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ナイフより花束を。憎しみではなく愛を。[前編]

生まれつき、耳が聞こえなかった。
ずっと自分の耳が嫌だった。
今でもなれるものなら普通になりたいと思う。

自分の人生が不幸だとは決して思わない。
特に、中学校は楽しかった。
友達はみんな優しく、俺と一緒に馬鹿をしてくれる気のいい奴らばかりだった。
周りと違うということを、気にしなくてもいい環境で生きてこられた。
あいつらには、今でも感謝している。

I never had any friends on like the ones
I had when I was twelve.
Jezas, does anyone...

映画「スタンド・バイ・ミー」より


当時はとても頭が悪かった。
成績は159人中159位のドベ。
先生が何を言っているのか、全く分からなかった。

そのため、テストの成績は散々だった。
だが、そんな状況を笑いに変えていた。
馬鹿な俺をみんなが笑うことが幸せだった。
「見ろ、社会の成績が12点だぜ。お前らには取れないだろ。」
テストの成績が悪いことは、俺にとっては勲章だったんだ。


そんな勲章が、家では恥に変わった。
父はよく俺を殴った。
テストの結果が返ってくると、父は必ず早く帰ってきて、何度も何度も俺を殴りながら、
「なぜお前はこんなに頭が悪いんだ」と怒鳴りつけた。
1時間も殴ったら父は飲みに出かけた。

父はいわゆる転勤族で、俺が小さい頃はずっと家にいなかった。
転勤が終わって帰ってきても、夜の2時まで毎日飲み歩いているような人だった。
父がいつまで転勤をしていたのか、今でも思い出せない。
家にいないのが当たり前だった。
だからたまに家で父に会うと、強い違和感を覚えた。自分のパーソナルスペースを侵害されているように感じた。

俺はそんな父が大嫌いだった。

何度も包丁で刺そうと思った。
窓から飛び降りようと思った。

死んだら少しでもあいつに迷惑がかけられると思った。


あいつが死ぬか俺が死ぬか。
そんな戦いだった。

結局死ぬ勇気もなく、大学生になった。
九州の田舎で育った俺は、家を抜け出したくて東京の大学を選んだ。

尾崎豊が好きだった。
尾崎が青山学院高等部だったという理由だけで、
青学に進学することにした。
そんな理由でと笑われるかもしれないが、逃げ場のなかった当時の俺にとって、尾崎は救いだったんだ。

毎日通った通学路。尾崎も通ったこの道。


しかし、大学生活は暇だった。
コロナ禍で友達もできず、授業はほとんどリモートだった。
その後しばらくして、対面での授業が再開されるようになっても、つまらない日々は相変わらず続いた。
サークルも部活も、どこもやっていなかった。
対面になっても中々友達はできず、俺が一日で発する言葉は「ありがとうございます。」と、「レジ袋大丈夫です。」しかなかった。

俺の思い描いた大学生活はこんなものじゃない。
からっぽの毎日に色を付けられない日々が苦しかった。

そんな日々が2ヶ月ほど経った頃。
たまたまTwitterで「青山学院」を調べていた時、一つのツイートを見つけた。
帰ろうと思って正門を出たタイミングだったことをよく覚えている。

「手話サークル対面活動再開」


「手話か……」
手話が嫌いだった。
「耳が聞こえない人はみんな手話を使う」という先入観に身を投じたくなかった。
俺は普通の学校で生きてきたんだ。
他の聴覚障がい者とは違うんだ。

「俺を勝手にその他大勢と同じくくりに入れるんじゃねえ。」
そんなプライドを持っていた。


だが、このまま帰っても何も変わらない。
時計を見る。時刻は17時。
暇つぶしにはなるかと思った。
俺は「街路樹」を一時停止すると正門を引き返し、17号館に向かった。

青学のマップ。17号館は正門を出て左にある。


続く

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