究極の独座
2015大晦日@カトマンドゥ
天真体道の稽古をひたすらに続けていると、とても深い記憶やら己の条件付けがボコボコと表面に浮かんでくる。
数年、十年、百年、数千年と人類が正しいとか間違いとか価値観として堆積して築いてきたことである。 両親、祖父母、先生、師匠、社会、科学、宗教、伝統文化などから刷り込まれてきたことである。
そういう人類の世界観とか伝統価値観として受け入れてきた“当たり前”が泡芥となり始めて、 それが起こり始めると世界は不確かな宙ぶらりんとなり心情的には苦しくて怖くて、 時には”絶望感”に襲われ逃げだしたい衝動に襲われることもあるのだろう。
だから不意にベテラン稽古人でさえもまさかまさかで突然辞める。 もっともな言い分けとかカッコエー言い訳を携えて、、、
とにかく、それでもそれでも稽古をただただ毎日毎日続けるのみであろう。
稽古を続ける中でのみ“柵”は徹底に破壊されて崩壊していくと思われるからである。
“個”の真の解き放ちである。
それは究極の個人的な超体験であり、師でも父母でも誰もが助けようも関わり様も無い。 当然に、究極の独りにならないと何も始まらないし起こらない。
稽古の世界ではあたりまえもおろかなことだが、 それは「死をみつめるという」限定条件と共にあると思われる。
最後には、ただ独りぼっちとなり暗闇の奈落の底へ堕ち続けていく戦慄へと向かうというが、 もしそんな自身の存在やら世界存立の根源からおびやかされる“究極の死”に出会ってもひたすら向かい合い続けることなのだろう。
毎瞬毎瞬あるいは幾日も幾日も“死”と共に独りでジッーとあり続けるのみである。 そして、思う存分に仮幻としての世界を“阿呆”として戯れていくのみである。