【恋愛小説】緋色に堕ちた婚約者 第10話 〜spark〜
《初めての方はコチラから》
[約3,900字]
聴こえるはずのない音、針が時を刻む音。チクタクチクタク、私に決断を迫ってくる。目の前には青ざめた婚約者、その隣には不思議そうに笑みを浮かべる彼の恋人。そしてそんな二人に囲まれた、無力な私――。
「あっ、いた!レティシア嬢!」
もう少しで深淵に堕ちてしまう。そんな私を颯爽と救い上げてくれたのは、その場に不釣り合いな呑気な声だった。けれど心崩れる寸前だった私にとっては神様の声。大泣きしていた私の心を取り戻してくれた。
「……ジャスミン様……」
息を切らせながら私の隣に並んだのは、シャンパングラスを両手に一つずつ持って額に汗を浮かべるジャスミン様だった。きっと急いで駆けつけてくれただろうに、まるで何ともないような顔をされている。彼は私とエルウィン様の関係を何も知らないはずなのに。詳細を知らずとも自然に手を差し伸べてくれるジャスミン様。彼の親切心に触れた私はそれだけで胸が熱くなった。
「焦ったー。なんか変な雰囲気の人達がいるなーと思ったらレティシア嬢がいるんだもん。もう心配したじゃんか」
「ご、ごめんなさい……」
少しだけムスッとした顔を見せたけれど、それは冗談だったようだ。私が謝罪をするとすぐにいつものニカッとした笑顔に変え、ジャスミン様はグラスの一つを私に渡してくれた。……何だか不思議。彼の笑顔にも、この透き通ったシャンパンにも、妙に安心感を抱いてしまう。何とも言えない温かい気持ちから、グラスを持つ手にキュッと力が入った。すると不意に、私の安寧を脅かす戸惑いの声が傍から聞こえてきた。
「……どういう……こと……?」
あっ……、お昼前にも耳にした、エルウィン様の低音。けれど、私が想像していた彼の反応とは何だか違う。どうしてそんなに怖い声を出されるの?今はそんな状況だったかしら?驚いた私がエルウィン様の方を見ると、真っ青から一変、彼はあからさまに怪訝な表情を浮かべていた。――もしかして、私にも親しくしている殿方がいたからかしら?恋人の存在を隠していたのが自分だけではないと勘違いして怒りを?……けれどそれにしては、表情の意味がどこか違う……ような……。
「お二人共アカデミーでは見ない顔ですが、もしかして新入生かしら?」
「はい、そうです」
「あら、可愛らしいカップルね。ご覧になって、エルウィン様。衣装の色をお互いの瞳の色に合わせるだなんて。それだけでお二人の相思相愛ぶりが窺えるわ。本当に微笑ましい」
「――え?」
緋色の女性に指摘されてはじめてその事実に気づき、私の顔は一気に真っ赤に染まった。私の瞳の色は焦茶色、彼のタキシードは濃いめの茶色。彼の瞳の色は緋色、私のドレスの色は鮮やかな赤色。確かに傍から見れば私とジャスミン様は恋人同士に見えるのかもしれない。私にはそんなつもりは全くなかったのに。これではエルウィン様のことをとやかく言えないわね。おかげで今は何となくエルウィン様の顔を見ることを躊躇ってしまう。
「あっ、そう言えばまだ名乗っておりませんでした。申し訳ございません。私はレティシア・プライムと申します」
「お初にお目にかかります、先輩方。ジャスミン・スワネルです」
「レティシア嬢とジャスミン様ですね。私は三年生のアメリア・デンバーと申します」
新入生二人に対しても丁寧に会釈をしてくださるアメリア嬢。こんな淑やかな方がエルウィン様の見初められた方。同じ貴族の令嬢なのに、私とは雲泥の差。こんな素敵な方を相手に――私が勝てるはずがない。
「ところで、私の知人にスワネル伯爵家の方がいらっしゃるのですが、もしかして……?」
「グレゴリー・スワネルでしたら私の兄になります」
「やっぱり!お兄様のグレゴリー様とは友人として親しくさせて頂いているのですよ。そうでしたか、貴方が彼の弟君。これから楽しみですわ。ねぇ、エルウィン様?」
アメリア嬢はエルウィン様だけではなく、ジャスミン様のお兄様とも交流があったのね。エルウィン様に同意を求めるアメリア嬢を見つめながら世間の狭さを痛感している私だったけれど、ふと目の前でアメリア嬢の顔が曇り始めた。一体どうされたのだろうか。不思議に思った私が彼女の視線を追うと、それよりも早く誰かが私との距離を詰めてきた。
「レティ――」
揺れるシャンパン。私の頬には熱い吐息、私の左手首にはゴツゴツとした指の感触。私を硬い胸板に引き寄せて囲おうとする者――エルウィン様だ。エルウィン様に手を取られた私は、そこでようやく彼の表情に気がついた。いつの間にか彼の表面は怪訝よりも険しさが増していた。けれどどうして?なぜ私ではなく、貴方の方が苦しそうな顔をしているの?
そんな疑問も束の間。左手首に感じた彼の温もりは、すぐに別の彼によって取り除かれてしまった。
「申し訳ございません、先輩。女性の肌に許可なく触れるのはどうかと……」
すぐ隣からの助け舟。ジャスミン様が私をエルウィン様から取り戻してくれたのだ。トドメにエルウィン様を窘める彼の鋭い一言。後輩からの一撃に、さすがのエルウィン様も表情に動揺の色が。確かに社交界では、殿方が不用意に淑女の肌に触れることはタブーとされている。それでも王立アカデミーの先輩であるエルウィン様に、入学一日目のジャスミン様が物申すことは例外中の例外。アメリア嬢もこの展開に目を見張っている。
――どうしよう。この流れはジャスミン様にとってよろしくない。最初の騒ぎでは気にも留めなかった学生達が、先程の一喝で興味を持ち始めてしまった。ざわめき出した周囲、遠慮なく向けてくる好奇の目。まだ小さなものだけれど、すぐに大きな騒ぎへと発展するはず。ここはジャスミン様と一緒に会場を後にするべきかもしれない。そう思考を巡らす私を無視して、怯まないエルウィン様が尚も迫ってきた。
「だけど彼女はっ――」
そこでエルウィン様の動きがピタリと止まった。何かあったのか、不動のまま目を大きく見開いている。呆然と空虚を見つめ、折り曲げた右手人差し指をゆっくりと鼻先へ。一体どうされたのかしら。困惑は私達だけではなく、周囲にも伝播していった。するとエルウィン様の瞳がこちらに向いた。目が合った途端、ドクンと飛び跳ねた私の心臓。
表面からは色が消え、まるで絶望を見たかのように蒼白で、瞳から光が失われた彼の表情。それはきっと、私がエルウィン様の恋を知ってしまった時と同じ顔――。
周囲の空気が変わった。――いいえ、違う。私達の空気が変わった。周りの音は何も入ってこない。まるで世界には私とエルウィン様だけのよう。ドクンドクンと早鐘が聴こえてくる。これは私?それともエルウィン様?小刻みに震える唇で象られていく彼の言葉。けれどそこに音はない。残念ながら彼が何と言ったのか、唇の動きだけでは私には分からなかった。
「エ、エルウィン様?どうされたのですか?」
それまで傍観者に徹していたアメリア嬢の急な懸念で、私達二人だけの世界はあっという間に消え去った。半分狼狽えながらも彼を心配そうに見つめる彼女、その姿にズキッと痛む私の心。……そうだわ。エルウィン様にはアメリア嬢がいる。もうこれ以上、彼には深入りしない方がいい――。
「レティシア嬢、顔色が悪いよ。一旦ここから離れよう。申し訳ございません、先輩方。今日のところはここで失礼させていただいてもよろしいですか?」
「えっ、ええ。その方が良さそうですね」
ジャスミン様とアメリア嬢のやり取りが遠くに聴こえる。有り難いことに、ジャスミン様は私をここから連れ出してくださるようだ。今は素直に甘えたい。ころころと移ろいゆく感情の起伏で、私の心はもう疲れ果てていた。
「さぁ、行こう。レティシア嬢、お手を――」
早くジャスミン様の手を取ってここから離れたい。私に差し出されたジャスミン様の右手。私は何の迷いもなく取ろうとした。
「――失礼。彼女は僕が会場の外へお連れします」
私とジャスミン様の間に割って入って来た者。ジャスミン様の代わりに私の左手を取って私を支える者。
「え……?」
顔を上げると、そこにいたのはエルウィン様だった。
「なぜ先輩が――?」
「今夜は歓迎舞踏会、新入生のための夜会だ。君達二人が出ていく必要はない。彼女の介抱は僕が引き受けよう」
「でも――!」
「アメリア嬢。すまないが僕はこのまま抜けることにする。グレゴリーが戻ってきたらそう伝えておいてくれ」
「え、ええ……」
――たったそれだけで周囲が変わった。この時の私は、我ながら愚かだと自覚しながらも、エルウィン様の一部始終を呆けた顔で眺めていた。あれだけざわめいていた周囲が、エルウィン様の毅然とした行動一つで解決へと向かっていった。好奇の目を向けていた者達は、エルウィン様の新入生を気遣う様子で興味を失くしたようだ。今はもう、変に騒ぎ立てようとする者はいない。周囲の学生達は口を揃えて「ブラームス様が仰るなら」と言い、次なる楽しみを求めて舞踏会へと戻っていった。
私が未だ戸惑いの中で彷徨っていると、持っていたシャンパングラスをエルウィン様に取り上げられてしまった。そのままエルウィン様は私のシャンパングラスをジャスミン様へ。ピクリと眉が動いたジャスミン様は何か言いたげな顔。それでも最終的には黙って受け取ってくれた。
「それでは参りましょうか?」
あっ……少しだけ他人行儀な言葉遣い。アメリア嬢の前だから?――それでもいい。私の右手には今、久しぶりのエルウィン様の温もりがあるから……。
「……はい」
ジャスミン様、ごめんなさい。先に気遣ってくれたのはジャスミン様だったのに。貴方の助けが本当に嬉しかったのに。――それなのに私は、エルウィン様の意識が今私に向いていることを、心底喜んでしまっている。