はすぐ近くだ」と言うのである。

【解説⑦】これまでの仏の教えが仮のもの・方便であった理由がより具体的に語られています。真の悟りというのは誠に得難く、いきなりその遠さを見せてしまうと最初から諦めてしまう人ばかりになってしまうので、仏は「もうすぐそこだ」と何度も励ましながら導いてくれているのです。この品には四諦十二因縁などのやや難しい仏教用語が出てきますが、ネットで検索して調べてみて下さい。まずは法華経全体の意味を捕らえるのが大切ですから、すぐに理解できない難しい言葉はとりあえず読み飛ばして後回しにしても大丈夫です。
仏は何段階にも渡って少しずつ我々に覚りを与えて遥か遠い真の覚りへと導いてくれているのです。その途中段階の一つ一つの覚りは化城宝処であり、大いに喜び英気を養いつつまだそこまで辿りつけていない人を導くのは大変結構なことなのですが、化城宝処に至ったのを真の覚りに至ったかのように考えてはならないのです。
ネット上でも目覚め始めた人が増えてきているようで、それはとても喜ばしいことなのですが「私は悟りを開きました!」と、まるで既にもう何でも知っているかのように驕る厚顔無恥な人が散見されるのは困ったものです。真の覚りとは航海で目印にする北極星のような遥か遠い存在であり、我々がこの世もあの世も掌のように平らにした後で到達できる境地(創造主との同一化)なのです。
またこの品ではヒンドゥー教の最高神三柱のうちの一柱でありバラモン教の主神で宇宙の創造主のブラフマーを梵天として登場させ、如来を礼賛させています。このように仏教ではインドで広く信仰されているヒンドゥー教やバラモン教の神々を取り込んだ上で、仏教の方がより真理に近い上の存在であると人々に示すような表現がよく出てきます。当時の仏教の布教上必要だったのでしょう。

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五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)第八
釈尊の大弟子の一人である富楼那(ふるな)は、釈尊の智慧の方便による説法を聞き、また大弟子たちに真の悟りに至るという記別を授けたのを聞き、また過去世の因縁を聞き、俗を離れた心に歓びが湧き上がった。「実に素晴らしい。釈尊は衆生それぞれの個性に応じて(ダルマ=真理)を説き、人々の執着を抜き取ってしまう。とても言葉では言い尽くせない。釈尊のみが我々の心の願いを見通しておられる」釈尊は告げた。「富楼那は常に優れた説法者であった。記別を授けられ、また過去世の因縁を聞き、俗を離れた心に歓びが湧き上がった」
釈尊は告げた。「富楼那は常に優れた説法者であった。※空(くう)の教えにも通じ、明瞭かつ適確に語って幾千万億の人々を教化してきた。これからも無量の衆生を真の悟りに導くだろう。富楼那は限りない時を経て如来になり、無数にある三千大千世界を仏国土とするだろう。その国土は七宝からなり、天の宮殿が虚空に浮かび、天子と人は自由に往来するだろう。悪人も淫欲もないであろう。人々は法と瞑想を喜びとするだろう。幾千万億の菩薩たちはよく法を教示し修得しているだろう。如来の命も教えも悠久に続くだろう」
その時、その場にいた千二百の菩薩たちは自分たちにも真の覚りに至る記別を授けて欲しいと願った。釈尊はその弟子たちの願いを察してこう言った。「私はこの千二百の菩薩たちにも記別を授けよう。そなたたちはきっと仏になるであろう。その名声は十方にあまねく伝わり、すべての者から敬われるだろう。寿命は悠久に渡り、も悠久に続くだろう。そして私の他の弟子たちもみなこのようになるであろう」その時、菩薩たちはみな歓喜し、釈尊を拝して言った。「我らは既に菩薩になり真の悟りに達していると思って慢心していました。我らは無知なるが故に大きな間違いを犯していました」そして弟子たちは例えて言った。

※空:仏教の根底を成す最も重要な概念。私流の解釈では、素粒子よりも小さい、すべての存在を作り出しているもの。存在と不存在が共存し、無限の可能性を持つもの。仮でありながら人間に実体ありと思わせる原因となるもの。道教の道やスピリチュアル用語のゼロポイントフィールドに同じ。創造主に近い上位次元の神の思念の乗り物・言葉。「空の教え」とは般若心経に説かれているような内容を指していると思われる。つまりこの世界は我々の魂が仏から与えられた因縁に従って作り出す幻のごときものであり、何ものにも執着せず、何ものをも恐れず、ただ悟りを目指して己の魂を成長させるべきであるという教えのこと。

えりけいじゅ2

衣裏繋珠(えいけいじゅ)の例え ※クリックで動画に飛びます
ある男が親友の家に行って、酔って寝込んでしまった。友は用があって出かけなければならなかったので、その男の衣の裏側にお土産として高価な宝玉を縫いつけてやった。男はそれを知らないまま旅立ち、それから他国へ行って衣食を得るにも事欠くほど困窮するようになった。それでも男は人生に満足していた。後にその友がたまたま男に会ってその有様を知ると「君はどうしてそんなに生活に苦労しているのか、こんなこともあろうかと君の衣の裏側に高価な宝玉を縫い付けておいたのに、それを知らずにいるとは。それがあれば何不足ない生活ができるだろうに」と。
・・・釈尊は我々に一切智を説いてくれたにも関わらず、我々はそれを知らず小智に甘んじていました。しかしかの宝玉が無くならなかったように、悟りを求める心は常にあって失うことがなかったのです。今こうして我らは真の悟りに至る記別を授かり、至上の歓喜に浸っています。

【解説⑧】第六品と同じで、真の悟りに至るといかに素晴らしい報いがあるかが象徴的に表現されています。また真の悟りは優秀な弟子だけに与えられるのではなく、時間や順番の差こそあれ、いずれはみんなに平等に与えられるものであることも語られています。またその時間や順番の差が仏の慈愛に気づくか気づかないかの差だけであることも、優れた例えによって説かれています。この世の何もかもが仏の愛情によって我々の成長のために与えられているのだということです。我々が無明(迷い・愚かさ・煩悩)により真理から遠ざかるのは、与えられたものの価値に気づけないことを原因としているということです。そしてそのように考えればこの世界の真実は自ずから見えてくるということでしょう。
さて、あなたはこの衣裏繋珠とは具体的に何のことなのだと思いますか?それは我々の心であり感情なのです。我々は金銭的な価値ばかり大事にして、心の価値をおざなりにしがちです。自分の心も他人の心も宝物のようにして大事に扱うなら、どんな職業をしようと(私のように乞食をしようと)生きていけるのです。ですからどうか自分の好きなこと・得意なことで生きる勇気を持って下さい。

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授学・無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)第九
阿難(あなん)が釈尊に言った。「私はずっとあなたの侍者でした。私にも真の悟りに至る記別を授けていただけないでしょうか?」釈尊は言った。「そなたは来世において仏になるであろう。その国は荘厳で、幾千万憶万の諸仏を供養し、幾千万億の菩薩を教化して真の悟りを得るだろう。仏の寿命は半永久的で計り知ることができない。法(ダルマ=真理の教え)も半永久的に続くだろう。そして幾千万憶の十方の諸仏・如来にその功徳を賞賛されるだろう」
その時、会衆の菩薩たちはこう思った。「諸々の大菩薩たちでも記別を授けられることは稀なのに、なぜまだ菩薩にも至らない阿難に記別を授けられるのだろうか?」釈尊はそれを察してこう告げた。「私と阿難はかつて同じ仏の所で同じく発願した仲である。阿難は常に多く聞くことを願い、私は真の悟りに達しようと精進することを願った。私は既に真の悟りを得たが、阿難は法を守って多くの菩薩を教化しようとしてきた。だから記を授けるのである」阿難はこうして記別を授けられ、大いに感激した。その時、学・無学の二千人が一心に釈尊を仰いでいた。それを見た釈尊は「この者たちも無数の諸仏を供養し、十方の国々において同時にそれぞれ仏になるであろう」と記別を授けた。

【解説⑨】引き続き、法華経による真の悟りがいかに素晴らしいものであるかが表現されています。そしてその真の悟りが例外なくみんなに平等に与えられるものであることも改めて語られています。このあたりも本文ではかなり大げさに何度も強調して書かれているので要約しましたが、「誰でも真の悟りに至れる」というのを希望として受け止められるのではなく、ありふれたもの=価値のないものとして受け止められないように、真の悟りの素晴らしさが強調されているのでしょう。さて、阿難はずっと釈尊に付き添い、その超人的な記憶力でその教えのことごとくを覚えて後世に残した仏教における最大貢献者の一人です。しかし悟りに至るのは釈尊の直弟子の中で一番遅く、釈尊の入滅後だったそうです。先輩弟子たちからすれば、まだ菩薩にも至っておらず一修行僧でしかない阿難に真の悟りに至る記別をが先輩弟子たちより先に与えられたことは納得のいかないことだったのでしょう。しかし法華経では、阿難も他の弟子たちも一切差別なく、みんながそれぞれの道でいずれは真の悟りに至れることが説かれているのです。この品の最後の一文でもやはり「国」というのは人の心の世界(仏国土)を指していることがわかります。

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法師品(ほっしほん)第十
釈尊は語った。「そなたたちが法華経を※受持(じゅじ)するのならば、この経を仏そのもののように供養するがよい。それで心から喜ぶのならきっと真の悟りを授けられ、未来にはきっと仏となるだろう。如来はかつて菩薩であって真の悟りを成就したが、衆生を憐れんで敢えて清浄の仏国土に行かず、自ら願って悪世の人間世界に来ているのである。もし私の入滅後、ただ一人だけのために法華経のたった一句でも説くなら、この人は如来の使いであると知るべきである。まして大衆に説く人は言うまでもない。その者は如来を肩に担いでいるのであり、どこへ行こうとも尊ばれ礼拝されるだろう。私は実に多くの経を説いてきたし、これからも説き続けるだろう。その中にあってこの法華経は最も信じがたく解り難い秘奥のもので、長く明らかにされなかったのである。しかもこの経は世の中から受け入れられず、如来がいる現在においてすら疎まれ貶しめられている。仏の入滅後はなおさらであろう。如来の入滅の後にこの経を信じ弘める者は如来の加護に守られるであろう。この経を受持する者は菩薩の道を歩み、真の悟りは近いのである。なぜなら真の悟りは必ずこの経から生ずるからである。この経は奥深く人が容易に理解できるものではない。だから如来が来て菩薩を成就させるためにこの法を説くのである。
この法を説く者は「①如来の部屋に入り」「②如来の衣を着て」「③如来の座に座する」
①如来の部屋とは生きとし生けるものすべてに向けた慈悲の心である。
②如来の衣とは困難があっても法を説き続ける忍耐強く柔和な心である。
③如来の座とは一切が空であるという法の理解であり、執着しない心である。
そうして衆生に広く法華経を説きなさい。その時もし世間の人が罵り害を加えようとも、一心に仏を念じて耐え忍びなさい。私は他の世界にあっても神通力で会衆を集めよう。もし経を説く人が人里離れた所にいるのなら、天人たちを人の姿に変えて遣わそう。もし一句を忘れることがあれば、私はそれを補ってあげよう」
※受持:経を受け継ぐこと⇒経を読み・書き・誦し、正しく思い・理解し、教えの通りに修行し、祈り・拝み・供養すること。私の要約文においては敢えてこの言葉を広義に解釈することでひとまとめにし、要約文をシンプルにしました。

【解説⑩】
この品では法華経を説く際に必要な三つの心構えが書かれています。①周囲に理解されずに罵られても辛抱強く耐え忍ぶこと(忍耐) ②生きとし生けるものに慈愛の心を持つこと(慈愛) ③すべては空であると悟り我執を捨てること(無執着)そのような心構えでもって不退転の決意で法華経を説き続けるのであれば、必ず如来が援護すると語られています。法華経は難解な部分も多いですが、最初から全部を理解・記憶する必要などないのだということです。法華経の中で自分の心に染みた一文一句だけでも唱え、自分なりの経験・解釈を持って人に説いて語るなら、足りないものはすべて如来が補ってくれるということです。真の悟りに必要なものは法華経を説こうという覚悟(忍耐・慈愛・無執着)の方であり、能力(記憶力や弁論力など)は関係ないということです。
釈尊は生前に「尊いのは私自身ではなく私が授かった法である」として、弟子たちに自分を偶像として拝まないように言っていたそうですが、現実の布教上はわかりやすい崇拝対象が必要不可欠だったので、釈尊の死後数百年で仏教は仏像を拝む宗教となりました。それにより仏教が世界各地に普及したという功績はあるのですが、仏道が「悟り・真理の法を求め、自分の心身を磨き、既に与えられている仏性(宝)を呼び覚ます修行」ではなく(自分とは切り離された)尊い存在である仏様を拝んですがれば救われるという完全な他力本願のようになってしまいました。しかし仏像を拝んだり他の経を読んだりしてもご利益は少なく、かえって信仰を形骸化させ本質から遠ざけてしまうのです。
そこで日蓮は主にこの品を根拠にして仏像ではなく「妙法蓮華経」という真理を仏身そのもののように礼拝し、南無妙法蓮華経のお題目口唱行をメインとする宗教を作ったのだと思います。それが仏の御心にかなっているからこそ実際にお題目口唱によるご利益・奇跡は大変に多いのでしょう。日蓮は愚かな者の多い衆生(当時は識字率も非常に低かった)みんなに対してまで無理に難解な法を説く必要はなく、また不可能であるとも悟ったのでしょう。知能や菩提心も含めて能力は人それぞれの役割に応じて仏から与えられるので、人の愚かささえ魂の修行のために仏の愛によって与えられたものだと考えたのだと思います。「南無妙法蓮華経」のお題目口唱でもたらされるご利益によりみんなが仏の慈愛に気づき、知性が与えられ、自らの意志で法華経を学ぶようになれば、みんながお互いを救い合うようになって世が救われると考えたのでしょう。つまり「お題目口唱だけで救われる」と日蓮が説いたのは、衆生を悟りに導くための方便であり、既に法華経に出会い理解できるだけの知性を与えられている我々がお題目口唱のご利益だけで満足してはならないのです。

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見宝塔品(けんぽうとうほん)第十一
その時、突如として大地が揺れ、とてつもなく巨大な七宝の塔が湧き上がり、空中に浮んで留まった。その塔は天にも達するほどの途方もない大きさで、様々な宝玉で飾られて大変美しく、香木の薫りが漂い世界を満たしていた。人も非人も一斉に様々な花・香・音楽で宝塔を供養していた。その宝塔から大きな声が響いた。「実に素晴らしい。よくぞ法華経を説いてくれた。真実はまさしく釈尊が説いた通りである」会衆はあまりの出来事に驚き、みな起立して合掌した。釈尊が言った。「この宝塔には如来の全身が安置されているのである。遥か昔に多宝仏という仏がいた。その仏が菩薩であった時にある誓願を立てた。もし仏となって入滅後にどこかの世界で法華経が説かれたならその者のために私の宝塔を出現させて賞賛しよう、と」すると菩薩たちは多宝如来の姿を見たいと願った。釈迦は続けて言った。「かの多宝如来の誓願には更に次のものがある。法華経を経を説く仏がもしこの宝塔を開いて多宝如来の全身を大衆に示す時には、その仏の分身を全部そこに集めて開示するようにと」そして釈尊は自分の分身を集めるべく、眉間から一条の光を放って東の方を照らした。そこには幾千万億の世界が見え、それぞれの世界で仏が説法しているのが見えた。地は輝き、宝樹・宝衣がきらびやかで、無数の菩薩であふれていた。それら十方の諸仏はそれぞれの侍者に言った。「今これから娑婆世界の釈尊を訪ねて多宝如来の宝塔を供養する」と。こうして釈尊は娑婆世界を一変させて清浄な世界に変えた。瑠璃を地とし、宝樹を茂らせ、黄金で道が造られ、天の花々が敷き詰められていた。そして釈尊はここに集まった会衆のみを残して、他の諸々の天子と人とを他の世界に移した。諸仏は侍者一人のみを連れて娑婆世界に来ると宝樹の元に至った。宝樹は遠方からも頂上が見えないほど途方もない高さで豊かに実っており、宝玉の座もまたとてつもない高さだった。こうして三千大千世界は諸仏で満ちたのである。しかし釈尊の分身はこれで全部ではなかったので、釈尊は諸仏の来訪を更に受け入れるため、八方の幾千万億の世界を変えて娑婆世界を浄土と化した。このようにして十方の諸仏はことごとく来集して八方に座した。それぞれの宝樹の元に座し、侍者に沢山の宝華を持たせて、各々霊鷲山の釈尊の元に使いに出して伝言を託した。「釈尊も菩薩たちもお変わりありませんか。皆この宝塔を開くことを願っております」釈尊は来集した分身の諸仏と共に座し、虚空に浮かび上がって宙に留まった。会衆はみな起立して合掌し、一心に釈尊を仰いだ。釈尊は大きな音を立てながら宝塔の扉を開いた。すると大衆は宝塔の中で多宝如来が禅定に入っているのを見た。多宝如来は言った。「実に素晴らしい。よくぞ法華経を説かれた。私はこの経を聴くためにここに来たのだ」会衆は幾千万億劫の昔に入滅した仏がこのような言葉を発したのを聞いて不思議な思いに駆られ、宝華を散じて釈尊と多宝如来を供養した。多宝如来は宝塔の中で半座を譲り、釈尊はそこに座した。会衆は自分たちも共に虚空に上がりたいと願った。釈尊はそれを察して皆を神通力で虚空に浮かせて留まらせた。そして大声で告げた。「この娑婆世界で広く法華経を受持することを今ここで誓う者こそ、真に仏の子である。私は間もなく入滅する。皆明らかに目覚め、この経を受持する大願を起こしなさい。仏の入滅後の悪世の中でこの経を受持する事はこの上なく難しいのである。私は悠久の時の中で様々な経を説いてきたが、この法華経こそが第一である」

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【解説⑪】突如として情景が変わり、仏の神通力によるとてつもない奇跡が描かれています。このような法華経の世界を理解するには、先に仏教的な世界観・宇宙観を理解しておく必要があると思います。ネットに解説が出ていますので「須弥山(しゅみせん)」で検索して読んでみて下さい。(クリックで動画に飛びます)この品で突如出現した途方もなく巨大な仏塔というのは、仏教的世界観においてその中心にそびえ立ち、天とつながっている須弥山のようなものだと私は考えます。この仏塔は我々の仏性の象徴であり、我々が真に悟りに目覚めるまでは心の仏国土の奥深くで扉を閉じたまま眠っていて姿を現さないのです。我々が法華経に出会い、心からそれを信じ、真の悟りに至ることで、我々の心の中にこの仏塔が出現してその扉が開かれるということです。その時を多宝仏や釈迦牟尼仏などの仏たちがどれだけ心待ちにしていることでしょう。
さて、多宝仏は宝塔を開ける前にその者の分身(=真の悟りに向かっているすべての自分)を時空を超えて集めてくるようにと要求しています。これは真の悟りに至った尊い如来の姿だけ見せても、衆生は自分たちには到底無理だと感じてしまうからだと思います。みんなと同じように元々ただの人間だった者が真の悟りに至って如来になるまでの過程をすべて見せることにより、多宝仏は衆生が真の悟りを得ようという向上心を失わないように励まそうとしたのでしょう。そして心の扉を開くとは、自身の過去の罪や恥も含めて隠れなく晒すことなのでしょう。

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提婆達多品(だいばだったほん)第十二
釈尊は告げた。「私は遥か遠い昔にずっと法華経を求め続けた。その時は国王であったが、願を立て、最高の真の悟りを得ようとして、不退転の決意で※六波羅蜜(ろくはらみつ)に努め、何でも惜しまずに布施をした。そして王位を太子に譲って法を求めた。その時に法華経を知るという仙人に師事して千年間身を粉にして尽くし続けた。その時の王は即ち私であり、その時の仙人は今の提婆達多なのである。提婆達多(だいばだった)は如来に必要なすべてを私に教えてくれた。最高の真の悟りを得て、広く衆生を救う事も教えてくれたのだ。彼は悠久の未来に仏となるであろう。その寿命は半永久的で、その国では無数の衆生が菩提心を起こし、最高の智慧を得るだろう。仏の入滅後も正法は続き、七宝の塔が建ち、天も人も礼拝して供養するだろう。未来の世に法華経を聞いて信ずれば、地獄・餓鬼・畜生道に堕ちず、仏前の蓮華の中に生まれ変わるだろう」
その時、蓮華に座った文殊菩薩が大勢の菩薩たちを伴って海中の竜宮より上って虚空に浮かび、霊鷲山で蓮華から降りて二人の如来の前に到り、礼拝してから智積(ちしゃく)菩薩のところに行った。多宝如来の脇士である智積は文殊に問うた。「あなたが竜宮で導いた衆生の数はいかばかりですか?」文殊は言った。「数えることもできないほど多数です。実際にご覧に入れましょう」すると無数の菩薩が蓮華に乗って海から湧き上がり、霊鷲山の虚空に集まった。すべて文殊の教化した菩薩たちで、今は大乗の空を修行していた。文殊は言った。「私は海中においてただ法華経のみを説いていたのです」智積は言った。「法華経は究極の法であり、実に奥深く世に稀なものです。果たして衆生が精進して修行したとしても、仏となることができるものでしょうか?」文殊は言った。「それができるのです。竜王の娘は八歳ですが、利発でよく衆生の諸根を知り、諸仏の教えを深く信じまた禅定に入って、瞬く間に菩提心を起こして退くことのない境地に至ったのです。弁舌に優れ、慈悲心にあふれ、真の悟りに到達したのです」智積が言った。「釈尊でさえとてつもなく長い間修行を重ねてきて、三千大千世界の中で常に衆生に慈悲の心を尽くし、ようやく菩提の道を成就したのです。女人が一瞬のうちに真の悟りを得るなどとはとても信じられません」そこに竜女が現われて釈尊に礼拝してこう言った。「釈尊は仏の智慧をもってあまねく十方を照らし、御身はことごとく如来の相を表しております。人間のみならず竜神までもが釈尊を仰ぎ見て、一切衆生はみな礼拝し尊敬しております。法華経を聴いて菩提を成就した証は釈尊のみがご存知です。私は大乗の教えを開いて苦しむ衆生を救います」すると竜女は突然男子に変わって菩薩となり、蓮華座に座って成仏し、如来の相を表して無量の衆生に法を説いた。娑婆世界の天と人とすべての会衆は歓喜し礼拝した。娑婆世界は様々に揺れ、それぞれの衆生は菩提心を起こし、真の悟りに至る記別を得たのである。
※六波羅蜜:菩薩が涅槃に至るための六つの修行徳目
・布施(ふせ):無償の恵み・施し
・持戒(じかい):戒律を守り,自省する
・忍辱(にんにく):完全な忍耐
・精進(しょうじん):努力の実践
・禅定(ぜんじょう):心作用の完全な統一
・智慧(ちえ):真実の智慧を開現し,命そのものを把握する

【解説⑫】法華経成立のかなり後期に付け足されたと言われるこの品では「誰でも成仏できる」ということをさらに強調して伝えるために、提婆達多と竜女の成仏が語られています。
提婆達多は釈迦の親族で、釈迦に弟子入りして後に袂を分かったと言われる人物です。それにより釈迦の敵となり、釈迦の弟子達から恨まれ、多くの経典において極悪人のように描かれています。だからこそ「例え悪人でも、あなたが出会うみんなが心に仏性を抱いている仏の子である」ということを説くための題材とされたのでしょう。釈迦は本来憎むべき敵である提婆達多との出会いが自分の成長に必要だからこそ縁が与えられたのだと悟り(このような覚りに至らせるための負の縁を逆縁と言います)、彼の魂を敬愛しているのです。これはキリストが「汝の敵を愛せよ」と言ったことにも通じます。つまり我々にとって嫌な人は、我々の成長にとって必要だから仏が身近な人物に宿ってその嫌な役割を買って出てくれているということです。その人物は我々と同じ魂を持った存在でありながら、悪いカルマから逃れることができずに無自覚に損な役回りをやらされているのです。しかしそういう悪役も自分の人生という成長物語に必要だから与えられた逆縁なのだと感謝して敬愛し、お互いの悪いカルマを解消してお互いに成仏することが仏道なのです。我々の世界は我々の心が映し出しているものですから、我々が出会うあらゆる人物が我々自身の鏡なのです。
さてこの品の後半では竜女の成仏を通じ、女性・子供も成仏の対象であると説いています。人間の男性に変身してから成仏して見せたというのは、当時のインドでは女性が蔑視されていたので、女性も成仏できるということをみんなに納得させるためには方便としてこのような表現をせざるを得なかったのでしょう。この表現を女性差別的などと批判する人も時々いるようですが、ひどい誤解だと思います。法華経は誰でも成仏できるという万人成仏を説いた尊い法です。
また竜というのは人外の存在であり、そこまで成仏の範囲を広げたのは恐らく法華経だけではないかと思います。竜と表現されているのは、地底人・宇宙人(レプティリアン)のような存在のことでしょう。世界各地の伝承には必ずと言っていいほど竜(爬虫類型の知的生命体)が出てきますが、当時の人々にはそういう人外の存在が我々人間の精神世界に存在し現実世界にも影響を及ぼすものとして認識されていたのでしょう。陰謀論ではレプティリアンのような宇宙人が人心を操り影から世界を支配していると言われますが、彼らのことも成仏に導かなければならないというのが法華経の描く世界のシナリオだということです。

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勧持品(かんじほん)第十三
薬王菩薩たちは他の菩薩たちと共に釈尊の前で誓いの言葉を述べた。「どうかご心配なさらないで下さい。釈尊の入滅後に我らはこの経を受持するでしょう。後の悪世の衆生は善根が少なく高慢で名利をむさぼり、仏道から離れて悪い習慣に浸り、怒ったり憎んだりへつらったりして正直ではありませんから、我らは強い忍耐心でこの経を受持して我が命すら惜しみません」その時、尼僧六千人が起立して合掌し、釈尊を仰ぎ見て目を逸らさなかった。釈尊は言った。「私があなたたちに真の悟りに至る記別を授けなかったと思っているのか?あなたたちは未来世に仕える幾千万億の諸仏の中で偉大な法師となり、さらに六千の菩薩たちに次々と記別を授けるであろう」その時、釈尊は幾千万憶の菩薩たちを見渡した。みな不退転の地位にいる者たちである。菩薩たちは釈尊の意を介して立ち上がり、合掌して誓いの言葉を述べた。「我らは如来の入滅後に十方を巡ってこの経を受持します。どうか我らを守って下さい。無知な人々が罵詈雑言を吐き、暴力を加えてきても我らは耐え忍びます。悪世の僧たちは間違った知識と曲がった心を持って高慢であり、自分たちが正しい修行をしていると思い込んで他人を軽んずるだろう。そして我々に対し『この僧たちは名利をむさぼり、邪見で外道の道を説き、自ら経典を作って世間の人をたぶらかしている』と罵るだろう。さらに諸々の世間の人たちや時の権力者たちに悪口を言うだろう。我らはこうした誹謗中傷の言葉を耐え忍びます。この経を説くためには命を惜しみません(不惜身命・ふしゃくしんみょう)。末法の世には数多くの恐怖・法難があるでしょう。我らは仏を信じるが故に耐え忍びます。我らは法を求める人があればどこにでも行って法を説くでしょう。我らは釈尊の使いなれば恐れることはありません。我らは釈尊と十方から来たる諸仏の御前においてお誓いします」

【解説⑬】釈尊の弟子たちは釈尊の入滅後も法華経を伝えて行き、衆生を悟りに導くことを強く決意して釈迦に誓っています。そして釈迦が改めて万人に差別することなく悟りを与えることを伝えています。そしてまた法華経を伝えれば迫害を受け法難に遭うのは確実だとして弟子たちに覚悟を求めています。このあたりの表現は妙に具体的でリアルですから、弟子たちが実際にそうした迫害を経験した上で自らを励ましたい思いもあって書かれたのでしょう。衆生を真の悟りに導こうとすれば、今までの価値観に反してしまって反発を受けるのは当然であり不可避なことなのです。精神世界が重んじられた釈迦の時代よりも、物質主義に染まり切った末法の現代の方が真実の法を説くことは難しいはずです。しかし我々はみんな仏の子であり、心から法華経に帰依して不退転の決意をもって法華経を伝えようとするのであれば、必ず仏の加護を受けられるので、何一つ恐れる必要などはないと釈迦は言っています。日蓮などは自らの生き様でその勇気を示したと思います

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安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四
釈尊は言った。「菩薩が後の悪世にこの経を説く時は、四つの法に安住して行うのである。
「①一つには、菩薩行処と親近処に安住する。菩薩の行いは本来、菩薩に相応しいのである。忍耐強く穏やかで怒らず動揺しない。また諸法は如実の相なりと観じて、浅知恵であれこれ詮索しない。これを菩薩の行処という。そして菩薩の付き合いは菩薩に相応しく、これを菩薩の親近処という。菩薩は権力者や外道の者や遊興で身を立てる者や賎民や屠殺・狩猟・漁など殺生を生業とする者に自ら近づかない。しかし縁あってこれらの人々から請われれば法を説くであろう。また異性の歓心を買おうとせず、みだりに親しくしない。常に座禅を好み、静かなところで瞑想して心を修める。これを初めの親近処という。また菩薩は『一切の法は空なり、如実の相なり』と観じて、ただ因縁により仮の姿で存在していると見るのである。菩薩はここに住む。これを菩薩の第二の親近処という」
「②二つには、菩薩は人を責めず、悪口を言わず、異教の者を非難しない。また名指しで人の欠点をあげつらわず、逆にみだりに誉めそやすこともない。菩薩として安らかに生きているのである」
「③三つには、菩薩は一切の衆生を見て大悲の心を起こし、諸々の如来を父のように思い、諸々の菩薩を師のように敬う。また一切衆生を差別せず平等に法を説く」
「④四つには、菩薩は衆生が信薄く知浅く気まぐれで無関心であると知っていても、衆生をして必ず真の悟りを得させると誓って行うのである」
「多くの国においてはこの経の名さえ聞かず、ましてこの経を受持することなど思いもよらないのである。法の国土において如来は三界の王である。だが従わない諸々の魔王たちがおり、それゆえ如来の将兵たる菩薩たちは魔王の軍と戦うのである。如来はこの戦いで功を挙げた者に様々な功徳を与えるが、それでもこの法華経だけは与えなかったのである。それだけ貴重なこの経を私は今こうして説くのである。この法華経は如来の究極の法であり、諸経の中で最も奥が深いのである。如来の入滅の後にこの経を読み説く者は、憂いも悩みもなく、病もなく、貧せず、美しい身体に生まれるだろう。衆生から慕われ、刀剣も毒も害することができないだろう。憎み罵る人の口はきっと閉ざされるだろう。後の悪世にこの最高の法を説く者はこのように大いなる功徳を得るであろう。

【解説⑭】この品では末法の悪世の中でどのような心構えで法華経を説くべきかが具体的に伝られています。法華経は大乗(=衆生を平等に救おうとする教え)なのに「殺生を職業とする者には自ら近づいてはいけない」などという職業差別的なことを言うのは一見非常に矛盾して感じられます。しかし実際、職業でお金を稼ぐために毎日殺生し、それで心を痛めることもないような人たちは業(カルマ)が深いのです。もちろん人の価値は平等であり、みなそれぞれが例外なく仏道を歩んでいる存在なので、屠殺を職業とする人が悪人だということではありません。もし罪だというなら肉を食べる者も同罪です。ただ現段階で自分より明らかに業が深く縁遠い人と無理に交わろうとすると、無用な衝突が生まれてお互いが傷つくから避けるべきだということです。仏は人それぞれに応じて成長のシナリオを与えているので、我々がそれを勝手に無視するのは良くないことなのです。縁あって出会って自分に助けを求めてくる人だけを全力で救えば、やがてはそれが連鎖してみんなが救われるのです。大切なことは救いを求めてもいない相手に対して無理に教えを説いて救おうとすることではなく、相手が心を開いてこちらに救いを求めてくれるようになるぐらいに自分が成長することです。そのためにはまず自分が心を開き、自然と尊敬されるようになるまで人生修行を積まなくてはいけません。真理を他人に説きさえすれば「私は正しい。もう自分の責任は果たした。相手が真理を受け入れられないのは相手の責任である」などと考えてはならないのです。まず我々は「教える」ということ自体がエゴや傲慢さを含むことに気づかなければなりません。それは自分の正義や価値を実感するために相手を利用するという要素も生じるからです。上から目線で相手の間違いや欠点や失敗を指摘して 改善を求めることは、相手の人生・哲学・存在までも否定することにも繋がるのです。まだ時が来ていないのに人に真理を語ろうとすると相手の心は反発し、自己イメージを下げ、もっと悪いことをしてしまう悪循環に陥り、かえって相手を真理から遠ざけてしまうことが多いのです。非行の本質もここにあると思います。もし本当にこちらの考えが真理なのなら、ガンジーの非暴力不服従運動のように、自ら実践を通じて提案することでみんなが自発的に従うはずです。結局「教える」のではなく「相手に気づかせ自ら悟らせる」ことが大事だということです。釈迦もキリストも真理を語る時は例え話などを用い、自分の意図した答えを相手の側に言わせ、相手が自ら真理に気づくように導いています。人は自分で言ったことには逆らえないからでしょう。相手の心が逆らっていることを相手に押し付けることは不遜かつ不可能です。人は成長の物語を楽しむために、わざと真理を忘れた上で肉体を得てこの世に出現し、再び真理に至るまでの過程をまるで山登りのごとく楽しんでいるだけで、心にある仏性は真理を知っているのです。ですから求められてもいないのに正解を他人に直接的に教えることは、相手の楽しみ・生まれてきた意味を奪うことになってしまいます。それは新しいルートを自力で開発するチャレンジを楽しみにしている冒険家に安全な最短ルートを強制したり、無理やりヘリコプターに乗せてゴールに連れて行くようなもので、親切のつもりでも相手からすれば余計なお世話であり、反発されるのは当然のことなのです。それはお笑い芸人がクイズ番組でいきなり正解を出したり、試験を受けている生徒の解答用紙に他人が勝手に答えを書くようなもので、興ざめで迷惑なのです。人生は自分だけのたくさんの面白い過ちを経てこそ正解を得た時の喜びが大きくなるのです。相手自身から求められてもいないのに教えようとする時は余程慎重にならなければなりません。
この品では権力者に自ら近づかないように戒めているわけですが、法華経を信奉しているはずの創価学会が公明党を創り政治権力によって学会に益するように我田引水していることは、個人的に非常に疑問に感じています。釈迦は権力者に招かれて教えを説いたり寄付を受け取ったりすることはあったでしょうが、自分や弟子達を政治家にするようなことはしませんでした。大切なことは法華経の教えを正しく実践し伝えて行くことであり、教団の運営維持・拡大ではないと私は思います(ので、どこの宗教団体にも属しません)。
この品の髻中明珠(けいちゅうめいしゅ)の例え ※クリックで動画に飛びます は法華七譬の一つですが、法華経の尊さを繰り返し象徴的に表現したものであり、法華経はあまりに自賛表現が多いことが読みづらさの原因の一つなので省略しました。

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従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)第十五
その時、他の世界から来た無量の菩薩たちが釈尊を拝して言った。「釈尊の入滅後、我らにこの経を受持することをお許し願えれば、我らはこの娑婆世界で広くこの経を説きましょう」
釈尊は告げた。「いや、その必要はない。私には既に無数の菩薩たちがいる。そして更にその一人一人の菩薩に無数の随行者がついている。この者たちが私の入滅後にこの経を受持することだろう」
その時、娑婆世界の三千大千世界のすべての国土が激しく揺れて地が割れ、その中から幾千万億の地涌(じゆ)菩薩たちが一気に湧き出てきた。身は金色に輝き、如来の相を有し、光明を放っていた。みな娑婆世界の下の虚空に住んでいて、釈尊の声を聞いて現われたのである。無量の地涌菩薩たちは虚空で多宝如来と釈尊を拝し、また他の諸仏も礼拝し、二仏を賛嘆した。こうして極めて長い時が経ったが、釈尊は黙然と座していた。会衆にはその間が半日ほどに思われた。この菩薩たちの中の四人の導師が釈尊に挨拶の言葉を述べた。「救うべき者たちは教えをきちんと受持し、ご面倒をかけてはおりませんでしょうか?」釈尊は応えた。「面倒なことは少しもない。この衆生は過去世において諸仏に仕え、善根を備えているので、私の教えを聴いて如来の智慧を得るに至っている」弥勒菩薩たちは不思議に思って釈尊に問うた。「この大量の菩薩たちはどこからどうして来たのでしょうか。この地涌菩薩の数は無量で、その随行者たちの数もまた無量です。誰がこれらの菩薩や随行者たちに法を説いたのでしょうか?」釈尊は答えた。「この無量の地涌菩薩たちは、私が娑婆世界で真の悟りを得てから私が教え導いた者たちである。彼らは娑婆世界の下の虚空に住み、衆生の中にいることを願わず、静かなところを好み、精進を重ねて休むことを知らず、深い智慧を求めたのである。今、真実を告げよう。私は久しい昔からこれらの者を教え導いて来たのである」弥勒菩薩は問うた。「釈尊が真の悟りを得られてから四十年余しか経ってないはずなのに、どうやってこの無量の菩薩たちを悟りに導かれたのですか?」

【解説⑮】本門
と呼ばれる法華経の中心部の序章です。ここまでの十四品は迹門と呼ばれていて、真の悟りに至らしめるための方便の教えであるとされています。
この十五品では娑婆世界(=現世)が無量の菩薩にあふれた世界で、すべてのものに菩薩が宿っていると伝えているのです。この世界の素粒子一つ一つが菩薩の住処ということです。それが地涌菩薩として象徴的に表現されているのでしょう。
仏の国は我々の心の中にもあり、決してどこか遠くにだけあるものではないのです。目に映る物質世界に執着せず、自分やあらゆるものに宿っている菩薩たちを大切にするべきだということでしょう。そうすればその菩薩たちが我々を成長させ真の悟りへと導いてくれているということでしょう。
仏教では我々の心の世界を仏国土・三千大世界と呼びます。また「六道」と言って、その人間が持つ仏国土にはレベルがあって、それは一人一人違うのだとも教えています。
また体の細胞一つ一つにも菩薩が宿っていて、それぞれが意志を持っているのですから、その無数の意思を統一するための祈り・瞑想・精神集中がとても大切なのです。自分の心の中の菩薩・霊たちの意思がみんなバラバラでは何もうまくいきません。恨みを持って死んだ悪霊から無自覚な間に自分をコントロールされて不幸に導かれてしまいます。
自我は肉体と記憶が織りなす幻です。我欲に捉われることがどれだけ愚かで虚しいことか、我々は生きている間に気づかなければいけません。この物質世界はすべて空であり幻の如きものです。その空の世界において本当に大切なものが何か目覚めることが真の悟りなのです。

如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六
釈尊は満を持して言った。「では如来の真実の言葉を語ろう。如来の秘密と神通力を説こう。世間の者は私が釈迦族の出で今生のみで修行して真の悟りを得たと思っている。しかし本当は私が成仏してから幾千万億劫という多くの時間が経っているのだ。この途方もない時間の長さを人は計算することも想像することもできないだろう。その悠久の間、私はこの娑婆世界とその他幾千万億の世界で衆生を導いてきたのである。私は衆生の性質や時と場所によって姿を変えて現われるのだ。衆生を仏道に導くがための方便として自分の事や他の如来の事を語るのであり、どの時どの場所においても、如来の言葉はすべて真実である。如来は如実にこの世界を正しくありのままに見るのである。それは衆生がこの世界を見るのとは決して同じではない。私は成仏してから永遠に存在し寿命が尽きることはないのだ。もし如来が常に世に居るとなれば、衆生に怠け心が生じるであろう。如来の出世には会い難いと説けば衆生は如来とその教えを渇望するだろう。だから如来は不生不滅でありながら方便で入滅すると言うのである。

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良医病子(りょういびょうし)の例え ※クリックで動画に飛びます
「では例え話をしよう。ある名医に百人の子供が居た。その医者の留守中に子供たちはみな誤って毒薬を飲んでしまい、もがき苦しんでいた。ある子供は正気であったが、ある子供は毒で気が動転していた。父が帰ってくると子供たちは必死で助けを求めた。父は薬を調合し子供たちに与えた。『この薬はとてもよく効くから飲みなさい。苦しみが癒えて楽になるよ』子の中で正気な者は薬を服用して苦しみは癒えた。だが毒で気が動転した子は薬を飲まなかった。正気でないが故に薬が気に入らなかったのである。父はかわいそうに思って策を講じた。『私は年をとってもう死期は近い。この薬を置いておくから後で飲みなさい』そう言い残して他国に行き、手紙で子供らに父が死んだ事を伝えた。子供たちは誰も頼れる人がいなくなったと思って大いに悲しんだ。そこで父の残した薬を思い出して飲み、毒は癒えたのである。父はやがて帰ってきて元気になった息子たちと再会した」
「この医者が嘘をついたと誰が責められるだろうか?私の寿命は永遠だが、衆生のために方便で入滅すると言うのである。そして多くの人者が私の入滅を見て供養し、信仰心を抱くであろう。だが一心に仏を見たいと身命を惜しまない者は心の中に私を見るだろう。私は常に存在して永遠に滅することはないのだ。例えどこの国土にあっても信ずる者があれば私は必ず行って法を説くだろう。衆生が劫尽きて大火に焼かれると見る時も私の国土は安泰である。天・人が常にあふれ、楼閣は種々の宝玉で飾られ、宝樹には花や果実が実り、人々が楽しんでいる。諸天は音楽を奏でて花を降らしている。私の国土は安泰であるのに、人々は国土が焼け尽くされ恐怖や苦悩が充満している。決して疑ってはいけない。仏の寿命は無量であり、その言葉は真実である。私は常にどのようにして衆生を真の悟りに導き成仏に至らせようかと思っている」

【解説⑯】迹門において繰り返し語られていた仏の入滅ですらも方便であったことが伝えられています。実在の人間・釈迦の語ったことは方便であり、その本体である久遠本仏たる釈迦が語ることの方がより真理に近いということです。この釈迦牟尼如来の寿命の永遠性(久遠実成)こそが日蓮の解釈における本門と迹門(仏の本懐とされる部分とそれ以外)を分ける最大の要素でもあり、それが語られる十六品は法華経の核とも言えます。生前の釈迦が語った事(方便)が絶対だと考えていては真理は見えないのです。
真理とは、釈迦が不生不滅の永遠の存在(久遠本仏)の表れであり、久遠本仏はいつでもあなたを見守っているということなのです。仏は我々の考えも行動もすべてご存じなのです。それを信じて善行を積む人生とそこから目を逸らしてバレなければ何をしても構わないと悪行を積む人生とでは途方もない差が生まれます。だから仏の命の永遠性を信じるだけで大変な功徳になるのです。どのみち我々は仏に隠し事などできないのです。だから大切なことは仏にも人にも心をいつ誰に見られてもいい状態にしておくことです。それこそが心を開くということなのです。
罪悪感や羞恥心がそれを拒むのは当然のことですが、「罪と恥の存在意義」に書いた通り、我々は誰でもしてしまう可能性のあることでしか人は罪悪感も羞恥心も感じることはできません。それは我々が元々一つである証拠でもあります。罪悪感と羞恥心は人生を美しい芸術にするためのものであり、またお互いを許し合って愛し合うためのマテリアル(材料)なのです。それを我々は主に自分や他人を責めることにのみ使ってしまうために、自分も他人も同時に傷つけてしまうのです。そしてまるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」におけるカンダタのように、人は自分より悪い人間を蹴落とすことで天国に行こうとして自らが作った地獄へと落ちて行くのです。仏の慈悲をエゴのためにのみ使ってしまうのです。ですから我々は縁あって出会う人みんなを愛し、その罪と恥を許し合うことで輪廻から逃れなければなりません。
また「如来がこの世界を見るのと衆生が見るのとは違う」と書かれていますが、この世界の真実の姿というのは「宇宙の仕組み」に書いた通り、創造主の言葉と想念でできた世界であり、光である我々はそれを特定のルールに従って読み込み(認識し)、ホログラムのように作られた仮想現実であるこの物質世界を現実だと思って見るように設計されているのです。それは本当は実体のない幻のようなものであり空なのです。
命の本質は光である魂で、それは精神世界・潜在世界にあるのです。この品を読むにつけても、劫=人生であり、国土=人の心の中にある三千大千世界なのだと私は確信します。本当に我々の心が世界を作っているのです(縁起)。

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分別功徳品(ふんべつくどくほん)第十七
釈尊は言った。「私が如来の寿命の悠久なることを説いている間に、無量の衆生が不生不滅の法を会得したのである。またその千倍の菩薩が忘れることのない記憶の術を得たのである。また無数の菩薩たちが自在な弁舌の才と幾千万億の※陀羅尼(だらに)を得たのである。また退くことのない境地の※法輪を転じ、清浄な境地の法輪を転じ、真の悟りの菩提心を起こしたのである」
その時、虚空から美しい花々が降ってきて、宝樹の元に座す幾千万億の諸仏の上に散り、また七宝の塔にいる釈尊と多宝如来の上に散り、またすべての会衆の上に散ってきた。辺りに花の香りが満ち、天の太鼓が鳴り、天衣が中空に漂い、様々な宝玉が天空に飾られていた。
釈尊は続けた。「仏の寿命の悠久なる事を聞いて少しも疑わず心から信じる者は限りない功徳を得る事だろう。例え修行者たちが他の経を幾千万億劫の間に行じたとしてもその功徳には及ばないだろう。仏の寿命の悠久なることを聞いて心から信じ、その言葉の本質を理解する者は、限りなく仏の智慧に近づくだろう。まして法華経を受持する者においては言うまでもない。この人の功徳は果てしなく、一切智を生ずるであろう。そして仏が霊鷲山にいて僧たちに囲まれて説法しているのを見るだろう。その娑婆世界の地は瑠璃からなり、道は金で境界をなし、宝樹は林立し、様々な楼閣は宝玉で飾られ、菩薩たちが住んでいるのを見るだろう。また私の入滅の後に法華経を受持する者は、修行に必要な物がすべて備わっている大きな僧院を数限りなく建てたと同じ程の功徳を積んでいるのである。だから私のために塔や寺を建てて僧坊を作って供養する必要はない。ただ法華経を受持し、できうる限りの努力を重ねて※六波羅蜜(ろくはらみつ)を行じなさい。その功徳は虚空に果てがないように限りがなく、きっと一切智に至ることだろう。法華経を受持する者は、幾多の菩薩の功徳を賛嘆して供養し、もって布施行となし、他人のために正しく法華経を解き明かし、柔和なる者と共に住んで清浄に戒めを守り、怒ることなくよく忍耐し、志は堅固に精進し、禅定を貴び、深く諸法を理解する智慧を得て、よく難問にも答えるようになるであろう。そして真の悟りの境界に入るであろう。その者は仏のように塔を立てて供養されてしかるべきである。どこであろうと仏の子が住む所に仏も住み、いつもそばにいて共に経を行じるだろう」
※陀羅尼:マントラと比べてやや長い呪文 またそれにより得られる神通力
※法輪:仏教の教義 特に釈迦が説いた四諦八正道の別称
※六波羅蜜:彼岸に至るための6つの修行徳目(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧. 布施)

【解説⑰】仏が不生不滅であり、すべての存在に宿って常に我々を見守っていることが改めて伝えられています。ここが法華経の肝心なので、繰り返し強調しているのです。また仏の普遍性・永遠不滅性を知るということは、それだけでも大変な功徳になると語られています。まして人々のために法華経を人に説いて真の悟りに導こうとする者が、それ以上の大変な功徳を積んでいることになるのは言うまでもありません。またこの品でも改めて六波羅蜜を行じることの大切さが説かれています。法華経を受持し、六波羅蜜を行じることによって人は仏の子から真の仏へと昇り詰めることができるのです。

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随喜功徳品(ずいきくどくほん)第十八
釈尊は言った。「私の入滅後にある人がこの経を受持し、またそれを自分の力に応じて他人に受持させ、それを聞いた人はまた他所に行って受持させ、それを聞いた人がまた他人に受持させ、その連鎖が五十回に及んだとしよう。この五十番目の人が法華経を受持した時の功徳を教えよう。世には無数の世界があり、その中には人間以外にもありとあらゆる種類の衆生がいる。例えば大施主があらゆる衆生にそれぞれの好みに合わせて様々な宝を与えたとしよう。このような布施を続けて八十年に及び、みな老衰し死が近くなり、今度は仏法で衆生を教化してことごとく菩薩に導いたとしよう。この大施主の功徳でさえも、五十番目の人が法華経を受持したことによる功徳の百億分の一にも及ばないのである。このように人々が巡り巡って法華経を受持して得る功徳は限りなく大きいのである。またもし人が僧坊に行って片時でもこの経を聴けば、その功徳により生まれ変わって天国に上るだろう。またもし人に勧めて法を聴かせるならば、この人の功徳は生まれ変わって神々の座を得ることになるだろう。この経を人に勧めて聞かせる功徳はこのように大きいのである」

【解説⑱】世界には何十億人もいて、それぞれに個性があって価値観もそれぞれ異なるから、私が頑張ったところで全員を救うことなど到底不可能だから、誰も救おうとしない自分は悪くないのだと人は考えてしまいがちです。この世の全員を救えるような能力も財産も時間もないし、自分自身さえも救えていないのだから、自分や自分の家族を救うことだけに必死になっても誰にも非難されるべきことではないだろうと。実際、そのように人を救おうとしない臆病さや怠惰さは現世の法では罪とはなりません。例えば飢えている乞食に食事を与えなかったからといってこの世の法で裁かれることはないでしょう。しかし例えばあなたが人生でたった二人を救ったとしましょう。またその二人がそれぞれ二人を救ったとします。その倍々ゲームの連鎖が50連鎖すると1000兆という途方もない数字になるのです。その頃には自分の救いが確実に自分に返ってきて、自分自身が救われるということです。我々に見えている世界が我々自身なのですから、出会う人みんなを例外なく救わない限り自分自身も救われないのです。世界の全員が本当は自分自身なのですから、救いの連鎖が進めば進むほど功徳が大きくなるのは当然のことです。この品で語られていることはつまりそういうことなのしょう。連鎖反応というのは火をつけたスチールウールのように一度始まったら最後まで止まらないのです。どれだけ強大に見える抵抗勢力も簡単に吹き飛んでしまうのです。だから我々が縁あって出会った人をただ全力で救い続ければ、それが連鎖して世界が救われるのです。その功徳がいかに大きいかは言うまでもありません。どれだけ抵抗勢力が強大に見えようと、どんなに先が遠く見えようと、我々は信念を貫き通す勇気を持たなけれなりません。決して最初から諦めてはいけないのです。あなたの救いが例えどれだけ小さく見えても、それは必ず連鎖反応を生み、果てには潜在世界・精神世界において限りなく存在する(人外の存在も含めた)ありとあらゆる衆生を救うことになるのです。逆にそうすることでしか我々自身は決して救われません。まずは自分に助けを求めてきてくれた者を自分が救われる機会をくれてありがたいと思って、例外なく(善悪の判断なく)救おうという覚悟を持つことです。時間は幻ですから、揺るぎない覚悟をもった瞬間にもう未来は生まれているのです。あとは現実がその未来に引き寄せられます。無理に救うべきかわいそうな人を探して遠くにボランティア活動に行くのも悪くはないですが、まずは日常の場で縁あって出会った身近な人を救うべきなのです。その連鎖はいつか人間だけでなく有象無象の霊魂すべてを救うことになるのです。

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法師功徳品(ほうしくどくほん)第十九
釈尊は語った。「この法華経を受持する者の※六根(ろっこん)は清浄になるだろう。清浄なる眼は三千大千世界のすべてを見渡し、一切の衆生の因果応報の有様を知るだろう。清浄なる耳は三千大千世界のあらゆる音を聞くだろう。清浄なる鼻は三千大千世界のあらゆる香りを知るだろう。清浄なる舌は渋いものさえも天の甘露のように美味いものに変え、その舌で法を説けば心地よい声と意を尽くした論理で大衆はみな歓喜するだろう。そして天人たちでさえも法を聴くために訪れて敬い供養するだろう。また瑠璃のごとき清らかな身には三千大千世界のあらゆる衆生の生死・優劣・美醜・幸不幸がみな鏡に映るようにこの人に中に現われるだろう。また清らかなる意は、法を聴くと一語一句を理解し、そして法を説けばどれだけ続けて説いても誤らないであろう。もし法華経以外の政治・経済などの話をしても正法から外れることはないであろう。衆生の心のことごとく知るだろう。語ることはすべて仏法に適い、真実ならざることはないであろう。
※六根:眼,耳,鼻,舌,身,意の6つの感官能力

【解説⑲】この品では法華経を受持することの功徳が語られています。才能は偶然にもたらされるものではなく、仏の慈悲で与えられるものだということです。自分の才能を偶然得たと思ったり、または当たり前のものだと思たっりして、才能を自分の所有物のように考え、我欲のためだけに使ってはならないのです。人の才能は世の中すべてのものであり、自分に与えられた意味(使命)を正しく理解しなければなりません。それには与えられた才能をみんなを救うため、みんなを喜ばせて笑顔にするために使うことです。またこの品では六根清浄ということが語られています。キリストが「目は心の窓である」といったように、目が清浄になれば世界は明るくなります。世界は自分の心を映し出したものだからです。そして目(この世界の解釈の仕方)が美しくなれば、この世界を感じる器官のすべてが美しくなります。現代では世界中のニュースが入ってくるようになり、その大半はネガティブなものなので、きっとみんなの心を暗くしてしまうことでしょう。でもあなたが直接知らない人のニュースで暗くなる必要はないのです。それらは迹仏・迹土と言って縁遠い仏国土の出来事であり、あなたが直接的に救うべき使命にはないのです。あくまでも縁あって出会い、自分の才能や努力で救える人を救い続ければ、救いの連鎖はいつか必ず遠い仏国土の彼らにも届くのです。

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常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)第二十
釈尊は語った。「遥か遠い昔、ある世界に一人の菩薩が現われた。この菩薩は相手が誰であっても礼拝してこう言ったのである。『私はあなたを敬います。決して軽んじません。なぜならあなたは菩薩の道を行じて仏となるからです』この菩薩は経典を読むことさえなく、ただ人々を礼拝するばかりであった。人々は彼に対して怒り出し、暴力を振るう者さえいた。しかしそれでもこの菩薩は決して怒ることはなく、出会ったすべての人を尊敬し続けた。それゆえ人々はこの菩薩を常不軽と呼んだのである。
さてこの菩薩は死期が迫った時、虚空で偉大なる如来が説く法華経の詩句を聞いたのである。彼はそれを心から信じて六根が清らかになり、幾千万億年の寿命を得たのである。そして広く衆生に法華経を説いた。かつてこの菩薩を軽んじた人々はみなその教えを聞くために集まった。こうして彼は幾千万億という人々を真の悟りに導いたのである。常不軽菩薩はその入滅後から幾千万億劫も無量の諸仏に会って学び善根を積んだのである。そしてその功徳により如来となった。
その常不軽菩薩とは他ならぬ私である。私は過去世においてこのような功徳を積んだために現世において速やかに成仏できたのである。私を軽んじた衆生は幾千万億劫の間も仏に会えず、一万劫の間地獄に堕ちて苦しんだのである。そしてその地獄を乗り越えてようやく再び常不軽菩薩に会えたのである。その時この菩薩を軽んじた衆生こそ今ここにいる者たちでありみな真の悟りにおいて退転することのない境界の者たちなのである。法華経はこのように菩薩たちに利益をもたらし真の悟りに至らしめるので、如来の入滅後は法華経を受持しなければならないのである。この法が説かれなかった幾千万億劫の長い時を経て、今この法を聞く機会を得たのは極めて稀有で幸いな事なのである」

【解説⑳】法華経で私が個人的に最も好きで重要だと思う品です。仏教の修行を積み法典を勉強したりすることも素晴らしいことなのですが、この品ではそれが仏道の本質ではなく「みな例外なく心に仏性を持ち、将来きっと成仏する仏の子だと信じ、自分も他人も例外なく尊敬し続けることを止めないこと」こそが仏道の本質であると説かれているのです。誰かに嫌われて攻撃されてもこちらからは決して相手を嫌ったり避けたりせず、心から相手を尊敬してその成仏を願い、そして最後まで決して諦めずに信じ続けることが仏道において最も大切だということです。いくら他人を救おうとしても逆に相手のプライドを傷つけてしまって怒られたり嫌われたり罵られたりするのは宿命です。それでもなお信念を貫くことにこそ意味があるのです。例えそれで現世では相手から怒られ嫌われ罵られたとしても、時空を超えた潜在世界・精神世界においては感謝され、いずれは教えを請われることになるということです。先にも書きましたが、あなたにとって嫌な人は嫌な役割を演じさせられているだけなのです。この世界に悪役はいても悪人は存在しません。悪人に見えるのは悪いカルマゆえに悪役を背負っているだけなんです。我々の成長の物語のために悪役を演じてくれているのです。我々は善人も悪人も関係なく、縁あって出会う人を無条件で尊敬し続け愛し抜く以外に我々が救われる道はないのです。
常不軽菩薩は「あなたを尊敬します・あなたは未来には仏になる人だからです」などとモロに言うから反発を受けたのであって、それは直接的に口に出さず、心から思うことで態度に反映され、それが相手に伝わり、相手の自尊心を上げ、仏性を呼び覚ますことになるのです。
ちなみに千日回峰行のような苦行もこの常不軽菩薩品が根拠になっているそうですが、私には全く理解できません。恐らく自宗派に修験道・密教を取り込むために捻じ曲げた解釈をして無理やり根拠にしているとしか思えません。それは厳しく言えば苦行を通じて自分が悟った特別な人間になりたいという自己満足であり、モロに小乗的な考えで、万人成仏を語った法華経とは真逆のものです。もし常不軽菩薩を手本とするなら、たくさんの人に会ってどれだけ迫害を受けても人を尊敬し続け、法華経を説き続けるべきでしょう。それを生涯やり通せたら本当に菩薩だと思います。本願寺系の方々は「親鸞は千日回峰行のような苦行をしても悟れないと悟ったのだから法華経は真理ではない」のような理屈付けをしているようですが、それも私に言わせればナンセンス極まりありません。このように法華経というのは誤解を生じやすく、解釈を間違えればかえって真理から遠ざかってしまうものなのです。

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如来神力品(にょらいじんりきほん)第二十一 
その時、地から湧き出てきた三千大千世界の微塵の数に等しい菩薩たちが釈尊に言った。「我らは釈尊と釈尊の分身のいる国土で広くこの経を説きます。この大いなる法を受持してこれを供養します」釈尊と多宝如来は微笑を浮かべて舌を出し、その舌から幾千万億の光が放たれた。その一つ一つの光の中に金色の菩薩がいて蓮華の中に座っていた。これらの菩薩たちは四方八方の幾千万億の世界に広がり、それぞれ虚空に留まって法を説いていた。諸々の宝樹の元に座していた諸仏も舌を出して無量の光を放った。この瞬間が幾十万年続いた。その後に舌を納めて同時に咳払いをして指を弾いた。この二つの音は十方世界を揺るがし地が激しく揺れた。十方世界の天人と非人たちにはこの娑婆世界が見えた。そこで幾千万億の諸仏が宝樹の下に座り、無量の菩薩や衆生が四方から取り囲んで、宝塔に座している釈尊と多宝如来を仰ぎ見ているのが見えた。その時、諸々の天から虚空の中に響き渡る声が聞こえた。「幾千万億という計り知ることもできない世界の向こうに娑婆という世界があり、釈尊という仏がいる。彼は今諸々の菩薩のために最高の教えである法華経を説いている。釈尊を礼拝し供養しよう」十方世界の衆生はみな娑婆世界に向かって合掌した。そして種々の花・香料・宝玉を娑婆世界に降らした。それらが十方世界から雲のように集まって諸仏の上に散ってきた。十方世界は一つの仏国土のようになった。釈尊は上行等の菩薩たちに告げた。「諸仏の神力はこのように無量であり不可思議である。私は幾千万億劫という計り知れない長い時間この経の功徳を説いてきたが、説き尽くすことはできなかった。この経には如来の一切の法と、如来の一切の自在の力と、如来の一切の秘密と、如来の一切の奥深さが、明らかに説かれているのだ。この故に如来の入滅後はみなこの経を受持すべきである。修行者は例えどこであっても塔を建てて供養すべきである。なぜならそこは諸仏が真の悟りを得る場所だからである」

【解説㉑】この品でも現実とはとても思えないとんでもなくスペクタクルな情景が描かれています。法華経におけるこのような奇跡はすべて潜在世界・精神世界において起きていることなのですが、そこで起きたことはまるで設計図のようにこの顕在世界・物質世界でも起きる仕組みになっているのです。それは大本教の出口王仁三郎などが再三伝えていたことでもあります。だから良い想念・良い言葉を持つことがとても大切なのです。
この品では無量の地涌菩薩たちがこの世界のすべての存在の中に宿っていることが語られています。我々はいついかなる時も仏にすべて見られているのです。我々の世界は我々に法華経を説くために存在していると言っても過言ではありません。そしてこの世に偶然は存在しませんから、我々が生きてこの法華経と出会えたことは必然なのです。
しかしそれは運命である同時に途方もなく得難い奇跡でもあり、心から感謝しなければなりません。生きていれば当たり前・無価値だと感じてしまうことを、貴重なことだと心から感謝すように努めることが現世の修行なのです。
人間には我欲があるからこそ生があるのですが、みんなでこの世の恵みを分かち合って幸せに暮らすべきであり、他人と争い奪い合ったり貪欲に耽ったりして我欲のままに生きてはならないのです。
ここまで読み進めて信じることができたあなたは間違いなく法華経の受持者でしょう。あなたもあなたの心に住むみんなも弥勒菩薩であり上行菩薩の生まれ変わりだということです。きっと仏道を極め、太陽や月があまねく大地を照らすように世界を明るくして衆生を救って下さい。

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嘱累品(ぞくるいほん)第二十二  
釈尊はすべての菩薩たちの手を取って繰り返し言った。「私は久遠の昔に真の悟りを修得した。今、そなたたちにこれを授ける。一心にこの法を流布して一切の衆生に伝えなさい。如来は大慈悲を有し物惜しみせず、ことごとく衆生に智慧を与えるのである。如来の知見を広めなさい。もし信じない人があれば方便を使って導きなさい。これがよくなされたならば即ち諸仏の恩に報いることになるのである」釈尊の言葉を聞き終わった諸々の菩薩たちは大いに歓喜し、声を合わせて言った。「釈尊の仰せられた通りに努めます。どうかご心配されませんように」すると釈尊は十方諸仏たちに言った。「諸仏は各々のところにお帰りなさい。多宝仏の塔は元のところに戻って安んじて下さい」法華経の受持があまねく完了し、その場の皆が歓喜に包まれた。

【解説㉒】釈尊が「どうかこの法華経を遍く伝えて下さい」と菩薩たち一人一人の手をとって真剣に頼んでいます。自分は天の導きで先に悟ったたというだけで、決して自分が特別に偉いわけではなく、みんな等しく尊い存在なのだと態度で示しているのです。そして真に尊いのはそのみんなの存在の尊さを教えてくれる法華経なのだと。だから私個人ではなく法華経を仏身そのもののように大切にして欲しいと。今、釈迦がどれだけの愛で、あなたに向けて語り掛けていることでしょうか。
この品の最後で諸仏はそれぞれの国に帰り、多宝塔も元に戻り、日蓮が最重要視した「本門八品」が終了します。ちなみに日蓮の法華曼荼羅はこの八品の間の光景を文字で表したものなのです。

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薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第二十三
宿王華菩薩が釈尊に問うた。「薬王菩薩はどうして難行苦行の絶えない娑婆世界に留まっておられるのですか?」釈尊は答えた。「遠い昔に日月浄明徳という仏がいた。彼は地が瑠璃でできたとても美しい仏国土に住していた。喜見菩薩は長年この仏の下で修行を重ねて※ 現一切色身三昧を得た。そして歓びこう思った。『私が現一切色身三昧を得たのは法華経を聴いたおかげである。私は日月浄明徳仏と法華経を供養しよう』こうして虚空の中に美しい花々を雲のように満たし、香を降らせた。しかしこうして神通力で仏を供養しても足りないと思い、喜見菩薩は人身供養のために様々な種類の香を十二年間飲み続け、日月浄明徳仏の前で身に纏った天衣に香油を注いで自身の身体に火をつた。その光明は三千大世界をあまねく照らした。諸仏は彼を誉め称えた。『素晴らしい。これが本当の供養だ。他の何を以ってしても及ばない最高の布施だ』こうして喜見菩薩の身体の火は千二百年もの間燃え続け、そして命尽きた。しかし彼はまた日月浄明徳仏の国に生まれ、その父母に言った。『私はかつて日月浄明徳仏の下で修行し、現一切色身三昧を得て、仏の供養のためにこの身を捨てました。仏は今もなお健在です。私は衆生のあらゆる言葉を解する三昧を得て法華経を聞くことを得ました。それゆえ再びこの仏の下へ行きたいのです』こう語ると菩薩は虚空へ上り、仏の前に至って合掌した。日月浄明徳仏は喜見菩薩に告げた。『私の涅槃の時は近づいた。そなたは私の床の用意をしてくれ。私は今夜入滅するだろう。究極の悟りをそなたに委ねる。この世界の宝もすべてそなたに委ねよう。この経を流布して供養しなさい』こうして日月浄明徳仏は喜見菩薩にすべてを委ねて涅槃に入った。喜見菩薩は大変悲しみ、八万四千の仏舎利塔を建て、自分の腕を燃やして供養した。その火は七万二千年燃え続け、その間に数え切れない人々に菩提心を起こさせ、現一切色身三昧を得させた。不具となった喜見菩薩は会衆の前でこう言って誓いを立てた。『私の両腕は必ず仏の金色の身体を得て元に戻るだろう』すると菩薩の両腕は本当に元に戻った。そして三千大千世界は様々に揺れ、天から花々が散った」
釈尊は宿王華菩薩に言った。「この喜見菩薩は今の薬王菩薩その人である。菩薩は幾千万億の苦行をし、このように身を捨てて布施をしたのである。もし発心して究極の悟りを得ようとするならば、手の指、足の指を燈して仏塔を供養せよ。そしてこの法華経の一詩句でも唱えるのならば、三千大千世界の宝を以って供養する功徳にも勝るだろう。この法華経は仏の経の中で最も優れた諸経の王である。太陽が夜の闇を破るようにこの経は一切の不善の闇を破り、一切の衆生に利益を与え諸々の苦悩を離れさせて救うのである。この経は衆生をして一切の苦、一切の病、一切の生死の束縛を解くのである。もしこの法華経を受持する功徳は計り知れないのである。例え末法の悪背に生まれても、愛欲・怒り・愚痴に悩まされず、また自惚れ・嫉妬にも囚われず、菩薩の神通力と不生不死の法を得るだろう。眼は清浄になり、無数の諸仏が最高の賛辞を以ってその者を賞賛するのを見るだろう。このように法華経受持者は現世において無量の功徳を得るのだ。宿王華よ、そなたに法華経を受持しよう。私の入滅後の末法の世にこの経を広く流布して守れ。この経はこの世の人の良薬であり、この経を聞けば病はたちまちに消滅し、不老不死になるだろう。この経の受持者は仏の使いとして尊敬されるべきである」この薬王菩薩本事品を説いた時、八万四千の菩薩たちは一切衆生の言葉を解する陀羅尼を得たのである。
※ 現一切色身三昧:一切衆生に対応してどんな身体でも現すことができる神通力 この神通力を得た菩薩たちは様々な人間やその他の存在になり替わって我々衆生を教化している。だから我々は出会う人みんなを菩薩のように大切に扱い、何を学ばせてくれているのかを考えなければならないということ。

【解説㉓】この品では薬王菩薩の前世での人身供養による功徳が説かれています。法華経の尊さと無我・献身の大切さを過激かつ極端な表現方法で表したのだと思いますが、たまにこの品に倣って焼身自殺したり手足を切断したりする仏教僧がいるそうです。彼らの尊い自己犠牲を否定する気はありませんが、薬王菩薩=喜見菩薩が仏のため≒この娑婆世界のため、つまり我々のために人身供養をして下さったのですから、我々はその真似をするよりも、本文に書かれている通り彼の偉業と法華経を称えて供養しつつ、法華経の一文一句でも覚えて広める努力をすべきかと思います。
この品で仏が伝えたかったことは「命に執着せず信心を持ちなさい(勇気を持ちなさい)」ということです。法華経のために体の一部を失ったり命を落とすことがあっても仏の加護により決して苦しくはならないし、また生まれ変われるから、死を恐れずに法華経を受持する勇気を持ちなさいということではないかと思います。実際に臨死体験をした人は口を揃えて「全然苦しくなかった」と言います。死の苦痛など一瞬の幻なのに、人は死に対する恐れ・臆病さ・我執により争い合い奪い合って醜くなり、自ら悟りより遠ざかってしまうのです。人はどのちみち必ず死ぬのに、死を恐れて保身を人生の目的にするのは愚かしいことです。臆病さはこの世界では悪い事とはされませんし、法でも裁かれませんが、仏道においては最大の罪なのです。
仏の本懐はあくまで「信心のためには命に執着すべきではない」ということがなのであって、「命を尊ばない」ということが仏の本懐ではないので、決して誤解しないで下さい。

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妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)第二十四
釈迦は眉間の間から光を放ち、無数の諸仏の世界を照らし出した。その向こうに宿王智(しゅくおうち)如来の世界があり、そこに妙音という菩薩がいた。善根を植えて数えきれない程の諸仏を供養し、深い智慧と数限りない※三昧(ざんまい)を得ていた。妙音菩薩は宿王智仏に言った。「私は娑婆世界に行って釈尊を礼拝して親しく供養し、また文殊等の菩薩たちに会いたいと思います」宿王智仏は言った。「そなたはあの娑婆世界へ行ってもその国を軽んじたり見下したりしてはならない。娑婆世界の地は高低があって平らではなく穢れに満ちている。仏も菩薩たちも小さい。そなたは端正で福相を有し光輝いている。だからあそこに行って仏や菩薩や国土を蔑むような思いを起こしてはならない」妙音菩薩は言った。「私が娑婆世界に行けるのもすべて如来の神通力と智慧のお陰です」そして妙音菩薩は三昧に入り、その力で遥か彼方の霊鷲山に幾千万の蓮華の座を作った。文殊菩薩はこの蓮華を見て釈尊に聞いた。「妙音菩薩は如何にしてこの神通力を得たのでしょうか?どうかこの妙音菩薩の姿が見えるようにして下さい」すると多宝如来が妙音菩薩の姿を娑婆世界に見えるようにした。そして妙音菩薩は幾千万の菩薩たちと共に現われた。通過した国々は様々に揺れ、七宝の蓮華を降らし、幾千万の楽の音が鳴り渡った。妙音菩薩の眼は大きな青い蓮華の葉のようで、面差しは素晴らしく端正で光輝いていた。身体は黄金に輝き、無量の功徳を積んだ威風は辺りの穢れを払っていた。妙音菩薩は諸々の菩薩たちに囲まれて七宝の台座に座り、虚空に留まって釈尊を拝し、真珠の飾りを奉った。釈尊は先の薬王菩薩の問いに応えて語った。「妙音菩薩は遥か遠い昔から無量の諸仏に仕えて修行・供養して功徳を積んできたのだ。妙音菩薩の身体は現にここに在ると見えるだろうが、この菩薩は時と所に応じて様々に変身して現われ、いたるところの衆生にこの経を説き、地獄・餓鬼・畜生等の者たちを救済してきた娑婆世界の救済者なのである。この妙音菩薩の三昧を『現一切色身三昧(げんいっさいしきしんざんまい)』というのである」この時、妙音菩薩と一緒に来た幾千万の菩薩たちはみな※現一切色身三昧を得て、娑婆世界の無量の菩薩たちもまたこの三昧と陀羅尼を得たのである。妙音菩薩はこのように娑婆世界の衆生に利益を与え、釈尊と多宝仏の塔を供養して本土に帰っていった。

※三昧:深い瞑想状態。またそれを通じて得られる神通力。ここでは後者の意。
※ 現一切色身三昧(げんいっさいしきしんざんまい):一切衆生に対応してどんな身体でも現すことができる神通力。薬王菩薩本事品第二十三の注釈をご参照のこと。

【解説㉔】この妙音菩薩というのは我々のいる娑婆世界ではなく他の世界から来たと書かれており、その描かれている特徴から言ってスピリチュアル業界で言われるところのプレアデス星人やアシュタール星人などの宇宙人じゃないかと私は考えています。彼らは我々よりも高次元の存在で物質的存在ではなく、精神的にも科学的にも我々より遥かに進んでいると言われます。だからこそ宿王智如来は妙音菩薩に対してわざわざ「娑婆世界の者が劣っているのを見て馬鹿にするな」と注意したのでしょう。宇宙人は潜在世界・精神世界の存在であり、時空を超えて我々の娑婆世界とつながっているのだと思います。時間は幻ですから距離も幻なのです。そして彼らがこの物質世界で人間の目に見えるように姿を現してこの世界の人を悟りに導くのに、その時存在している何者にも成り代われるという神通力(現一切色身三昧)を発揮するのでしょう。最近はスターシードという他の星の記憶を持つ人たちが増えています。彼らは現一切色身三昧でこの娑婆世界の体に宿っているのでしょう。自我は幻であり、体は乗り物に過ぎないのです。彼らは「三車火宅の例え」の父親のように、神通力で直接的に人間を救うのではなく、人間自身が自力で悟って次元上昇できるように、様々な人物に成り代わって様々な役を演じながら導いてくれているのでしょう。妙音菩薩とはそういう存在として象徴的に描かれているのだと思います。これはあくまでも私見ですが、現一切色身三昧を持つ彼らの存在は、荒唐無稽なおとぎ話や都市伝説などではなく真実であると私は考えています。

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観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)第二十五
釈尊は言った。「もし人が観世音菩薩の名を一心に讃えれば、苦しみや悩みから解放されるであろう。もし火の中にあっても焼けることはないであろう。もし河に流されても浅瀬が見つかるだろう。もし海に出て嵐にあって邪悪な者の住む島に流されたとしても難を免れるだろう。もし処刑されそうになっても難を免れるだろう。もし悪魔が人を悩ますことがあっても害を加えられないであろう。もし捉えられ鎖で繋がれ閉じ込められても逃れられるだろう。もし悪漢や盗賊がいる悪路を通るとしても難を免れるであろう。もし愛欲の強い者がいても我執がなくなるであろう。もし激しい怒りを持つ者がいても怒りが収まるだろう。もし愚痴ばかりの者がいても愚痴らなくなるだろう。子供が欲しい人には賢く可愛い子供が生まれるだろう。観世音菩薩にはこのように神通力があって利益が多いのである。だから衆生は常に観世音菩薩の名を念じ礼拝して敬い供養すべきである。そうすれば必ずご利益があるだろう。観世音菩薩はこの娑婆世界の衆生を憐れみ、必要に応じて人や物など様々に姿を変えて衆生を救うのである。ゆえに自分自身も縁あって出会う人もみんな観世音菩薩だと信じて礼拝し、各々に食事など必要なものを施して供養すれば、その功徳は大変多いだろう。この観世音菩薩は危機の最中においてよく人を救うのである」

【解説㉕】観世音菩薩というのはどこか遠い世界にいるわけではなく、まさに我々の心の中に住んでいるのだと思います。我々の慈愛の心を具現化した存在とも言えるでしょう。そして薬王菩薩や妙音菩薩のように現一切色身三昧という神通力を持ち、救う相手に合わせていつでもあらゆる存在に自由自在に成り代わって表れるのです。もしある人が自分の心の中にいる観世音菩薩を尊び、その名を讃えて呼び覚まそうとする時、観世音菩薩はその者を救わずにはいないことでしょう。そして様々な神通力を通じてその者を守護するでしょう。観世音菩薩は観自在菩薩とも言われ、その名の通り自在に神通力を発揮するのです。この品では具体的にどのような守護があるのかが語られていて、この品は仏教の様々な宗派において独立した経(観音経)として唱えられています。チベット仏教において最も唱えられている六字大明呪(オム・マニ・ペドメ・フム)におけるマニパドメも観音菩薩のことであり、光明真言のマニハンドマも観音菩薩で、大悲呪の千手千眼菩薩も観音菩薩のことです。般若心経も観世音菩薩が舎利弗に教えを説いている形になっています。また日本で作られる仏像も阿弥陀如来と並んで観音菩薩のものが多いです。つまり最も衆生の救済に近い存在であり、日本を含む多くの仏教国で最も親しまれている菩薩が観音菩薩なのでしょう。浄土宗系の宗派は阿弥陀如来を本尊としていますが、私見では弥勒菩薩(我々の本体)が観音菩薩の過去仏であり、観音菩薩がさらに修行を積んで衆生を救い真の悟りに至って如来となった未来仏が阿弥陀如来なのではないかと考えています。観音菩薩は敢えて如来にならずに衆生救済のためにこの娑婆世界に留まっているのでしょう。その点は現一切色身三昧を得た他の菩薩たちも同じかも知れません。阿弥陀如来は遥か遠い未来の存在・遠い仏国土に住む存在(迹仏・迹土)であり、現世においては阿弥陀如来などの如来たちに他力本願でただ救いを求めるのではなく、我々が出会った人みんなをお互い心に観音菩薩(慈悲の象徴)を抱える存在として信じ合い、尊敬し合い、救い合うことの方が大事なのではないかと思うのです。これはあくまでも個人的な見解なのですが、実感としてただ単に阿弥陀如来を礼拝して得られるご利益というのは実際あまり感じられず、また奇跡が起きたという話も私はあまり聞いたことがないのです。本願系の宗派の方々に対して失礼になっていたら申し訳ありません。私は本願寺系や禅宗系のお寺にも通い、お坊さんたちを例外なく尊敬し、ちゃんと勉強しつつ阿弥陀如来も礼拝しています。

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陀羅尼品(だらにほん)第二十六
釈尊は言った。「もしこの経を受持する者があれば、その功徳は無量の諸仏を供養する功徳に等しく、とても大きいだろう」すると薬王菩薩らは陀羅尼(だらに・比較的長い梵語の呪文)を唱え、その口々にこう言った。「この陀羅尼によって法華経の受持者は守護されるでしょう。また安らぎを得させ、煩いを離させ、諸々の毒を消させましょう。いかなる鬼神たちや病や悪夢や誘惑からも守られることでしょう。」釈尊は言った。「良い事だ。法華経の受持者を守る事ですらこのような功徳があるのだ。まして法華経を様々なやり方で供養する者たちをどうして守らずにいられようか。そなたたちはみなこのように法を説く者を守護すべきである」こうしてこの場に集まった全員が不生不滅の法を得たのである。

【解説㉖】この品では陀羅尼を唱えることで法華経受持者が守護されることと語られています。今回は要約なので陀羅尼自体は丸々カットしましたが、深く知りたい方はこちらをご覧下さい。陀羅尼を唱えるだけでも守護されるのとのことですが、その陀羅尼の意味まで学んだ上で唱えればその効果はさらに絶大なものとなるでしょう。そして陀羅尼の大意がわかったら、あとはただ無心に唱え続けてみて下さい。きっと運命が開けるはずです。
「南無妙法蓮華経」のお題目にしても、ただ唱えるだけでもご利益のあるものではありますが、それを広めたのはかつての無学な衆生にもご利益を与えるための日蓮の慈悲であり、そしてそれは真の信心に導くための仏の方便なのです。だから学のあるあなたは法華経全体の内容をしっかり理解し、菩提心を持ち、みんなの幸せを願いながら唱えて下さい。そうすれば積み上げられる功徳ともたらされるご利益が全然違います。これは実感を通して断言できます。マントラについてはこちらの記事マントラのすすめをご参照下さい。

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妙荘厳王本事品(みょうしょうごんおうほん) 第二十七
釈尊は語った。「遥か遠い昔、ある国に妙荘厳という王がいて、彼には浄蔵・浄眼という二人の子がいた。子は二人共に神通力と智慧があって、久しく菩薩の道を修得し、様々な三昧を体得していた。ある時、二人の子らは母に言った。「宿王華智仏(しゅくおうけちぶつ)という仏が法華経を説いています。一緒に教えを請いに行きましょう」母は言った。「そなたたちの父はバラモン教に帰依しているのできっと許可しないでしょう。ただもし父にあなた方の神通力を見せれば許可するかも知れません」そこで二人の子は父の目前で虚空に上って様々な神通力を発揮した。身から火や水を出したり、身を大きくしたり小さくたり、姿を消したり現われたり、水の上を歩いたりした。父はその神通力を見て大いに歓び、師は誰かと尋ねた。二人の子は宿王華仏が師であると伝え、出家を願い出た。すると父はただちにこれを許可した。すると二人の子は言った。「一緒に宿王華智仏の所に参りましょう。仏は三千年に一度咲く優曇華の花のように会い難いのですから」そして王と夫人は二人の子と共に宿王華智仏の元に行った。子供たちにより仏教に帰依して真の悟りを得た王は大変歓んだ。宿王華智仏は会衆に告げた。「この王は仏になり、無量の菩薩や声聞たちが彼の元に集うだろう」こうして王は国を弟に譲り、夫人や子たちと共に出家したのである。王は幾万年も精進して法華経を修行して様々な三昧を得た。そして仏に言った。「私の二人の子は私を仏道に至らせた師であり善き友です」宿王華智仏は王に言った。「その通りである。善根を積んでいるからこそ、いかなる世のいかなるところに生まれても善き友に出会い、仏道に導かれて真の悟りに至るのである。王の二人の子はかつて無数の諸仏に仕えて供養し、法華経を受持し、衆生を真の悟りに導いたのである」王は宿王華智仏に言った。「仏の法は貴重かつ偉大であります。私は今日より思いに任せて行わず、邪見を廃して慢心せず、何事にも怒ることなく精進します」こうして王は大きな功徳をなし、また幾千万億の諸仏の元で諸々の功徳を積んだのである。

【解説㉗】この品でもバラモン教より仏教が上であるということがサラッと示されています。
人は誰しも壮大な因縁(カルマ)の元に生まれて来ているのです。しかし悪いカルマを恐れたり恨んだりするのではなく、まずは祈りにより心を清浄にすることだけを考えて、功徳を積むことが大事です。世界は自分の心を映し出したものなのです。ですからあなたが自分の心を清くすればあなたの世界は清くなります。もし万人を差別することなく心から救いたいと思うのなら、あなたを通じて仏たちが奇跡を現すようになり、それがあなたの世界に住む人々に信心を湧き上がらせることでしょう。
しかし神通力を得ることが悟りの本質のように誤解しないで下さいね。キリストは様々な神通力を現すことで人々を真の悟りへと導こうとしましたが、生前の釈尊はあまりそのようなことはせず、弟子達にもみだりに神通力を使わないように戒めていたそうです。神通力を現すより現さずに大衆に菩提心を起こさせることの方がより難易度の高い課題であることは間違いないでしょう。

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普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第二十八
普賢菩薩は無数の菩薩を伴って霊鷲山に至り、釈尊に言った。「私は遥か遠くの仏国土からこの娑婆世界で法華経が説かれているのを見て参りました。如来の入滅後に衆生はどのようにすればこの法華経を受持していくことができるでしょうか?」釈尊は言った。「それには四法を行うことである。四法とは一つに諸仏に守られている事、二つに種々の徳を積む事、三つに真の悟りに至るのは必定と信じる事、四つに一切衆生を救うと発願する事である。このように四法をなせば如来の滅後においても必ずこの経を受持するだろう」普賢菩薩は言った。「後の五百年の濁悪の世にあってこの経を受持する者があれば、私は大菩薩衆と共に現われてその者を守護し、法を説いて教え導き、供養し慰めましょう。いかなる魔の者たちもこの人を悩ますことはできないでしょう。この人がもし法華経の一言一句を忘れることがあれば、私は教えて共に経を読みましょう。そしてその人さらに精進して数々の陀羅尼を得るでしょう。また私の陀羅尼がその人を魔から守るでしょう。この娑婆世界で法華経を受持する者は、命が尽きた後に天人に生まれ、諸々の菩薩たちや幾千万の天女たちが迎えられるでしょう。命尽きて後も地獄に堕ちる事なく、※兜率天(とそつてん)の弥勒菩薩のところに生まれ変わるでしょう。法華経にはこのような大きな功徳があるのです。私は神通力をもってこの経を守り、如来滅後の娑婆世界で遍くこの経を広めることでしょう」釈尊は讃えて言った。「そなたは久遠の昔から菩提心を発してよくこの経を守ってきた。この法華経を受持する者はまさに釈尊に会い、仏の口から直接この経を聞くと知るべきである。このような人は悪しき者たちと交わらず、心が素直で正しく思い、徳が具わっているのである。欲少なく足ることを知り、行に励むことであろう。後の五百年の濁悪の世にあって法華経を受持する者は真に悟り魔を打ち破ることだろう。法華経を信じる者を軽んじ『お前は気違いだ』などと嘲り罵る者の罪の報いは大きく、みな病になるであろう。また顔や体は醜く曲がって臭くなり、重病にもなるだろう。逆にこの経を信じる者は大いに果報を得るだろう。だから法華経を受持する者がいたら必ず迎えるべきである」釈尊がこの経を説いた時、すべての会衆はみな歓喜し、仏の言葉を信じ、礼をして去ったのである。

※兜率天:仏教世界観 天上界の中の一つ。
⑥他化自在天(たけじざいてん)
 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処。
⑤化楽天(けらくてん・楽変化天=らくへんげてん、とも)
 この天に住む者は自己の対境を変化して娯楽の境とする。
④兜率天(とそつてん)
 須弥山の頂上、12由旬の処にある。
③夜摩天(やまてん・焔摩天=えんまてん)
 時に随って快楽を受くる世界。
②忉利天(とうりてん・三十三天=さんじゅうさんてん)
 須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所。
①四大王衆天(しだいおうしゅてん・四天王の住む場所。
 持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所。

【解説㉘】最終品です。普賢菩薩は文殊菩薩と並んで智慧の象徴とされ、釈迦の眷属(けんぞく・従者)として広く崇拝されています。また普賢菩薩は法華経を守護する十羅刹女とその母の鬼子母神を眷属とし、女性からの信仰が篤い菩薩です。
さて、この品ではあらためて末法の悪世で法華経を伝えることの困難さを伝え、揺るぎない覚悟を求めています。そしてその末法の悪世の中で衆生を救うために、釈尊は四法を行うべきだと説いています。それは「①仏に守られているということを信じて疑わないこと ②徳を積むこと ③誰でも悟りに至れると信じること ④みんなを例外なく救おうと心から願うこと」です。今弥勒菩薩が修行していると言われる兜率天というのは、きっと仏国土のレベルのことでしょう。我々は皆、修行中の弥勒菩薩の仏国土に生まれた住民であり、いつか悟りに至り救われることは約束されているのです。
またこの品では改めて陀羅尼を唱えれば守護されることも説かれています。歴史上確かに存在した人間・釈迦はその生前には陀羅尼のような呪術的なことに否定的だったようですが、法華経における釈迦は陀羅尼による仏の加護を認めているのです。
法華経はこの顕在世界・物質世界の常識・価値観とは明らかに反するので、これを真理として人に語れば多くの人から迫害されるのは自明でしょう。それでも法華経受持者は忍耐強く愛を持って衆生を悟りに導かなければならないのです。世界はあなた自身の心を映し出したものであり、あなたが縁あって関わった人々はみんなあなたの心の世界の住民なのです。ですからあなたの仏国土に住む人たちみんなを例外なく救うことでしかあなたの心は救われないのです。もしあなたが仏に救いを求めるのなら、他に選択肢はないのです。

【あとがき】法華経の成立は釈迦の死後500年ほど後のことであり、主な初期仏典がまとめられた二回の結集よりもずっと後で、仏教は上座部(小乗)と大乗に分裂し激しく対立していました。人間釈迦の生前の教えは初期仏典を読むと完全に上座部(小乗)寄りであり、生前の釈迦は偶像崇拝も陀羅尼のような呪術的なことも禁じていました。ですから法華経が実際に歴史上存在した人間釈迦による直接の教えではないことは明らかです。「大乗は仏教にあらず(大乗非仏説)」と言われるゆえんです。

私は突然に天の声を聞くようになり、数々の奇跡によって法華経に導かれたのでよくわかりますが、法華経は間違いなく天界・精神世界にいる諸仏による真理の教えであり、霊感が強く敬虔な修行者の宗教的体験(憑依・自動書記・チャネリングなど)を通して書かれたものであると確信しています。その修行者たちは無我の境地に達していて、編集にあたって自分の名を残そうなどとは考えなかったのでしょう。

法華経は精神世界で起きている話ですから、現実世界の常識で言えば荒唐無稽としか思えない話です。だから法華経を理屈(読解力)で理解しようとしても無駄です。法華経自体に書いてある通り、信心によってのみしか理解できないものなのです。

法華経は万人成仏を説いた尊い法ですが、親鸞の悪人の「悪人正機(悪人こそが極楽に往生しうる者であるという教え)」が誤解されて積極的に悪事を重ねる「本願ぼこり」が起きたように「誰でも成仏できるのなら別に覚りを求めて生きる必要はない」などと誤解する人が出て来かねません。だから釈迦は「真に菩提心を起こし不退転の覚悟を持った者にしかこの経を説いてはいけない」というように言ったのでしょう。

法華経は諸経の王と言われますが、それは法華経だけを学べばOKという話ではなく、他の経が法華経の伏線のようになっているので、法華経を深く学ぶためには他の経も学ばなければならないのです。法華経の素晴らしさが何となくでも理解出来たら、是非他の経も学んでみて下さい。

序文に書いた通り、法華経には真理そのものが書かれているのではなく、真理に至る心構え・ヒントを与えることで真理に導いてくれているのです。真理そのものを他人から教えられては人生経験に意味がなくなり、生まれて来た甲斐がありません。真理に至る自分だけの道を模索するところに人生の意味があるのです。個性の完成・芸術・冒険のために生まれてきた我々の心は、他人と異なる答えを見つけようとする本能が与えられているために、真理を直接に他人から教えられると心が反発して自ら真理より遠ざかってしまうのです。だから法華経は真理そのものは語られず、本人が人生を通じて独力で真理に気づいていけるように実に巧妙に書かれているのですね。そして真理に至るとどれだけの功徳があるかを示して、困難に立ち向かう勇気を与え励ましてくれているのです。ヒント・ガイドではない本当の法華経(真理・答え)はあなたの仏性の中にこそあり、あなたは自分の人生を通じてその真理を自分の言葉・生き方でこの世界に現していけるように、この法華経との出会いを通じて導かれているのです。

法華経の現代語訳の全文はこちらで読めます。 加藤康成さんのサイト
 ※法華三部経である無量義経と仏説観普賢菩薩行法経も全文読めます。
非常に参考にさせていただいた法華経の要約はこちらです。 A cup of coffee 

画像はほぼすべて無断転載です。大変申し訳ございません。法華経普及のため完全無報酬でやっておりますので、どうぞご容赦下さい。報告があれば即削除します。

【主な画像引用元】
天野喜孝さん「法華経画」(トップ画像)
大日蓮出版(子供向けの絵本)
MEISEI(霊友会・漫画で読む法華経)
マンガ原子仏典 えん坊&ぼーさん
松本光華さん(各品ごとに出版されています)
宮本忠夫さん(ほとけさまの七つのたとえ話集)

【おすすめ動画】
NHK100分で名著 法華経
日蓮宗 大乗山法音寺公式Youtubeチャンネル

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ShinyaSalvador
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