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エスノグラファーという言葉に紐づく感覚

近頃、エスノグラファー(Ethnographer)という言葉を、たびたび耳にするようになった。今日は、その言葉に紐づく感覚を、ただ列挙してみるnote。

まず、Webを検索してみると…

”エスノグラフィー(ethnography)は、ギリシア語のethnos(民族)、graphein(記述)から来た英語で、「民族誌、民族誌学」と訳されています。”

https://www.kaonavi.jp/dictionary/ethnography/ より引用

とある。


そして、近頃、僕の中で違和感を帯びているチェンジ・エージェントという言葉の感覚と織り合わせてみると…

 ethnographyを欠くチェンジ・エージェントは、存在を分断し、出現する可能性を、特定の誰かの何かの都合の良い牢獄に閉じ込めてしまう。


多と一の境界から照らしてみると…

『現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない 。現実の形は物と物との相互関係と考えられる 、相働くことによって出来た結果と考えられる 。しかし物が働くということは 、物が自己自身を否定することでなければならない 、物というものがなくなって行くことでなければならない 。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは 、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない 。例えば 、物が空間において相働くということは 、物が空間的ということでなければならない 。その極 、物理的空間という如きものを考えれば 、物力は空間的なるものの変化とも考えられる 。しかし物が何処までも全体的一の部分として考えられるということは 、働く物というものがなくなることであり 、世界が静止的となることであり 、現実というものがなくなることである 。現実の世界は何処までも多の一でなければならない 、個物と個物との相互限定の世界でなければならない 。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである 。』
#絶対矛盾的自己同一 #西田幾多郎
#RoyBhaskar #DialecticalCriticalRealism


もう五年以上探求しつづけている”絶対愛”という感覚…

「…善をも否定し、悪をも否定して、然る後、その善を善とし、その悪を悪とするのである。而も絶対愛の立場からは、善も悪もそのままにして、何れも愛自体の中に摂取して捨てない…」
〜鈴木大拙全集八巻


エスノグラファー(Ethnographer)という記号を、一旦、僕自身の身体性に翻訳してみるなら…

 観察される機会を待っている『集合的な生命』、『あはひ』、『現前』、…と共感・共存しつつ、これらを描写するプロセスを通して多元な存在を歓迎し、さらなる可能性が出現されるスペースを調えるヒト。

 生命の海のなかから、『微細な身体性』、『多元な間主観性』、『超越性と内在性とを自在に往来するプレゼンス』を引き出して、多彩な生命と対話するヒト。

まだ、イマイチだけど、これが今日のベストかな…。
もう少しコネコネしてねかしてみよう。

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