" 世界はなぜ存在しないのか " 感想
著者は、存在論について主に唯物論的物理学者とポストモダンの相対主義(著者は構築主義と呼んでいる)の両者の立場を批判し、新しい存在論を主張している。
物理学者による「この世には物質的なものしか存在しないないしはすべて物質の運動に還元できる」とする主張に対して、ウィトゲンシュタインらを援用しながら、「事実」が存在することによって反論している。問題は構築主義者の主張だろう。「事実は存在しない、あるのは解釈のみ」とする構築主義者たちの主張は、一定の説得力があり、また解釈と事実(もしくは単に実在)の違いはどこにあるのか、事実が存在するとき、それを解釈と違うと主張することにどんな意味があるのか、私には納得しきれないところがあった。少なくとも私には著者の構築主義者への反論が物足りず納得しきれないといった感じである。もちろん、構築主義の主張がおかしいことだけは同意できる。構築主義はつきつめれば、この世には真と呼べるような命題は存在しないことになるのである。例えばセンシティブな話ではあるが、「ナチスはユダヤ人を迫害し、ホロコーストを行った」という事実かどうか問えるはずの命題であっても、「「行った/行ってない」という主張は解釈の一つに過ぎないよね」となるのである。これは明らかにおかしい。今私がこのブログを書いているという確実に思える真なる命題でも、書いてるか書いてないかはある人(わたしでもあなたでも)による解釈の結果であると主張するのが構築主義なのである。現代においてポストモダン的言説(ポスト構造主義など)は大きな力を持っており、他方量子力学をはじめとした強力な研究成果を持つ物理学的世界観も大きな力を持っている。もちろん宗教的世界観の影響も無視できない。こうした世界観に基づく存在論に異を唱え、新しい存在論を打ち立てようとしているのが著者であり、私はこの取り組みに賛同する。