『正欲』の欲は、そんなに受け入れ難いだろうか?#ネタバレあり
『正欲』
朝井リョウさん著
オーディオブックで、
読ませて(聴かせて?)いただきました。
読み終えて、最初に思ったことは
「よかった」
自分が隠したくて仕方ない、
誰とも分かり合えないと思っていたその欲望を
分かり合える人と出会えた
しかもその相手と一緒に住めるくらい、お互い経済的に自立していて、一定の清潔感もあって、気遣いもできる同士の2人だった。
そんな偶然重なる?
ってくらいの、奇跡の連続。
そんな、
めちゃくちゃハッピーエンドな話だった
「出逢えて、よかったね」
心からそう思った。
だから、チラリと見た書評・コメントなどで
バッドエンドだったと書いてあって衝撃を受けた。
同じ本を読んでも、
その人の立場・価値観・誰に共感するかによって、
全然違う感想になる。
。。
だから、面白い。
その上で、私はいくつか疑問に思ったことがあるので、ここに呟こうと思う
まず、登場人物たちの性欲って、そんなに世間から疎外感を感じるほど、受け入れられないものだろうか?
性欲のことを話すって、
そもそも、誰だって後ろめたい。
誰かとわかり合おうとか、少なくとも私は、そんなに思わない。
そして、他人の性癖がどうだとか、
結構どうでもいい。
もし、仮に、私の身近にそういう特殊な性癖をもっている人がいたとして、、
リアルに、身近なあの人がもしもそうだと想像して。。
うん。
別に、「そうなんだ!まあ私にはわからないけど!」
という程度。
好きな食べ物が違うくらいの感じ。
だから、登場人物たちが、
あまりにも「自分達はこの世界にいてはいけない存在だ」みたいに、自分達を卑屈に捻じ曲げて捉えているように思えて、
そこには違和感があった。
また、
小学生YouTuberには、水を使った動画を撮ってもらうのが目的で視聴していた、というところ。
これも、
「いや、ホースから水を遠くに飛ばす動画とか。。自分でできるよね」
ということで、わざわざ彼らにリクエストしているところに違和感が残った。
(実際小説の中でも、後半は自分達で動画を撮り出すわけだが)
これらの違和感から、著者が本当に伝えたかったことって何なのだろう、ともう一度考え、妄想してみた。
本当は、
主人公たちの性癖は、水じゃなくて小児・児童だったのではないか?
水への性癖の描写を、そのように小児・児童だと入れ替えると、
違和感がなくなる。
筋が通る。
小児性愛者であれば、
たしかに今の世界では認められないだろう。
なぜなら、そこには被害者が生まれるから。
だけど、小児児童たちに興奮してしまうのは、彼らの本能である。
だから、「自分達はこの世界にいてはいけない存在」だと考えるならば、
納得する。
「多様性」は、定義な曖昧な言葉であるけれど。
少なくとも、他人に危害を加えない範囲での、多様性を認めるべきだと思う。
だから、
性欲の対象が「水」なことは、
なんら問題ない。
しかし、
小児児童となると、
認められない。
それは、小児児童たちに何らかの傷をあたえ、
彼らの未来の多様性を奪うことになるからである。
『正欲』
とても、とても、
面白かったです。
朝井リョウさん、
ありがとうございました。
今日も、空を見上げて。
Sorami