栗とモンブランと高杉晋作
まだ無名だった頃の高杉晋作
その一人旅をなぞったら 目頭が熱くなった
茨城県 笠間市
笠間市
は「栗の生産日本一」だそうだ
年配者の自分には 少し信じがたい 昔は栗なんて 剥いてあれば食べるけど そうでなきゃ めんどくさくて食べなかった
たいした 食べ物ではなかったのだ いや ほんと 子どもは見向きもしなかったと言っていい(産地だったからなのか)
時代は変わるもの 今や「笠間の栗」「笠間のモンブラン」などは知名度が上がり 休日ともなれば 首都圏ナンバーの車も多く訪れる
確かに昔よりも甘く おいしくなった気はするが・・・
シーズン中の休日ともなれば 道の駅などには行列である 某テレビ番組の影響が大きいか?
高杉晋作 満21歳 剣術と文学修行「試撃行」の旅
儒学者 加藤有隣(桜老)
笠間二日目 早朝に加藤有隣を訪ねる
当時 加藤有隣(桜老)は50歳 親子ほどに年齢の離れた二人だが
高杉が 即興で詩をつくって披露すると有隣は大いに喜んだという
加藤有隣は 若い高杉と意気投合 大いに語り合い 夕刻に高杉が辞すのを引き留め 夕飯ごちそうした 高杉は深夜になって宿に戻ることになる
そして 借りてきた有隣の詩文稿を徹夜で読む
次の朝 顔を洗い 食事をとって お別れの挨拶に行く
そこでまた 楼に招き入れられ 今度は昼食までごちそうになるのだ
すさまじいまでのお気に入りっぷりで 出発は昼過ぎになったと思われる
高杉晋作が 笠間で目にしたもの
笠間入りした直後の高杉の日記を引用すると
「・・・木々の間から城の白壁が見えた」
めずらしく 高杉が目にしたものが記されていてうれしい
この白壁の建物は 今は真浄寺というお寺の 観音堂となっている
解説文によると 山から解体せずに下したとされている
ちょっと信じがたい
笠間城の建物で現存しているのはこれだけだそうだ
おそらく高杉は 宍戸方面から 国道355号線沿いの旧道を歩いてきたと思われるので 見えたかもしれない 可能性はあるということで・・・
笠間稲荷神社
笠間稲荷神社も有名だが 日記「試撃行」には参詣したことは記されていない
拝殿の後ろには 荘厳な本殿がある (意外と知られていない)
この本殿は,上棟式が1860年(万延元年)9月18日とされており 高杉晋作は9月2~4日に滞在しているので 骨組みが出来上がった状態を見たかもしれない
かなり歴史を感じさせる建物だが それだけの時間が流れたのだと思わされてしまう
大イチョウ(笠間小学校)
樹齢350年といわれるイチョウ
このイチョウは 目に入ったことだろう アッパレです これからもお元気で
高杉晋作が泊った宿
これは残念ながら日記には記されていない
ある小説では「宍戸屋」となっていたりする
残念 宿が現存でもしていたら「高杉も泊った宿」としては最高だったと思う
笠間稲荷近くにあるこの雰囲気のある建物はかつて有名な旅館だった
夕刻になると 釣灯篭に灯りがともり まさに江戸時代の雰囲気
震災で被災して営業を終了し,リニューアルして現在の姿になっている
このあたりが大町地区で宿も多かったと思われる
「笠間の晋作ロード」
笠間で高杉晋作が目にしたものは残念ながらほとんどない
時習館跡(笠間小学校)の前の道路は 国道355号線であるが
高杉は府中(石岡)から来ているので 笠間入りでここを通り
宿から十三山書楼に行くときに通り
夜中に宿に帰るときに通り
次の朝 お別れの挨拶に行った時に通った
4回も通っているってすごくないですか? モンブランでもほおばりながらぜひ思いをはせてほしい
なので この通りは「笠間の晋作ロード」といえるだろう
石切山脈を通って 桜川市へ
最近 モンブランで評判の U-Aモンブランcafe の前の道路は石切山脈とよばれる
加藤有隣の元を辞した高杉は この道を通って桜川市の大泉に向かったと考えられる
車がすれ違うのも大変な道路だが 加藤有隣との面会で気分が爆上がりの高杉なので 意気揚々と次の目的地を目指したのではないか
モンブランをほおばりながら 160年前 まだ無名だった若者に思いをはせてみてはいかがでしょうか
すべては 『高杉晋作の「革命日記」』に教わった
「幕末の風雲児」なのに 朝には顔を洗う
「幕末の風雲児」なのに お父さんと家の庭掃除をする
意外な人柄に 読後 あっけにとられた ギャップ萌えっていうのかな
日記の現代語訳がわかりやすい
この記事のネタ本です
日本人の高杉晋作像を変える まさに革命的な本
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