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感情の動くもの

大袈裟な表現を使うと大抵は失敗する。例えば、この理論は何にでも当てはまるなどというと、そんなことはないとすぐにわかってしまう。いい理論はできるだけ範囲を狭く構える。してみると、大理論と呼ばれるものは無理があることがわかる。市場の理論というもの、つまりアダム・スミスがいい出したあの理論も、応用した時点で間違いであるということができる。経済学は、現在では勢いがなくなっているが、やはり現実に応用するにはまだまだちゃんと育ってはいなかったのだった。そう考えていくと、それを政治に使っていこうとしていたことがあまりにも無謀だったことがわかる。私はいい経済学生ではなかったけれども、経済学が現実に使えるものではないというその勘だけは当たっていたわけだ。

だからここでは、できるだけ話を狭めていこう。しかしながらある程度の抽象性は必要だ。そうでないと伝わらないだろう。私は何について書きたいのか。それは知識をまとめる方法についてだ。私は考えるのが苦手だ。そしてそれを表現するのはもっと苦手だ。いま考えていることは、どうすれば私の中にある知識をまとめ、そして表現できるかである。記憶はよくいわれるように何かをきっかけに引き出されるようになっている。だから、きっかけをこちらでつくってやれば知識を引き出せるのではないか。こうしてnoteで記事を書いているのもそのためだ。本を読むのも本来的にはそのためである。しかし知識を引き出すまでいけないことが多いので、ただの作業になってしまう。いま本から離れたいと思っているのもそのためかもしれない。

であるから、こんな状態で私は本当は何をしたいのか考えてみよう。その中で知識を引き出し、まとめ、表現しよう。今日の私は通院のために出かける予定になっている。そして天気は曇りときどき雨と予報されている。だから私は傘を持って行こうと思っている。傘は雨が体に当たることを防ぐ道具で、一般に雨具といわれている。しかし雨を完全に当たらなくすることはできない。頭部、肩辺りを防げればいいものである。例えば、雨具にはカッパや長靴などもある。それらは一長一短であり、私は傘を選んでいる。それには日本人の考えの特徴や、傘が風がない限り便利だというのがある。ところで、私は病院への行き方を覚えている。もう何度も行っているからだ。しかし当たり前のことながら、それからわきにそれた道を私はあまり知らない。

私は何をしたいのかだった。私は哲学者のように難しい問題に挑みたいわけでも、経済学者のように経済を解き明かしたいわけでもない。かといって、身体的快楽がほしいわけでもない。私とはなんとも複雑だ。これを単純化して考えるなら、感情が動くことをしたい、驚きたいのかもしれない。驚きはいろいろなものを取り入れるのには大事な感情である。ところで、感情が動くにはどうすればいいのだろう。例えば、映画を観るとか、小説を読むとかはそのためだろう。情報収集のためともいえるが、それは副次的な効果でしかない。しかし本はいま読みたくない。もっと簡単に感情が動くものはないだろうか。

散歩が、そういう目的にはいいとされる。しかしそれも感性がないといけない。そうでないと退屈してしまうだろう。とはいえ、散歩する中でつながりを見つけるのはいいかもしれない。すべてはつながっているという思想こそ、人類が発見した退屈しない、知識を最大限に活かす方法であった。もし人、道行く人につながりを見出せるのであれば、小説家にでもなれたかもしれない。ビルの構造につながりを見出せれば、建築家にでもなれたかもしれない。私は高尚なそうしたものを見つけようとしていろいろ歩いて、大したものを見つけられなかった人である。だから才能はなく、凡人なのである。

私は凡人から脱したいというよりも、天才の退屈しない精神がうらやましいのだ。天才は小さいことからどんどん自分で発展できる。絵画の天才は小さい点、ちょっとした線から、偉大な絵画をつくり上げる。哲学の天才は、ちょっとした思いつきから壮大な理論をつくり上げる。私も何か作りたいが、何もできる気がしない。

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