学生寮物語
2 中年実業家
安岡は入寮したときから個性的というか、少し変わっていた。
なんとなく場馴れしていて、誰とでも仲良くなれる特技を持っていた。それが図々しいというか無遠慮というか、地球の中心にはいつも彼がいた。
彼は60'sに流行ったアイビールックがよく似あったシティボーイだった。だから(付き合う前の!?)女の子にはもてた。
そんな彼は大学を卒業してから、なぜか二学年上の翔たちの同窓会に律儀に顔を出した。翔がさすが実業家をめざしている男だけに情報には敏感だなと感心していたら、実際は奥さん同士が連絡を取り合っていただけだった。
同窓会では相変わらず年下とは思えない傍若無人な振る舞いで浴びるほど酒を飲んで帰った。そして寮生時代のあのいい加減で、明朗で、能天気で、楽観的な雰囲気を残していった。彼はどうしてか翔たちの世代には無遠慮に甘えてくる、どうにも憎めない存在だった。
安岡は寮長を務めていたときから口だけは達者だった。翔も金城もあまりお喋りではなかったので、彼のその饒舌さにはただただ舌を巻いた。
寮の定期総会(1年間の反省会)でも、彼の寮長挨拶は立て板に水だった。だがよく聞いてみると、適当にお喋りをしているのではなく、先の展望をもとに、今すべきことは何かをきちんと語っていた。目標達成も5割いくかどうか怪しいときでも、彼が話すと必ず達成できるかのような錯覚を抱かせた。
安岡は社会に出てから何年もかけてパソコンスクールを立ち上げた。1998年のことである。大学は1979年に卒業していた。だから実に20年近くかけていろいろな準備と研鑽を積んで、青年(中年)実業家として起業した。41歳、きっといろいろ失敗もあっただろうがそれにめげないのも彼らしかった。
彼が卒業した1979年は東芝が初めてワープロを出荷した年だ。ワープロを持っていると「ワーッ、プロ!」というくだらないしゃれが流行っていた時期に、安岡はすでに次世代のパソコンに注目をしていた。
さらにパソコンのユーザーといえば誰もが若者を想起するであろう。だが安岡はパソコンを使いこなすのに苦労する可能性のある中・高年、そして将来を担う小・中学生に目を向けていた。
内閣府経済社会総合研究所「統計のページ」を見ると、安岡が起業した1998年はワープロがピークだった。しかし翌年から下降し始めるようすがグラフから読み取れる。
脇見をせずにワープロだけを叩き続けてきたおじさんたちはいよいよワープロだけでは済まない時代の到来を悟り、不安を抱き始めていた。そしてパソコンという時代の寵児を前に挑戦することをやめた者は、やがて自分の無力さに絶望していく。
一方パソコンは90年代中盤からグイグイ売り上げを伸ばし始め、やがて2000年にワープロを凌駕している。安岡はこのことを見越していたのだ。
翔(かける)はその先見の明に感心していた。しかし3か月前にお見舞いに行ってからは、彼の命の灯がだんだんと小さくなりいつか消えていく気がして辛い気分を抱えていた。そしてそんなはずがないという気持ちと交錯していた。
50歳半ばになると身近な人たちの訃報が、まるで30代の結婚式の招待状のように次々と自分のもとに届く。今までの彼なら、とくに何の感慨もなしに、ひとつの事実として受け入れていたはずだった。
だが今度の訃報は違った。まるで自分の体の骨を一本失ったような喪失感を抱いた。それは翔にとっても意外なことだった。
たった二年間だけ、寮で一緒に生活しただけの後輩なのに、どうしてなのか自分でも不思議だった。
3 入寮宣言
翔には忘れられない出来事があった。
5月の連休を目前にした3か月ほど前に、金城から翔(かける)に電話があったときのことだった。
「安岡な、癌が食道からあちこちに転移して、良くないらしいねん。だからな、今度の連休始めの土曜日に寮生みんなで励ましに行かへんかて、話おうていたんや」
みんなというのは晩酌の気まぐれに金城が電話する寮やサークルの仲間のことだった。
翔は安岡の容態があまり良くないと理解できたがすぐに同意はしなかった。その日は部活の重要な練習試合を組んでいたからだ。
5月に入り、翔は夏の中体連に向けて、チームの最後の強化に努めている最中だった。
「土曜日の練習試合の監督は頼めないけど、日曜なら練習だけだから誰かに頼んで行くよ」
と返事をした。それが自分では精一杯の決断だと思った。
同じく大阪の中学で美術を教え、女子バレー部の顧問をしていた金城にとっても大事な時期であることは分かっている。
「そうか、分かった」
金城は低い声でそれだけ答えた。
「他の寮生への連絡はどうする」
「ワシがするけど、東京方面の寮生への連絡は松永、頼むわ」
「分かった。せっかく誘ってくれたのに、一緒に行けなくて悪かった。みんなとは別になるけど、翌日に行くよ」
と言ったものの、翔は迷っていた。寮生のみんなと安岡が顔を揃えるのはこれが最期かも知れないと考えると夜も眠れなかった。
翔は教員になってから20年以上も野球部の顧問を務めていた。その間、地区大会や県大会で優勝したり、全国大会にも出場したりしていた。そのため簡単に負けられないというプライドもあった。
勝てば官軍、負ければ賊軍、結果がすべてだと思っていた。だから自分が監督をして、県大会に出場するのは当然だとさえ思っていた。
土曜日の練習試合には静岡県東部地区の強豪校が集まっていた。翔はこれを今年の中体連での成績を占う試金石として位置づけていた。
今年のチームは県大会に行けるかどうか微妙な位置にいた。県大会に出場できるのは、地区からは2チームだけだった。去年の新人戦では3位がやっとだった。
だからどうしても自分が采配を振い、チームの戦力を見極め、中体連での戦術や今後の方針を決めたかった。
もともと翔は人間関係が不得手であった。
彼の生まれは北海道阿寒町のY炭坑があった場所だった。
小学校時代は毎年恒例で、「まじめでおとなしい子です。もう少しはきはきするといいでしょう」と通知表に書かれていた。
友達の間を器用に行き来したり、自分の意見をいったりすることができない子どもだった。
中学に入って、大好きだった野球部に入った。
連日行われた説教という名の先輩のいびりがあっても、彼は野球部に残った。それほど野球が好きだった。でも2年になって残ったのは二人だけだった。
残った一人はピッチャーでサウスポーだった。体が大きく、球も速かった。さすがの先輩も自分より大きい彼をいびれなかった。もう一人が翔で、通知表の通り「まじめ」が取り柄の彼はいびりの対象にはならなかった。そしてキャッチャーとなり、キャプテンも務めた。
そんな彼が地区大会で逆転のランニングホームランを打ってY中学校は優勝した。だが翌年、炭鉱が閉山となり、Y中学校も廃校になった。そして彼の家族は今の静岡に来た。
中学時代の思い出は、彼につまようじの先ぐらいのほんの少しの自信を与えた。だが彼の世界は家族とその周辺だけだった。野球部でもチームワークよりは試合に勝つ方法を学習した。
だから彼はいまだに人間関係が煩わしく感じるときがある。冠婚葬祭などの慣習にも無知で、消極的に参加した。よく知らない人のお通夜などは、どんな態度で人間の生死に関わればいいのかよく分からなかった。
彼は大学の合格通知を受け取ったとき、入寮を希望すると家族に告げた。みんなが驚いた。甘えん坊で大人しい弟が、寮生活ができるか心配した。でも誰もその理由は聞かなかった。末の弟が家の経済状態を心配して、費用が安く済むように選んだことを察していた。
だが翔自身は「入寮宣言」をしてから、寂しい冬の夜のとばりが下りるように、心がだんだんと不安と孤独な気持ちに覆われていった。
どんな大学生がいるのだろう。
他人と同じ部屋で暮らせるのだろうか、家族でもないのに。
「変な人」はいないだろうか。
疑問と不安が阿寒湖の「ぼっけ沼」のガスや泥のように次々と湧いた。
入寮して、先輩方が優しいのに驚き、安心した。中学時代の部活の思い出から、先輩というものはみんなが優しくはないのだということを知っていたからだ。
だが翔の不安の一つだった「変な人」はあちこちにいた。それはとてもユニークで個性的で、人間性にあふれていた。そして自分に正直に生きることの大切さを彼に教えた。
翔にとって寮での経験は、忘れられない青春時代の思い出というだけではなかった。本音で人と繋がることができた人生で唯一の時間だった。未熟な者たちがお互いに支え合って、必死に生きていた貴重な時代だった。
四年間も大学の寮で集団生活を送れたことに、翔自身がいちばん驚いていた。
そんな彼が大切な後輩のお見舞いを後回しにするのはやはり間違っているとはっきり思った。自分のことに固執している自分がとても恥ずかしかった。
4 スッパマン
金城から見舞いの誘いを断った翌日だった。
翔は6時間目の授業を終え、上下を黒のジャージに着替えた。授業は3年生の国語だった。みんなが帰りの会をしている間にグランドに出て、ダイヤモンドを整備した。
部活の準備は基本的に昼休みに、部員たちが行う。主に1、2年生が交代で準備するのだが、ダイヤモンドのライン引きが新入生のときは、翔が部活動前に引き直すことが多い。
顧問が多少神経質とはいえ、引かれた白線はたこ足配線のように二重、三重に引き直され、見ていると目まいがしそうだった。ラインを引き直し、小石や葉っぱなど拾って、ボールがイレギュラーして怪我をしないように安全に注意する。
翔は校舎の教室の窓を眺め、そこから視線をずらし、ふと初夏の空を見上げた。
踏まれたチューブから慌てて飛び出した白い絵の具のように、勢いのある筋雲が水色を背景に駆け抜けていた。北の空では富士が薄い靄に包まれて錫色を身にまとっていた。すぐ手前には濃緑色を蓄えた憩いの森という小さな公園が見えた。公園に見える陰影は今年の盛夏と木陰の不気味さを醸し出していた。
翔は校舎を見ながら生徒が教室から来るのを待った。部員たちは顧問が睨んでいるのかと思い、教室を飛び出し、グランド西側にある部室へ走って更衣に向かった。
ランニング、ストレッチ、ダッシュ、キャッチボールまで終えるとノックやバッティングの練習に入る。途中からバッテリーは別メニューで練習に取り組む。
翔はノックに入る前に、部員たちをホームベース近くに集めた。
「今度の練習試合は中体連前の大事な試合だ。その結果が中体連を決めるといってもいい」
断定的に言うことで、生徒たちにはより真実に聞こえる。翔はこうしてみんなの気持ちを引き締めた。
「だが先生は個人的な用事で、みんなを引率できない」
生徒の不安な表情がそこかしこに浮かぶ。
「でもチームワークさえしっかりしていれば地区大会は突破できる」
翔は、チームワークというものは個々人の義務と責任を果たしてこそ成り立つと考えていた。ひとつのエラーも他者のバックアップがなければさらに最悪な状況をもたらす。だから互いにカバーし合うのがチームワークだと翔は考えていた。
翔の檄に生徒は顔をあげ、身を乗り出し、目を見開いて次の言葉を待っていた。
「試合はひとつの結果だ。大切なのはそれまでの取り組みだ。試合なんてグランドに立つ前に始まっているんだ。だから結果は考えるな!」
三年生は真剣な表情で、頷いて聞いていた。下級生はなんとなく頷いている。そこに意識の差が感じられた。
練習試合の采配は初任者の副顧問に一任することを伝えた。副顧問にはバントと盗塁のサインだけ伝えた。
副顧問は女性で、中学時代は軟式テニス部だった。だが部活が終わるといつもノックの練習をしていた。今度の練習試合が初めてお披露目となる。どうなるかちょっと見てみたい気がした。
「仲間か……」
松永は自分が生徒に使った言葉に何ともいえない郷愁を感じた。
部活を終えて、はやる気持ちをおさえて、金城に電話した。
「何度も悪いんだけど、やっぱり俺もみんなと見舞いにいくよ」
「やっぱりそういうと思うとった」
金城の声は明るかった。その反応に翔はなぜかほっとした。金城は始めからきっとこの返事を待っていたのだ。翔は金城にすまないと思った。
だがすぐに金城の電話のトーンが落ちた。
「じつはわしら鈴子から電話もらってて、先月、見舞いに行ってきてんねん。だからわずかひと月で、だいぶ悪うなってるらしいねん。心配や」
「若いからがんの進行が速いのかな」
「そうかもしれへんわ」
「じゃあ俺は大村と高山たちを誘ってみるよ」
「頼むわ。ほな」
金城は安岡が食道癌だと妻のさやかから聞いた時、すぐに入院先に飛んでいっていた。
金城という名前から分かるように、彼の父は沖縄出身だった。母親が大阪出身で、漁協の組合長をしていた父が退職した後、大阪に移り住んだ。彼の父は十年ほど前に亡くなり、さらに五年ほど前に母も亡くなっていた。
金城自身も沖縄の人のような特徴がある。彫りが深く、眉も睫毛も長く、漆黒の瞳をしていた。バレーボールと少林寺拳法で鍛えた体つきは肩幅が広く、いかにもスポーツマンという体形だ。
そしてこのオッチャンは自分のことは棚に上げ、寮生のピンチには必ずどこにでも現れるスーパーマンでもあった。「金城」(きんじょう)という苗字を「人情」(にんじょう)と置き換えてもいいとさえ思う。
父親譲りなのか、沖縄人の情の深さなのか、大阪人のお節介なのか、他人の不幸を放っておけない男なのである。だから安岡の元にもすぐに飛んで行った。
スーパーマンのようにさっさと問題は解決してくれないけれど、困った寮生がいればその近くに現れ、みんなを勇気づける。たぶん「あられちゃん」の「スッパマン」ぐらいの役には立っている。
翔自身は金城からの電話で初めて安岡の病気のことを知った。金城のネットワークは高く広い。翔はいつも卒寮生の情報を大阪の金城ラジオ局から得ていた。
5 ポンコツラガーマン
安岡の見舞いのことは妻のさくらに電話で連絡しておいた。さくらはK町の役場で相談員として働いていた。土、日は仕事が休みなので、二人は一緒に行くことができた。
金城に見舞いに行くことを連絡した日の夕食のとき、翔は自分と同学年の卒寮生何人かに連絡したことをさくらに伝えた。
そうしたらみんなすぐ「行く」といっていたと話した。さくらも当然のような態度で聞いていた。翔は自分がためらったことは恥ずかしくて話さなかった。
さくらも自分が連絡が取れる寮生には連絡をしたといった。
翔も大村に連絡したら、安岡が病気だったのは知っていた。東京にいる後輩たちから聞いていたらしい、と伝えた。その後、
「実は大村とは不思議な縁があるんだ」
と話した。するとさくらは、
「なに、なに?」
と聞きたそうにした。だから翔は食後のコーヒーを飲みながら、30年以上も前のことを思い返しながら、とつとつと話し出した。
自分たちが大学を受験したのは今から35年も前の1972年の2月だった。前の年の1月24日にグアム島で横井正一さんが発見され、日本中が大騒ぎをしていたのを覚えている。
どこかの誰かが、「ヨッコイショ…ういち」と悲しいギャグを飛ばしていた。横井さんにとっては二十八年ぶりの終戦だったのに。ほんとうに僕たちは『戦争を知らない子どもたち』になったのだと実感させられた。
大学入試の時、奇遇にも二人は隣同士の席だった。推薦入試という気楽さもあったのだろう。二人は初対面にもかかわらず、旧知の仲のようにいろいろ話した。
試験が終わった後、大村は受験の緊張を和らげるような優しい顔つきで話しかけてきた。
「どっから来たの」
「静岡から」
とおれは答えた。
「俺は山梨」
「割と近くだね」
「合格したらどうする? 自宅から通うの?」
大村が訊ねた。
おれは合格という言葉を聞いただけで、胸がドキドキした。そして自分の不安な胸中を語った。
「できたら寮に入りたいと思っているんだけど、集団生活したことないから不安で……」
本当は合格後のことまで考える余裕なんてなかった。ところが大村が、
「その集団生活が楽しいらしいぜ。俺も入寮を希望しているんだけど、山梨なんて近いから入れないかもしれない」
といった。
「集団生活が楽しい?」おれは始め何を言っているのかよく分からなかった。だが山梨が近いなら、静岡も。
「そうなの? だったら俺もやばいかな」
と不安そうにいった。
合格よりも入寮できるかどうかを問題にできる立場にないのに、勝手に不安になった昔の自分を笑った。
そして大村が話す内容に驚愕した。
「実はうちの兄貴はこの大学の寮の卒業生なんだ」
「エッ! 本当?」
寮生活に不安を抱いていた俺は思いがけず大村に椅子を向けた。
「家で寮の話をいろいろ兄貴から聞いていたらすごく興味が湧いてきて、それでこの大学を選んだ」
「へえー、そうなんだ」
そのときおれは目を丸くした。
これといった目的もなく、何となくこの大学を選んだ自分にとって、大村の語る明確な志望理由は新鮮で、おおいに自分を勇気づけてくれた。
大村には二つ上の兄貴がいて、自分の目標とする人だった。彼の兄は寮の活動でも、自治会がなくなってしまった大学での活動でも先進的に取り組み、みんなに信頼されていた。だから大村は兄と同じ大学に入り、兄と同じ寮で生活をするのが夢だった。
兄が弁士となり、実家で弟に熱く語る寮での生活の様子やエピソードの数々は、活動写真「大村兄の青春」の代名詞だった。その活劇に弟の自分も出演したかったのだろう。
もちろん大村は1年生のときから入寮希望だったがすぐに入れず、二年から入寮してきた。
どうしてそうだったのか、よく分からなかった。たしかにおれが1年生のとき寮は満室だった。だから単に空きがなかっただけだろう。おれも大村が早く入ってくればいいのにと願っていた。
4月に学内で出会ったとき、大村はしょんぼりして、
「4月に寮に入れなかった。これって、兄の影響かもしれない。わりあい有名だったみたいだから」
といった。
だからおれは、
「それはないんじゃない。高校の担任が『自由教育をめざす小さな実験校』で、管理教育に盾突いてるみたいで、この学校はなかなかおもしろいぞ、っていってたよ」
「どういうこと」
「だから学生の自主性や主体性を簡単に摘むようなことはしないってことさ」
自分が思いついたことを話し、慰めようとした。
「そうかな……」
高山が少しほっとした顔をしたのがわかった。
この大学には自治会がなかった。自治会と名がつくものは「A大学学生寮自治会」だけだった。大学自治会は数年前に消滅したらしい。理由も、経過も知らない。ただ自主的な自治会を再建しようと運動している学生たちがいた。
大村が寮に入れなかった本当の理由は誰にもわからなかった。家の経済状況か、通学距離か、兄のせいか、単に運が悪かっただけなのか。
大村自身には素行の悪さは微塵もなかった。何か超然としていた。ピュアといってもいいかもしれない。彼には似合わない言葉だが。
いつも紙と鉛筆を握ってマンガやイラストを描いていた(漫画とイラストの違いはよく分からなかったが)。授業中にも講義内容を、マンガやイラストでノートにまとめていた。自分はそれを横から眺めているのが講義を聴いているよりも楽しかった。
だが大学でたまに彼に会うと、いつも絆創膏か包帯が体のあちこちに貼られたり、巻かれたりしていた。鼻の軟骨が曲がっていたり、肩の鎖骨が折れていたり、常に擦り傷、切り傷、たんこぶなどが絶えなかった。
彼はプロレスラーや柔術家ではない。ましてや自分をいじめる性癖があったわけではない。単にポンコツなラガーマンだった。
A大学ラグビー部は「ゆるく、たのしく、真剣に」をモットーに活動していた。大村は体は大きくはないが活動的だった。マンガやイラストを描く人間はどこかに引きこもっているという世間の偏見を見事に掃破していた。
まじめにラグビーにも取り組んでいた。彼はいつもまともに正面から突っ込みぶっ壊れた。ただ少々壊れやすくもあった。
彼は山梨にあるお寺の次男坊として生まれた。だから邪念も打算もなく、ただひたすら正直に相手チームの巨漢に突っ込んでいったのかもしれない。
ここまで話すと妻が、
「何宗?」
と聞いた。
「宗派? エッ、そんなこと考えたこともなかったけど」
すると妻は
「身延山だから、日蓮宗かな」
といった。
国語を教えている翔は宗派などというものは考えたこともなかった。さくらは社会の教員免許も持っている。社会の先生はそこが気になるのか。妻に軽く突っ込まれ戸惑った。
大村はこのときから大学を卒業したら、イラストレーターか絵本作家になりたいと言っていた。夢を語る大村の穏やかなその表情は、どこかの山奥に棲む仙人が、青年に化けて下界に降りてきたようだった。
憧れの上の兄が大村家の跡継ぎで、現在は高校の社会の先生をしていた。たった一人の兄のことを大村は嬉しそうに話した。
翔は4人も兄弟がいたのに、なぜか何も話さなかった。
6 おいどん
「正午に名古屋駅の改札口付近で会おう」
というみんなとの約束だったので、翔(かける)と妻のさくらは八時頃三島駅に向かった。かなり早い時間だったが、二人とも家に居ても落ち着かなかったからだった。
千葉から来る大村は大学を卒業した後、希望していた通り出版社に勤め、新聞や雑誌に、やはりイラストを描いていた。その後十年ぐらいして独立し、元の出版社に近い千代田区にあるぼろビルの一室を借りて仕事をしていた。
交通の便や仕事関係の出版社があるというだけでなく、近くに本屋や学校などが多いのも職業上のメリットだった。だが出版業界が不況で、現在は仕事で知り合った関係者や元寮生の紹介で、何とか仕事を得ていた。
横浜からは高山忠次がやってくる。彼は小学校の教員だが熱血漢だった。それは入寮してきたときからだった。
彼は長崎で生まれ、高校は甲子園常連の長崎K高校に進んだ。母子家庭だったので、早く自立して母親を楽にしてあげたいといつもいっていた。
闘志の塊みたいな男で、160cmちょっとの身長しかなかったが、サードのポジションに食らいついていった。大阪や東京の名門チームから来たのではなく、地元の長崎から甲子園に挑戦した。だがその前に選手層が分厚い集団の中で、レギュラーを勝ち取らなければならなかった。
レギュラーになれたのかどうか、誰も彼に聞かなかったが名門校で鍛えてきた野球部員としてのプライドだけは捨てていなかった。
彼の経歴は翔のようなまじめだけが取り柄の人間には想像できない世界だった。だから初めに高山を見たとき、体は大きくないが声がやたらでかくて、なんて存在感があるのだろうと思った。
荒波にあがいて、己の存在を見失わず、どんなときでも前を向いて倒れていくような力強さを感じた。翔には闘志の塊が服を着て歩いているような圧倒的な存在感があった。
忖度などという言葉を知らず、何度倒れても起き上がる火の玉小僧は、酔っぱらうと自分のことを、
「おいは……、おいは……」
と話すので、いつのまにかみんなに「おいどん」と呼ばれるようになった。
寮の組織は多くはない。運営委員会、食堂委員会、文化局の三つだ。
おおざっぱに分けると、寮の運動方針と実行、点検が運営委員会。食堂における寮生の関わりや食堂で働くおばちゃんたちとのコミュニケーション、寮生の平日の朝・晩の食を扱うのが食堂委員会。寮生の文化全般、つまり精神面でのケアを行うのが文化局だ。文化局といっても運営委員会の事務方ではない独立した組織である。よく分からないが寮の中ではそれぞれきちんと位置付けられていた。
そのうちの食堂委員会の火の玉小僧がおいどんこと高山忠次だった。その活躍ぶりはまるで食堂委員会のために生まれてきたかのようだった。朝食を摂らない寮生に、苦虫をつぶしたような顔をしていた食堂のおばちゃんたちは、食堂に来たおいどんを見つけると破顔するのである。そして愚痴や不満をぶつけ、雷雨を生んだ。その嵐が去ると清々しい顔をして食堂の片付けを始める。しだいに寮生は目を細めて、おいどんをたのもしく見るようになっていった。
おいどんは小さいころから女手一つで育ててくれた母親に感謝していた。だからその愛情に応えようと頑張ってきた。親の愛情はわが子の健康が第一である。健康のために朝食を摂るのは当たり前だった。なのに、なのに、なぜ朝食を食べに来ない。汚れのない心のおいどんの方がフード・カルチャーショックを受けていた。
おいどんが長崎K高校野球部にいたのは伊達ではなった。あまりに男子寮の朝食摂取率が低下したため彼はついに行動を起こした。
朝、階段ダッシュで「朝食を摂りましょう」と寮生に呼びかけを始めた。女子寮はしっかりと朝食を摂っていた。
ちなみに寮には男子48人、女子24人がいた。
男子寮の1階には玄関、食堂、会議室とお風呂があった。4つのコンクリートのロゴブロックを重ねたみたいな4階建てだった。1フロア―には16人おり、4人部屋が2つ、2人部屋が4つ、例えば2階なら201号室と206号室が4人部屋、202号室から205号室は2人部屋になっていた。
女子寮は1フロアー8人で4人部屋が1つ、2人部屋が2つあった。翔は女子寮に入ったことがないのでそれ以上のことは知らなかった。
部屋割りは1年生から4年生まで先輩と後輩が組む形で行われていた。といっても空きがなければ入れない。中には大学5年生、いや6年生、もしかして……。といわれている寮生もいたので毎年入寮できる数はきんと決まっていなかった。
また先輩といえども入室してくる後輩を選ぶことはできない。誰がどうやって決めるのか、入寮の可否と同じで誰もよく知らなかった。大学当局から各々に通知が送られてくるだけだった。謎である。
7 小さな恋のメロディ
翔夫婦は三島から新幹線で行ったので、名古屋には二時間弱で到着した。早く着いた彼らは改札付近のベンチに座ってみんなを待った。
次々と寮生が集まってきた。先輩たちの集団も、後輩たちの集団も、どこかに集合していたのか塊で現れ、総勢二十人近くの寮生の塊りができた。
「おお、久しぶり」
「元気だった」
あちこちで挨拶をする声が聞こえた。しかし挨拶の声はすぐにやみ、寮生たちは一つの集団となって、すぐに病院に向かった。
N病院は駅から近かったので、すぐに到着できた。玄関には安岡の妻鈴子がいた。鈴子は文学部で翔の後輩になる。寡黙で、達筆で、酒に強かった。昔風にいえば大和撫子のようにみえる。だが自己主張がきちんとできる骨のある女性だった。
彼女は見舞いの人数が多すぎて、病室には入れないと告げた。このまま帰らなければいけないのか、順番に病室に訪れるのか。いったいどうなるのだろうと思っていたら、元寮生たちは1階のロビーに移動するようにいわれた。
この病院には集団で見舞いができる広い広いロビーが1階にあった。そこには丸や四角のテーブルと椅子が置かれ、雑誌や本、テレビなどもあった。採光が考慮され、外の景色もよく見える窓の大きなオープンスペースだった。
「さすがN病院。市民のことが分かっていらっしゃる」と誰かがおどけていった。みんなどんな顔をして安岡に会おうか考えていたので、少しその緊張が解けた。
安岡の同級生が彼を迎えに連絡口に向かった。
しばらくして、四階から降りてきたエレベーターの正面のドアがスッと開いた。そこには安岡と彼の介護のために戻った鈴子がいた。
エレベーターボックスの中で一息ついたようなタイミングで、二人が出てきた。彼らも始め緊張した顔つきだったが寮生の顔を見渡し、すぐに笑顔に変わった。その表情には、なんともいえない安堵感が浮かんでいた。それを見た元寮生たちの顔もほころんだ。
翔は安岡と会うのは10年ぶりだった。
そのとき翔は夫婦で京都・大阪の観光旅行をしていた。子どもたちがもう独立していたからである。その途中で大阪の金城の家に寄ったらたまたま高田という後輩がいた。高田の娘が絵画の勉強をしたいといったので、高田がよく知る(他に知らなかったのかもしれないが)金城幸夫に連絡した。
金城画伯は大学で芸術学部に所属しており、日本画を描き、研究していた。翔もそういえばそうだったなあ、と思い出した。
人情画伯は二つ返事でOKした。それから高田の娘が金城宅で数泊して芸術を学んで帰った。そのお礼に高田は石川県の金沢からわざわざ金城家に訪れていたのだ。高田は律儀な男だった。
そのとき、みんなの思いつきで「金沢で蟹食べようツアー」が企画立案され、臨時に行われた金城宅ミニ寮生大会(参加者5人)で承認された。金城は高田の少林寺拳法の大先輩でもあり、絶対的存在だった。だからこのツアーの失敗は許されないと思ったのか、当日、高田は自分の相棒として、仲が良かった安岡を連れていった。無口と饒舌、少林寺と大風呂敷、松永はいい選択をしたなと納得した。
それ以来の再会であった。
久しぶりに会った安岡は右手に何種類かの薬剤の袋をぶらさげたスタンドを握り、左手で小さな黒いバックの取っ手を掴み、大事そうに小脇に抱えていた。
鈴子は傍に付き添いながら、車いすの後ろに置かれた酸素ボンベを外れないように片手で押さえながら、器用に車椅子を押していた。わが子が初めてお使いに出るような心配と不安と体裁の作り笑いが入り混じった複雑な表情をしていた。
二人はみんなに見せたかったのだろう。持てるだけものを精一杯持って階下に移動してきたように見えた。それほど待ちわびていたのだ。翔は涙をこらえ、できるだけ明るく振舞おうとしていた。
翔が寮にいるころ、付き合い始めた安岡と鈴子はいつも他愛のない喧嘩ばかりしていた。
安岡が亀のように動きが鈍い鈴子を、
「どんくさいおんな」
と馬鹿にし、負けず嫌いの鈴子も口だけの安岡を、
「おおちゃくやろう」
と言い返していた。
二人の文句はみごとに相手の的の中心を射抜いていた。その時から、まるで何十年も連れ添った円熟した夫婦みたいだったし、小さい頃からの幼馴染みたいなかわいらしさもあった。
ただ卒寮してからは安岡のことで、鈴子がさやかに自分の悩みを頻繁に相談していたと翔は金城から聞いていた。何度も離婚の危機を乗り越えたらしいとよ、妻のさくらからも聞いた。そんな二人が支え合いながら歩いてきた姿に翔の胸は一杯になった。
8 四次元ポケット
休日であったが病院内は見舞い客が少なく、広々とロビーを使うことができた。ただ、一人の老人が昼食のパンをかじりながら、満足そうに漫画を読んでいる光景が目に入った。しかも大きなテーブルのど真ん中を占領していた。きっとロビーを独り占めして気分が良かったのかもしれない。いつも混雑しているN病院では、「どえりゃー気分えーぎゃ」状態だったのかもしれない。
老人は安岡を見舞う会の一行が来ても真ん中の席を移動しようとしなかった。(人生経験豊かなんだから、空気読めよ)と翔は思った。すぐにたくさんの見舞い客の視線に気づいたが逆に頑なになった。
老人は視線を浴びれば浴びるほど意固地になっていくようだった。仙人のような大村が優しく説得を試みたが無駄だった。他人に席は譲ってもらっても、自分からは決して他人に席を譲らない人なのだろう。それでも鈴子が見舞いに来てくれたみんなを気遣って、移動してもらうように再びその老人を説得したが案の定動かない。もごもごと老人が何かをいっていたがみんなよく分からなかった。なんで俺が動かなきゃならないのだ、という不平不満が顔つきや態度にあふれ出ていた。
「すみませんでしたね」
と説得をあきらめた鈴子は謝った。
学童保育に携わっている彼女は幼児をいたわるように話をしていた。見舞い客たちはその場の雰囲気を壊さないように静かに場所を変えた。老人はその後も血走った目で菓子パンを食べ続けていた。たぶん味わうこともなく。
ただ翔にはその老人の姿が自分と重なる気がした。だんだんと周りの人の心遣いが見えなくなっていくのだろうか。心遣いに感謝していくか、それを見失って意固地になっていきていくか、大きな違いだと思った。彼は「クリスマスキャロル」の「スクルージ」を思い出した。
入退院を繰り返し、抗がん剤の影響もあって、安岡はすっかり痩せ細っていた。頭には黒のニット帽が乗っていたが、帽子の縁からはすっかり弾力性を失い、わずかに残った髪の毛が顔をのぞかせていた。白い皮膚は全ての青い血管が透き通って見えるかのようだった。
見舞客に再会の挨拶をした安岡は、痩せた頬を少し緩ませ、左手に大切そうに抱えていた黒いあまり大きくないバックの中から、まるでマジシャンのように何やら次々と取り出し、テーブルの上に並べていた。
彼が重い思いをして運んできたもの、それは何か。今からなにが始まるのか、みんな注視した。安岡が黒いバックから、ドラえもんが四次元ポケットから何かを取り出すように、ブックレットと古い新聞を取り出した。そしてそれを彼の同級生たちが大きいテーブルに恭しく並べていった。まるで犯罪現場の重大な証拠物件を順番にならべていくみたいに。
その真剣な作業を横目で見ながら安岡が話し始めた。
「毎日、鈴子以外にも、なぎさの娘が看病に来てくれている。それで俺の身の回りのことはとても助かっている」
「なぎさの娘って?」
翔は初めて聞いたことなので、聞き返した。すると鈴子が説明した。
「松永さんの一学年下に北川なぎささんがいたでしょ。彼女がお医者さんと結婚して、今名古屋に住んでいるの。それで安岡のことを相談したの。そしたら病院を紹介してくれたり、娘さんが私たちの近くの医大に通っているからといって手伝いに寄こしてくれたり……。その娘の瞳ちゃんがときどき病院に来てくれているの」
鈴子は大学時代と同じように、今でも夫を名字で呼んでいるのか、変わんないなーと翔が思っていたら、
「へー、そうなんや。それはごっつう助かるなあ」
と金城が相槌を打ちながらいった。おいどんも、
「それはよかったじゃん」
と長崎弁ではなく、横浜のジャン言葉を使った。二人とも他人の思いやりにまで敏感だった。
「そうなの。なぎささんは一つ年上の先輩なのに、とても熱心に世話をしてくれて、私も精神的に救われているの」
と鈴子がいった。
大村は黙ってみんなの話を聞いていた。翔はその理由を知っていた。学生時代、大村はなぎさに好意を抱いていたからだ。
突然、安岡が叫ぶ。
「ちょびっと俺の話を聞けや! もう!」
話題の中心から自分がいなくなるとすぐに人の話を遮る。これが彼のいつもの調子だ。松永はちょっとうれしくなった。
9 どらごえ
「俺は自分が病気になってから周囲の人に助けられて感謝しているで、ほんと。でも、今の俺の心を支えているのが、この数冊の本と寮時代に作ったぼっさい歌集『どらごえ』。それにみんながこさえてくれたぼっさい新聞の『安岡と鈴子の結婚を祝う会』だがや」
ぼっさいとは名古屋弁で古臭いことを言う。
安岡は胸中を語りながら、そこに置かれた祝う会の号外新聞『安岡孝明と姫川鈴子の結婚を祝う会』をロビーの長テーブルに大事そうに広げた。
ぼっさい歌集もその横に丁寧に並べられた。元寮生たちはテーブルに近づき、懐かしそうに歌集をめくったり、祝う会の新聞記事を読んだりしていた。
「どらごえ」、何と懐かしい響きだろうと翔(かける)は思った。元の歌集はかつて翔と金城たちが文化局にいたとき、五百曲以上も歌を収めて作った本格的な歌集だった。丁寧にギターコードもついている。歌集にコードがない場合、松永と金城が実際にギターで伴奏して、コードをつけた。
とても根気のいる作業だったが文化局のみんな(男女各3名)と歌を歌いながら、ロウが染み込んだ原紙に鉄筆で文字を書き、謄写版で手や顔を黒く汚しながら一冊一冊心を込めて作成した。この時はみんな手にタコを作りながら、何日も徹夜で作業した。
そしてこの歌集は何回も作り直されて、ついに「どらごえ」という名前までついたのだった。
どうして「どらごえ」という名称になったか安岡と金城が交代でみんなに話してくれたが、二人の話より歌集の最後に載っている編集後記を読んだ方が分かりやすかった。
それは第16期文化局(1975年ー昭和50年)が付けた。だが、どうやらそこには金城と安岡の醜い名付け親争いがあったらしい。
シチュエーションは1975年のある寒くも熱くもない夜のことである(季節は不明)。薄汚れた白いロゴブロックを、4段に積み重ねたようなコンクリート製のおんぼろ学生寮の1階にある会議室でのことである。男子玄関の左側にある8畳ぐらいの狭い部屋で、男女各3人が活動するため集まっていた。床は灰色のリノリュウム、壁の色はベージュだった。ここからは「どらごえ」編集後記からの抜粋である。
〇
安岡「この力作歌集のタイトルはどうするかのう? キン
ちゃん」
金城「エゴラドってのはどうかいのう?」
文化局員Aみ(女子)「エゴラド?」
文化局員Bみ(女子)「なにそれ?」
文化局員C雄(男子)「でも、おフランスぽくって意外と
いいかも」
安岡「でも意味がようわからん、キンちゃん」
金城「エゴラドを逆さに読んでみてみ」
文化局員D子(女子)「エゴラド……ド・ラ・ゴ・エ……ど
らごえ! キャーすてき!!」
文化局員Aみ・Bみ「すてき!」
文化局員C雄「きんじょうさん、意外とナイスセンス!」
金城(……本当は中学校時代のコーラス部の名前のパクリや
けど今さらいわんとこ)
安岡「エゴラドなあー(文化局長の面目を保ちたい!)。
別に逆読みせんでも、そのままどらごえでいいんでねー
の」
文化局員C雄「それもそうか。寮生はどらごえばっかしだ
し。俺以外は」
みんな「……」
文化局員Aみ・Bみ・C子「そうね。そうよ。そうだね
ー。『どらごえ』がいいわー。ワイワイガヤガヤ」
安岡「(よーし俺のペースになってなってきたゾ!)じ
ゃ、歌集のタイトルは『どらごえ』でいくか! キンち
ゃんどや?」
金城「(ちょっと悔しいけどエゴラドの真相をいわないで
すむしな)『どらごえ』でええわ」
安岡「うおーっしゃー! 満場一致で『どらごえ』に決
定!」
全員「バンザイ! バンザイ! バンザーイ!!」
気がつくと窓の外は明るくなって、間もなく全員眠りにつきました。
〇
という具合で一晩もかけて、相手の腹を探り合い、陰謀を巡らしなら寮の歌集は「どらごえ」と名付けられた。
名前の由来を披露した後も、安岡は「どらごえ」の話を続けた。周囲が静かになっているので、ふと振り返るとあのスクルージ老人の姿は消えていた。
「歌集は今でもときどき開いて、昔を懐かしんだり、見舞いに来た寮生と看護師に隠れて、屋上に行って歌ったりしておるんや」
やつれた顔に少し少年のような悪戯っぽい目の輝きが宿った。
「そして、こっちにある数冊の本は病気の本ではなく、病院の本だがや」
急にまじめな顔つきで話した。
安岡は重ねてあった数冊の本の中から二、三冊を掲げて見せた。
「えっへん。よう聞いとけよ」
この偉そうな態度はますます安岡やんとみんな思った。
10 生死を賭した闘い
「ガンとの闘いは病気との闘いもあるけれど、自分の納得のいく治療をしてくれる病院を探し、自分が信頼できる医者と一緒に闘える環境を作ることなんや」
安岡は自分が話した言葉の意味を、急に改まったような態度で、みんなに説明し出した。
自分が今入院しているN病院や医者の評価はああだ、こうだと説明した。自分の命が関わっているだけに、その説明は具体的で詳細でなにより真剣だった。
癌が治るか治らないかとか、どんな治療法があるのか、といった説明をするのだろうと予想していた翔は安岡の意外な説明に驚いた。
だが翔の本当の驚きは、今まさに安岡が生死を賭して癌を相手に闘いを挑もうとしていることだった。そしてどんな巨大な相手にさえ、彼が決して怯んでいないことだった。
たしかに原因や治療法は専門家である医者の方が詳しいに決まっている。大切なのは治療法やその見通しを誠実に、分かるように説明してくれる医者の存在と最善の治療を施すための施設や設備がある病院なのだ。
冷静に考えれば確かにそうだ。だが死を目前にして人はこれほど冷静でいられるだろうか。
寮長を務め、情勢報告や寮費闘争についての基調報告をしていた大学生の頃の青臭い安岡と明らかに違っていた。自分の身をもって、病魔との今後の闘いについて、こんなに客観的に自分の置かれている立場を自覚し、分析できるものなのか。見舞い客たちは驚きと尊敬の念を持って、安岡の話をじっと聞いていた。きっといろいろ苦悩し、模索して、自分の歩む道を選んできたのだろう。
安岡の話は三十分か、一時間か、よく覚えていない。時間を忘れさせてくれた。彼の話は同じ病気で闘っている患者にもきっと勇気を与えるだろうと翔は思った。
安岡は最後に翔や大村、金城、おいどんに向かって話した。
「まっちゃん(安岡は松永をこう呼んだ)もタバコやめな、あかんで。苦しゅうてかなわん。大村さんもだで。ほんまやで。金ちゃんとおいどんは吸うとらんかったな。えらい、えらい」
安岡はすっかり昔の寮生時代の青年に戻っていた。偉そうでやんちゃでいたずらっぽい目をしたシティボーイだった。
それでもあまり長時間の面会はできない、という話だったにもかかわらず長話をしたせいで、その顔には疲労の色が浮かんでいた。みんなで本人を病室に見送り、その後、安岡の家に集まった。
安岡は、せっかくみんなが来てくれるのだから、少しでもご馳走をしたい、そして寮での思い出話をしてくれれば自分の気が済むといって、酒宴の手配を鈴子となぎさにさせていた。この気配りこそ彼が憎めないところでもあった。
彼のマンションは、名古屋駅に近い七階建ての高層ビルの最上階にあった。名古屋駅にほど近く、見晴らしが良かった。松永はいつも名古屋を素通りして、京都・奈良に修学旅行の引率で行っていた。もう十回以上は素通りをしている。だから初めて見る名古屋の街の表情をマンションのベランダからじっくりと眺めた。
大都会のけばけばしさはなく落ち着いているが、鈍色の曇り空のせいか、なんとなく物悲しさを感じさせるモノトーンの都市だった。
翔は中学時代に、数少ない仲良しの同級生が北海道の小さな炭鉱町の中学校を卒業して、集団就職でこの名古屋に来ていたことを40年ぶりに思い出していた。
下世話な話だが名古屋の一等地のマンションに住み、病院の費用も大変だろうと心配していたが、安岡の同級生たちが、安岡については会社が全部面倒をみているらしいと話していた。
安岡は全国ネットのパソコンスクールを自分で起ち上げ、その会社の取締役、つまり社長を務めていた。といっても大手ではなく、中小企業をサポートするために安い授業料でパソコンスクールを開設したり、開発したソフトを廉価で販売したりしていた。
パソコン会社を立ち上げたのは松永も知っていたが、実際の経営については何も知らなかった。常々、働く人たちの立場に立って仕事がしたいと言っていた安岡は、自分の夢を自力で実現させたのだった。
家ではなぎさとその娘の瞳がいて、かいがいしく宴会の準備をしていた。鈴子は安岡の世話を終えて、遅れてやってくる予定だった。
みんなは安岡に気を遣わせて、却って申し訳なをを感じていた。だから寮生時代に戻って、みんなで酒宴の支度をした。やがて鈴子が来て、みんなで手作りの料理を堪能し始めた。
酒宴の半ばで鈴子から安岡の詳しい病状の報告があった。
実はみんながお見舞いに来ると連絡を受けて、安岡のテンションが一気に上がり、病状が一時かなり回復した。それで調子に乗って、はしゃぎ過ぎ、二、三日前に肺炎を起こし、生死を彷徨ったという。
みんな、そこはやっぱり安岡だと思った。
しかし、彼は寮生たちに会いたいという一心で奇跡の回復を遂げた。それには医者も大変驚いて、まるでドラマのようだと目を丸くして話していたと鈴子が言った。
そこまでしても安岡は寮生に再会したかったのだろう。翔は、それは彼の執念だと思った。だから今日の彼の話はみんなへの遺言状なのかもしれない。どんな相手にも決して逃げずに戦うことの尊さを、命を懸けて伝えたかったのかも知れない。
鈴子の報告が終わっても、寮生たちは誰も口を開こうとしなかった。すると金城が
「そこまでして俺たちを待っていてくれた安岡に乾杯しよう」
とみんなに声を掛けた。おいどんたちも、
「安岡の病気の快復を祈念して、かんぱーい」
と叫んだ。
鈴子のグラスが震えていた。目も潤んでいた。
めいめいが自分の周りの人間のグラスに自分のグラスの角を当てた。ガラスの高い音があちらこちらで響いた。そして安岡のこと、寮のこと、卒業した後のこと、現在の仕事のこと、家族のこと、両親のこと、持病のこと……、安岡邸でのみんなの話は尽きなかった。
11 ミイラ男
酒宴の席では、めいめいが隣同士で自分の近況や安岡のことについて語り合っていた。しばらくして金城が、
「みんな覚えてるやろ。おれらが1年生のとき、全身に包帯を巻いた怪人ミイラ男がいたこと」
昭和52年度卒業の同級生たちはすぐに誰のことか分かった。
入寮して、寮自治会や行事などのガイダンスがあった。寮生自身が生活規則や約束事、年間スケジュールなどを決めて生活しているということを初めて知った。
入寮当初は新歓パーティーがあったり、寮自治会のこれまでの歩みや施設の使い方をレクチャーされたりした。
お風呂はもちろん男女別々だった。そのガス釜は寮生がマッチで直に点火するマニュアルタイプの年代物だった。
操作の手本を運営委員会の先輩が行った。あっけなく点火できたので、みんなもその通りにできると思った。
かつて理科の授業でしつこく教科担任が繰り返していた言葉を思い出した。
「火を使う実験のときは次の五つを守ること。一つ、ガス調節ネジが閉まっていることを確認すること。二つ、次に元栓を開けること。三つ、コックを開けること。四つ、ここでマッチに点火すること。五つ、最後にガス調節ネジを徐々にゆるめて点火すること。これは命にも関わることだからテストにも出すぞ!」
ところがひと月もたたないうちに、悲劇は起きた。
夜になって慌ただしく救急車のサイレンの音が寮の玄関前に響いた。
何事かと思って翔が慌てて下に降り、玄関付近にいた2階の同級生に事情を聞いた。
突然、風呂場から爆発音が聞こえたという。慌てて同室の先輩が様子を見に行くと風呂当番の寮生がうずくまっていたらしい。だからすぐに119番に連絡したという。
どうして大爆発を起こしたのかみんなわからなかった。
全身にガス爆発を浴びた彼はすぐに救急車で病院に運ばれた。寮生は事故のことを知って彼を心配した。きっとそのまま入院するだろうと思っていたが、彼は夜遅くに帰寮した。
翌日、食堂で朝食をとっていると同室の先輩に付き添われて、寮に常備されている車いすに乗せられた彼が男子寮の扉から入室してきた。
顔とTシャツから出た両腕が包帯に覆われていた。まるで全身が包帯に覆われたミイラ男のようだった。
食堂にいたみんなは食事に来た彼を見た。はじめ心配そうに声をかけていた。だが話を聞いていくうちに火傷の範囲も程度もさほどひどくなく、かなり大げさに包帯が巻かれていることを知った。それでみんな安堵の表情を浮かべた。やがてその奇異な姿にクスクスと笑う声があちこちから聞こえてきた。
たぶん臆病な翔なら十分に気をつけたに違いない。ガスの栓を開けてから、マッチを擦るなどということは決してしないだろう。お風呂のガス釜には実験用のコックもなければガスの調節ネジもない。元栓を開ければそのままガスが放出される。だからガスの点火には十分気をつけろとレクチャーした先輩がいっていたのだ。
悲劇の主人公となった西田安俊は新潟出身で、公務員の息子だった。身なりはいつも小ぎれいで、育ちのよさが伺えた。いつもレイバンのサングラスを身につけた中流家庭のぼんぼんという感じだった。
同級生たちはそのちょっとチャラい感じを、
「ええかっこしいやなー」
と金城がいい、
「うん。いっちょすかん」
とおいどんは毛嫌いしていた。
大切に育てられた西田ぼんぼんは自分で風呂は沸かしたことがなかった。だからガスの元栓を開けるのとマッチを擦る順番はさほど重要なこととは思わなかった。彼の理科の教師もたぶん注意したであろう言葉も忘れ、「動作は素早く」と先輩が心配そうに確認したのに、ぼんぼんは優雅な動作で点火してしまった。しかも近眼だった彼はどこに点火したらいいのかを確かめるように顔を近づけていた。点火する前に西田青年の周辺ではガスが満ち始めていた。
衣類から出ていた肌がダメージを受けたが1、2度程度の火傷で済んだらしい。火元に近かった顔面がいちばんダメージを受けた。それで包帯のマスクマンになった。
ちなみにこの寮では体に障碍がある学生もない学生も一緒に生活しており、車いすは常備されている。そのせいもあってか、自然と相手に配慮するライフスタイルがみんな身についていた。障害の有無はコミュニケーションの壁にはならなかった。
新潟のミイラ男も、多少の不自由さはあったろうがその生活には何の問題もなかった。そして彼はいつ何時自分が障碍を持つかもしれない可能性知った。
周囲の寮生は彼の受けた損傷やそのいきさつについて同情するより先に冷静に、否むしろ冷淡に受け止めていた。
ただ西田については「ええかっこしい」でサングラスをつけていたのではなかった。彼の眼は紫外線に弱く直射日光を受けると重大なイメージを受ける。そのためのものだった。
それからは彼の好感度が急にアップした。ガス爆発の失敗談を少しも隠すこともなく、貴重な経験として周囲の寮生に話し、どんな質問にもあけらかんとして答えていた。何事にもあまりこだわりがなく、素直な男だった。
「やっぱりアホやなあ」
と金城がいい、
「ばってん、よかやつばい」
とおいどんが認めた。
そんな彼は卒業後、同級生に会いに日本中を巡る旅をした。それから輸入雑貨商を起業し、世界を巡る旅をしているらしい。だが現在、彼の消息を同窓生たちは誰も知らない。
12 地獄のハイキング
「ねえ、みんなでハイキングに行ったの覚えてる?」
今度は元女子寮の同級生から話が飛んできた。
「とっても楽しかったわ。でもあんとき男子寮生はたいへんだったんだよね」
「そうや。死ぬかと思ったわ」
と金城は答え、おいどんはうなずいた。
このエピソードも翔(かける)もよく覚えている。
寮の二大勢力、金城が所属する文化局とおいどんが所属する食堂委員会が執行部ともいえる運営委員会を押しのけて、初めてタッグを組んだ。それが「ランチつきハイキング」だった。
食堂委員会でおいどんが男子寮に奇襲をかけ、男子寮の朝食摂取率が向上し、驚きの成果を上げ始めていたころだった。金城たち文化局員たちも心穏やかではなく、快進撃の食堂委員会に負けじと、知恵をひねった。
まずは「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と文化局員の誰かが謳い、健全なる肉体の育成はなんてったって有酸素運動だと誰かがいって、「ランチ付きハイキング」なるスペシャルプロジェクト(特別企画)を産み出した。
朝食をろくに摂らない寮生である。このような健全なプロジェクトに直ちに賛同するわけがなかった。だから文化局員はランチ付きという「おまけ」をつけた。アメとムチ理論である。ただしその実行のためには食堂委員会の協力が必要だった。だからライバルでもあった食堂委員会としぶしぶ共催になった。
なにがしかのメリットがないと人は動かない。ましてや寮生は食べ物がないと油さえ売らなかった。
寮前の小さな森が色を濃くし、グレーの空間にくっきりと浮き立って見え始める初夏の頃だった。
食堂委員会は「食べることなら任せな」とばかりに食費から昼食代を捻出し、米を買った。おかずは地元の魚屋を値切って買ったシシャモで箱買いした。値切りは食堂委員会の特技でもあった。
ハイキング当日は休日で寮食堂も休みだったので、夜が明ける前から食堂の厨房でご飯を炊き、握り飯を作った。新潟はコメどころなのでミイラ男西田安俊も手伝った。彼はいろいろ講釈を垂れていたが、食堂員会は彼を決してガス台に近づけなかった。
食堂は朝からお祭り騒ぎだった。脂がのったカラフトシシャモは食堂中にもうもうと煙を吐いた。
ハイキングでは鎌倉へ行った。目的地やコース、所要時間やレクリェーションのプログラム、写真の撮影場所まで細かく文化局が立案した。こういう細かい作業は金城と女子寮のOL出身、吉竹凛空(りく)をおいて他にいなかった。
ミイラ男西田は写真撮影も担当した。
彼はカメラが趣味で高価なカメラを持っていた。腕も確かで、後にその技術を見込まれて全寮連(全国寮自治会総連合)の専属カメラマンにもなった。人には何かしらの取り柄があるものである。
出発前、金城の計画は完璧だった。
鎌倉駅から江ノ電に乗り換えた。寮生たちは、
「私、初めて乗った」
「海が見えるし、景色がいいね」
「いや家が近い。ぶつかる、ぶつかる」
「んなわけ、あるか」
「ヒャッホー」
などとギャーギャー騒ぎながら由比ヶ浜に向かった。
由比ガ浜の海岸ではビーチバレーや追いかけっこをした。
みんな童心に戻っていた。
寮生は基本的に田舎者である。北は北海道の池田町、南は九州の熊本阿蘇からで、東京にいちばん近いのが静岡県N町の翔というのだから仕方がなかった。
海を始めて見て興奮する者(初めて見る者がいるのもとても珍しい)や故郷の海を思い出して懐かしんでいる者。海を見ると反射的に黄昏れる者。海に行くと必ず貝をやたら探し回る者。海辺の砂に自分のアートを描こうとする者。犬のように本能的にただ穴を掘る者。
由比ヶ浜には様々な人間模様が出現した。
浜を滑る潮風に刺激され、白い砂浜で若いエネルギーを発散させた寮生は十分にお腹を空かしていた。食堂委員が眠い目を擦りながら作ってくれた昼食を、潮風をおかずにみんなで頬張った。
男子寮生は女子寮生の食べ残しにも目を光らせていた。大量の昼食は見事に食べ尽くされた。みんな満足そうな顔をして、次の目的地である長谷寺に向かった。
みんなでハイキングの盛り上がりを祝して、鎌倉の大仏をありがたく拝みに行った。
長谷寺に到着し、大仏様の前で、みんなで記念写真を撮ることになった。ところがなかなか人が集まらなかった。男子の数名がトイレから帰ってこないのである。一人が帰ってきたら、また一人がトイレに行った。三十分ぐらいしてやっと撮った記念写真であったが、後で見ると何名かは蒼白な顔色でせつない面持ちで写っていた。
やがてみんなは事態の異変を感じて、急いで寮に帰ることになった。途中、何度もコンビニや公衆トイレによりながら。
どうも生焼けのシシャモが数匹あり、それにあたったらしかった。それが不思議なことに男子寮生の五、六名だけで、そのほとんどが新入寮生だった。先輩寮生のようにまだ胃腸が鍛えられていなかったのだろうか。そんなばかな……
最悪なことに食堂委員のおいどんや文化局の金城という企画の中心人物が犠牲者だった。
帰ってから、翌日の夜まで男子トイレは満室状態が続いた。中には熱を出して唸っている者もいた。だが翔は無事だった。
この企画を契機に、ライバルのように競い合っていた食堂委員会や文化局はお互いの活動をよく理解し、互いを尊重して活動するようになった。まさか食あたりで「同類相哀れ」んだわけではないだろう。
そして彼らは今まで寮の活動に参加しなかった寮生までも
巻き込んで活動した。
寮の自治会は全員加盟制だった。だが活動への参加は強要せず、自主参加を原則とした。
ピュアな精神、というより単純な新入寮生たちは、寮にいる人間を誰一人として放っておけなかった。
おいどんの階段ダッシュと「朝食呼びかけ運動」や金城の陽だまりのような企画などによって、それまで寮の活動に消極的だった寮生たちはいろいろな行事に顔を出すようになった。誰かが声をかけてくれるのを待っていたかのように。
新入寮生たちは停滞していた寮の活動に様々な新風を吹き込んだ。寮の先輩たちは驚きと好奇の表情で観察していた。そして寮の仲間として快く迎い入れた。
13 406号室酒乱事件
寮生活で生起する出来事はいいことばかりではなかった。
今回の酒宴の席でも、「406号室酒乱事件」が持ち出された。当時406号室の住人であったおいどん本人に1学年下の後輩寮生が真相を尋ねたからである。酔った本人は忘れていることが多いので、事件の傍にいて全貌を知っている翔(かける)が解説した。
それはおいどんや翔たちが入寮した翌年のことである。
寮前の桜が既に葉桜となった頃、寮ではその年の新歓コンパが終わっていた。だがその後も何かと理由をつけて、寮生たちは酒を手に入れ、各フロアーや各部屋単位で自主的に小さな新歓コンパの続きを催した。寮生たちはよほどの酒好きか、暇人の集まりだったのだろう。
406号室の四人部屋でもそんな宴会があった。
その日は同室の3年生、吉村と石塚が同じバイトの給料が入った日だった。
二人は今年やっと成人した同部屋の後輩二人のお祝いをしようと話し合った。それほど普段から仲の良かった四人だった。
406号室では新成人を迎えた二人、おいどん(高山)とイケメン(臼井)のための熱烈歓迎パーティが催された。つまみは干した鰯とするめだけである。
まずは祝杯を挙げようといってラーメンどんぶりに先輩二人が買ってきた安い日本酒を注いで、順番に飲んだ。固めの杯か、契りの杯のように。
新成人のおいどんは不屈なジャガイモのような顔つきだが酒も強かった。逆にイケメン臼井は歌舞伎の女形のように色白で、口調も態度もおっとりとしていた。酒どころ新潟の出身だったが酒には滅法弱く、一口呷るとすぐに寝てしまうのだった。
案の定、イケメンが寝込むと日本酒は安いウイスキーに変わった。ついには残った三人で飲み比べを始めてしまった。
先輩二人は気分が良かったのだ。
自分の労働の対価として金を手に入れ、いつも可愛がっている少し生意気な後輩の、大切な冠婚葬祭を自らの手で祝えることに気分が高揚していた。
後輩たちも感激していたのだ。
先輩たちの貴重なバイト料から、自分たちの成人を祝ってもらえるなんで露ほど思ってもいなかったから。二人とも田舎が長崎と新潟と遠かったので、地元の成人式には参加していなかった。
京都出身の吉村は途中からめそめそしながら、
「新成人おめでとう」
といいながら酒を飲んでいた。
滋賀の石塚は京都の吉村が泣くのを見ては、
「なくほどのことじゃねえだろ」
と笑い転げて飲んでいた。
酒豪のおいどんは感謝の言葉をいった。
「うったまげたで。ばってんばちかぶりそう」
おいどんは始めは嬉しそうに酒を飲んでいたが、その量が増えてくると、目が座った。ついには炬燵のテーブルを叩いて先輩たちに何やら説教をし始めた。
普段の生活や学問、人間の生き方等々、話題は止めどもなく多岐に広がっていくのである。先輩の二人は黙って嵐が過ぎるのを待っていた。
しばらくして406号室が大騒ぎをしていてうるさいという苦情が当時の寮長で4年生の横山一弘の元に寄せられた。横山は青森県の十和田湖の近くから来ていた。さらっとした髪を斜めに流し、目鼻立ちがはっきりした元祖イケメンだった。
402号室で寮長と同室だった翔は何事かと思い、横山と一緒に現場を検分に行った。なんとそこは修羅場で、魑魅魍魎が跋扈していた。その名は酒呑童子四天王だった。
一人は座ったまま、へらへら笑って真っ赤になった電気コンロを振り回している星熊童子(ほしくまどうじ-肌色の鬼)だった。二人目は床を叩きながら俯せで泣きじゃくる熊童子(くまどうじー青鬼)だった。三人目はその二匹の鬼を目が据わった状態で見つめ、握り拳を震わせて真剣に怒鳴っている金熊童子(かねくまどうじー赤鬼)だった。最後に奥で顔を真っ赤にして高鼾をかいている虎熊童子(とらくまどうじー白鬼)がいた。
横山は一瞬驚いた表情を見せたがすぐに大笑いを始めた。
「みごとに揃っているな。泣き上戸、笑い上戸、怒り上戸に下戸までも」
翔は水族館で知らない魚類を見るように、まじまじと四人を眺めまわした。
「おい、おい」
横山は起きている三人に呼びかけた。三人は寮長の方を見た。
「お前ら、いい加減にしろ。うるさくて周囲が迷惑している。お前らはまだ二、三年生で実感がないだろうが、俺も含めて他の部屋では四年生が卒論や卒業制作を始めている時期だ。新成人を歓迎するのはいいが、他の部屋の迷惑にならないように飲め!」
横山がそう一喝すると三人は我に返り、一気に静かになった。
星熊童子(石塚)は振り回していたコンロをおずおずとこたつの上に戻した。コンロが赤くなっているのに気が付き、慌ててコンセントを抜いた。熊童子(吉村)は涙を拭きながら俯いて、小さな声で、
「スイマセン」
と言った。金熊童子(おいどん)は驚いたように周囲を見回し、胡坐から正座に座り直し、元高校球児らしく大きな声で、
「すんませんでした」
と謝罪した。石塚もそれに付け加えるように
「えへ、すみません」
といいながら片づけを始めた。だが笑い上戸のせいか、そのときも「へへへ」と笑っているような顔つきで真剣みに欠けていた。
翔たちが部屋に戻ってしばらくすると、今度は三人の笑い声だけが聞こえてきた。
翔はなんとなく嫌な予感がした。
14 懲りない男たち
翌日の早朝、寮長の横山一弘に女子寮から抗議が入った。
四〇五号室のイケメン臼井が布団に包まれ、女子寮の二階に投げ込まれていたという。いわゆる布団蒸しだ。
犯人は明らかだった。
副寮長で三年の姫川あかねは四〇五号室の住人と寮長を食堂に呼んで厳重に抗議した。どう言う訳か被害者だった臼井もそこにいた。
それは抗議というより公開説教だった。
翔はすぐにその女子大生は新歓コンパで長いこと自分が見とれていた副寮長の女子大生だと分かった。その瞬間、
「鬼の姫川は怒るときついから気をつけろ」
というどこかの先輩の言葉が脳裏に蘇った。
「吉村! 石塚! あんたたちは上級生でしょ。学生寮は男女が併合しているから、男女のけじめが肝心なのよ。大学生にもなって、そんなことも分からないの! なんて情けない。いったいこの二年間、あんたたちは何を勉強してきたのよ」
姫川女史の憤りは収まりそうになかった。そして女史の矛先は405号室の下級生にも向けられた。
「君たちも先輩に誘われたからといったって、いいなりになってんじゃないわよ。大学生なんだから自己責任というものが問われる年齢なのよ」
新成人たちはパイプ椅子の座席に埋もれてしまうほど小さくなっていた。その後も、女史は四〇五号室の男子寮生を研ぎ澄まされた矢で次々と射貫いた。言い訳や反論など決して許さなかった。
そうして自分の興奮が収まるとさっさと女子寮の自分の住処へ戻っていった。女子寮からは数名がその場に立ち会っており、彼女たちもすっきりした表情で付いて行った。
新入生の女子寮生たちも食堂の入り口の陰から遠巻きにその光景を眺めていた。それは女子寮の意思統一の固さ、強さを感じさせた。こうして女子寮の伝統が継承されていくのかと思うと翔は少し怖い気もした。
女子軍団が去っていった後、寮長の横山が405号室の寮生たちを諭すように話し始めた。
「男女がいる寮自治会は全国的にも珍しいんだ。男女がお互いに尊重し、規律を守って自治会を運営していることがわが寮の特徴でもあり、誇りでもある。みんなの生活を守るためにも、この寮を守るためにも、寮の規律を守ることがとても重要なことなんだ」
入寮式でのガイダンスではよく分からなかったが、この話は腑に落ちた。翔が高校生までに感じていた上からのお仕着せのルールではなく、どうすれば自分たちが幸せになるかを考え、信頼の上に作り上げてきた規律なのだということを。
「吉村と石塚は寮にいてよく知っているはずだ。この寮自治会は全員加入制だが、加入を拒否している寮生もいる。だがそんな寮生をわれわれは追い出すようなことはしていない。共同で生活をする仲間だからだ。だから、羽目を外してもみんなに迷惑を掛けちゃだめなんだよ」
優しく熱心に語る寮長の話を聞いていた翔は、自治会は、自分たちの生活を守るために必要なのだと改めて理解した。
このことは「405号室酒乱事件」と命名され、あっという間に全寮に広まった。教訓として、そして笑い話としても寮の歴史に足跡を残した。
だが肝心の405号室の寮生に、寮長の珠玉の言葉はどこまで響いたのかは定かではなかった。
みんなで思い出話に花を咲かせていると、あっという間に終電の時間が来た。それであっけなく宴会は収束に向かった。鈴子は「泊まっていってもいいよ」とみんなに言ってくれたが、さすがにそれは遠慮した。
懐かしい思い出を語り合い、おいしい食事をいただき、気持ちよく酔える酒を飲んで、みんな満足をしていた。
何より、肺炎の死に際からみごと復活し、癌との闘い方を講義してくれた安岡の顔を見たことで、みんな一時的ではあるがほっとしていた。
帰りは、遠隔地の寮生が早めに退席した以外、駅までみんな一緒に向かった。鈴子も一緒に駅まで付き合った。翔はみんなで全寮連のデモに参加した帰りには、こうしてみんなでいろいろおしゃべりして帰ったことを思い出した。
駅ではみんなが鈴子を励ました。翔は、1学年下の鈴子は、字が上手で、無口で酒豪だということ以外に知らないのでどう声をかけていいものか分からず、
「体に気をつけて、安岡と一緒に頑張って」
と励みにもならない声を掛けた。
十分に頑張っている彼女にこれ以上頑張ってはないだろうと思ったが、それ以外の言葉が浮かばなかった。
鈴子と別れて、すぐに金城の妻さやかが、携帯を忘れたことに気づいた。さやかは鈴子と二大酒豪と呼ばれ、前後不覚になることは決してなかった。
しかし今日は鈴子を見て、きっとさやかも心を痛めていたのだろう。携帯をなくした場所すら覚えていなかった。すぐに金城が別れたばかりの鈴子に携帯で連絡を取って、時間があるときに探してくれとお願いした。
「疲れてんのに、余分な心配をかけてしもて、すまんなあ」
と金城が、鈴子に謝っているのを横で聞いていたさやかもすまなそうな、悲しそうな顔をして俯いていた。
15 絶体絶命
帰りは東京方面に向かう大村やおいどんたちと一緒だった。翔は彼らを見ていて、ふと思った。
自分は小学校では人見知りではきはきしない児童と言われ、中学では真面目で目立たない生徒と言われた。それでも中学の野球部ではキャプテンを務め、高校では生徒会副会長にもなった。すべてまじめさが所以のことであった。だが自分は、金城や大村やおいどんのように、かつてこれほど他人に親身になどなったことはあっただろうかと自問した。
翔は競争原理の下で部活も勉強も頑張ってきた。兄弟は4人いた。
12歳年上の長男は、病気の父の代わりに定時制高校に通い家計を支えた。昼間は炭鉱の選炭場で、真っ黒になりながら石炭を砕いていた。誰よりも無口で、全日制の同級生に高校へ通う駅ですれ違いざまにからかわれても何も言わなかった。
10歳上の長女は、全日制の高校に通い、兄が馬鹿にされているのを知っていた。兄とは違い誰よりも気が強く、活動的な姉は、学年でも姉御肌で人気があり、男女問わず友達が多かった。だから共同浴場(銭湯)や映画館や店などで兄がからかわれているのを見ると、代わりに10倍も言い返した。相手が男でも、先輩でも、決してひるむことはなかった。
6歳上の次女は大人しかったが聡明で美人だった。小、中と成績は学年でトップだった。高校生になっても他の中学校から来た秀才男子と学年の1、2番を争っていた。だが貧しさゆえに北大への進学は諦めた。炭鉱が閉山後も一人北海道に残った。その後ドラマティックな人生を送り27歳で夭折した。家族の悲しみは深かった。
そんな兄弟を見ていた翔は、人より努力すれば成績が上がることを知っていた。先輩のいびりにも耐えて野球部でもレギュラーを獲得し、キャプテンにまでなった。でもすべて自分のためだけであった。
高校生になり、自我に目覚めたのか、近代文学のとりこになった。夏目漱石にはじまり、島崎藤村、志賀直哉、太宰治や三島由紀夫など日本の作家を読み漁った。外国文学は登場人物の名前が覚えられなかったので苦手だった。
彼らから人間の自我について学び、人間の業の深さを知った。だから自分だけに固執する生き方は止めようと思った。そして他人との競争も止め、もっと視野を広げようと思った。まるで出家した人みたいに。
まず初めに生徒のための生徒会を作ろうと転校先の高校の役員選挙に立候補した。当選後、役員たちと自分たちのための生徒会に変革しようと連日話し合った。そして生徒にも呼びかけた。
でも誰もそんなことを望んではいなかった。今までの活動を踏襲するだけだった。知らず知らずの内に、挫折感と脱力感を肩と背中に背負って、翔は新しい歩みを止めた。簡単に絶望しすぎだと分かっていたが受験勉強にも熱が入らず、今日までなんとなく生きてきた。
そんな翔にとって学生寮の仲間は、自分に多くのものを与えてくれた。自分は寮での経験を、自分の人生に生かさなくてはならないという使命感みたいなものを抱いた。
名古屋から帰ってきた翌日の空は、やや薄墨がかっていた。だが計画通り部活動の練習を実施した。
スコアーブックを開いて、副顧問から昨日の練習試合の報告を聞いた。他地区の強豪チームは四死球やエラーなどで簡単には得点を与えてくれない。だから僅差の試合が多かった。自分のチームにはまだエラーや四球が多かった。まだまだ完成度が低いと感じた。
ピークは地区大会の決勝、つまり7月初旬だ。これからは細かいことは省いて、克服すべき課題をいくつかに絞った。
練習試合で失点したシチュエーションで、ノックをして守備練習をした。得点できなかったシチュエーションでバッティングやバント、エンドランの練習を行った。そうやって、どの場面で自分たちは何をしたらいいか理屈と体で覚えさせた。
生徒たちは真摯に取り組んだ。学校生活では優等生として注目されることはなかったが、部活動の時間は別人だった。だからこそ彼女らには成功体験とプライドを持たせたいと翔は願っていた。
練習試合を行う。そして反省をし、課題を見つける。対策を練って練習し、克服する努力をする。そしてまた練習試合迎える。何度もこのサイクルを繰り返していたら、いつのまにか中体連地区大会当日を迎えていた。
一日目はリーグ戦だった。
リーグはAからDまでの4つあった。各リーグ3チームなので、試合は二試合あったが3年生エースと2年生エースがそれぞれ完投し、打線もつながり完勝した。
翌日は各リーグの2位までが決勝トーナメントに進んだ。試合は準々決勝からスタートした。
N中ソフト部はAリーグ1位だったので、準決勝からの登場になった。試合には2年生エースが先発した。球は早いが四死球が多いので心配だった。
この試合には県大会の出場権がかかっていた。そのせいでみんな緊張していた。だが相手打線を封じるには3年生エースMの制球力よりも、球が速い2年生エースNの球威が必要だった。
試合が始まるとやはりプレッシャーのせいでピッチャーの表情も動きも硬かった。やはり力んでストライクが入らなかった。四球の後はストライクを取りにいって打たれた。悪循環である。それでいきなり失点した。
何点かは取られるだろうと想定はしていた。だが初回で四失点はさすがにまずい。交代時期を考えていたら、それもつかの間、二回にも三点を失った。計七点、このままでは5回コールド負けである。
N中ソフトボール部は絶体絶命のピンチを迎えていた。
16 最終兵器A1号
相手はやることなすこと全てがはまり外野のファインプレーまでも飛び出す始末。これは負ける典型的なパターンだった。
相手チームのエースはサウスポーで、右打者のアウトコースのコントロールが抜群だった。インコースのストレートでバッターを詰まらせたり、カーブで空振りを誘った。そして仕上げはアウトコースのストライクゾーンの出し入れで三振を奪った。5回まで手も足も出なかった。
選手を硬くしているのは、勝たねばならないと考えている顧問の自分のせいではないのか。選手たちも負ければ終わりだと考えているから身も心も委縮しているのだろう。
これまでひたむきにソフトボールに取り組んできた生徒たちに本当に大切なものは何か、翔はしばしベンチで考えた。
以前、自分は部員たちに「成功体験とプライドをあたえたい」と考えていた。だが勝つことだけが成功なのだろうか。勝たなければ持てないプライドとは何なのだろうか。
成功体験とは自分が必死に努力してきたことでヒットが打てたり、守備が上手になったり、盗塁が成功したり、三振が奪えたり、そうした成果を体験し、自信を積み重ねていくことではないだろうか。それが自己実現につながり、自分らしく生きることに集約されていくのではないだろうか。それが彼女らの人生の生きる力になるのだ。
だが、それが単なる個人の努力の成果であれば、そこで自己完結を果たして終わりである。しかしその成果をチームとして一体化して生みだすことができれば、予想以上の大きい力を生み出し、状況さえも変化させることができるのではないだろうか。ほんとうに仲間を信頼しなければ生み出せない力でもある。
それは単純な足し算ではない。予想のつかない広がりをもつかけ算なのだ。それが翔が寮生活で得た大切な学びではなかったか。翔はこの試合の流れを食い止める方法を必死に考え始めた。
今までのように3年生エースMに交代しようか。でも今までの方法でしのいでも、この試合の流れは変わらないだろう。予想できる結果は人間の打算を生み、諦観をも招く。ここで必要なのはかけ算だ。みんなが前を向いて生み出す×αの力だ。
翔は主審にタイムを要求した。
ライトを守っていたキャプテンAをマウンドに送った。2年生ピッチャーNはそのままライトに入った。
その選手起用に相手も、味方さえも驚いた。
「何も考えるな。いつものように相手に向かっていくお前の気持ちをぶつけてこい」
翔はAの表情に注目した。
Aの両方の眼には闘志がみなぎっている。相手に挑む強い意思が宿っていた。
Aの性格は気が強い。それに比べて3年エースのMは気持ちが優しく、みんなに好かれる性格だった。だからみんなからキャプテンに推薦された。しかしMが、
「わたしはAさんがいいと思います。彼女の気持ちの強さがこのチームには必要だと思います」
賢明な判断だった。それを聞いて、みんなも賛同した。
ベンチに戻った翔は胸の内で「これでいい。結果などは二の次だ」と思った。
N中ソフト部には3年のMと2年のNという各学年のエースピッチャーがいた。
3年生エースのMは小学校からソフトを経験していた。たまにピッチャーもしていたが球威があまりないので、コースに投げたり、チェンジアップなどの変化球で打たせて取るタイプだった。しかし昨年の新人戦ではエースで4番の彼女が投げ、彼女が打って、20近い参加チームの中で、三位を獲得した。
一方2年生エースNは入学したときから、運動神経がよく、足が速くバネがあり、投げる球のスピードがかなり速かった。しかし中学校から始めたせいか、コントロールがなかなか安定しなかった。
ソフトボールでも連投を続けるとやはり肩や肘を故障したり、ブラッシング(腕を回してボールを放す直前に腰や足に腕をぶつける)のために手首や腰や太ももなどを痛めたりする。だからいざというときのためにも、さらにピッチャーは必要だった。
キャプテンのAが自らその役目を担った。練習後もチームメイトとピッチング練習を行い、家でも父親にキャッチャーを務めさせ、投げ込みをした。そして短いイニングなら十分にその役目を果たせるまで成長していた。驚きの進歩と努力である。
いつも真ん中以外は投げる気がないみたいな思い切りのいい強気のピッチングが身上だった。それが今回、秘密兵器A1号となった。チームのみんなもキャプテンA1号を信頼していた。
幸いにも彼女は地区の練習試合ではほとんど投げていなかった。相手は様子を見ようと彼女の投球を見送っていた。ところが2ストライクとすぐに追い込まれた。相手チームはどんどんストライクを投げるA1号に茫然自失だった。
A1号はまるでドラマの筋書きみたいに、見事に相手バッターを押さえた。チームのみんなにも生気と勇気がよみがえった。
彼女自身は気付いていないだろう。みんなは知っていた。気は強いが不器用な彼女は、キャプテンとして、4番バッターとして、リリーフ投手として、チームにふさわしい選手になるために、陰で人一倍努力してきたことを。だから彼女に何の違和感も抱かずにすべてを託すことができたのだ。
彼女自身も自分が思い切って投げられるのは、みんなが自分を支えてくれることを感じていたからだ。お互いの信頼があったからこそ、生まれた×αだった。秘密兵器A1号はついに最終兵器へと変貌を遂げた。
試合の流れは完全に変わった。
17 奇跡の大逆転
相手の攻撃の流れは止めた。
だがまだ得点ができない。
いよいよコールドゲームが成立する5回表の攻撃が始まった。
N中の本当の武器は打撃だった。どんな劣勢も跳ね返すことができる強力打線を有していた。
もともと足が速い選手が少なかった。でも腕力と体重(失礼!)だけは人にあげたいほどあった。
毎日素振りとティー、トス、フリーバッティングを朝練や放課後の練習で繰り返した。冬には軍手をはめてバットを振り続けた。一冬越えてエースM以外にも、ややスマートになった強打者が揃った。
練習試合でも盗塁、バントのサインよりエンドラン、ヒッティングのサインが多かった。練習でも逆方向へのチームバッティングができつつあった。
初球から甘い球を確実に捕らえることができれば大量点を奪える。そのために必要なことは何か。選手たちに再確認をした。
練習で取り組んできたことなので選手たちには伝わっているはずだ。
翔は一つ一つ確認するように話した。
「一つはここまでの打席での相手投手のストライクの軌道をしっかり思い返すこと。二つ目はその軌道に対して自分のスイングをイメージすること。そしてとくに大切なのはタイミングだ。振り遅れている者は早めに軸足に体重を乗せておくこと。バットは振ろうとするな。最短距離でぶつけるんだ」
これらの事柄は長い間、マシン相手に取り組んできたことでもあった。
「失敗を恐れず、ストライクならば初球から振り切ってこい。甘いストライクを見送る方がきっと後悔するぞ」
当てにいけば相手の球威に負けてフライになる。勇気をもってスイングしたなら、たとえ結果がダメでも次のバッターにその気持ちをつなげることがきると翔は思った。
先頭打者は1番の左打者Wだ。エースMと小学校のソフトボールチームから一緒の仲間だった。打撃のセンスが高かった。Wはいわれた通り、ストライクボールを思い切ったスイングでセンター前に弾き返した。
点差はあったが走者となったWが盗塁の構えを見せ、1球ごとにスタートだけを繰り返した。そして相手の二遊間に2塁のベースカバーを意識させた。そのため一二塁間と三遊間が開きヒットゾーンが広がった。
2番の左打者のSはその三遊間を狙って流し打ちをした。相手のショートが追い付いたときはすでに1塁を駆け抜けていた。
Sは小柄だったがチームきっての俊足で、少しボールが高く弾んだだけで内野安打になった。だいたいN中ソフト部は足が速いと左打者、むだに力が余っている者は右打者だった。
ノーアウト1、2塁、ランナーは二人とも俊足だ。足が速い選手が少ないN中にとって、願ってもないチャンスだ。
ここからは強力打線のクリーナップだ。
3番で左打者の3年生エースのMはアウトコースに的を絞り、レフト線にタイムリー二塁打を放った。無死2塁でチャンスはなおも続いた。
4番右打者のAはピッチングで力を出し尽くしていたのかあえなく三振した。しかし5番左打者のUが左中間にヒットを放ち、2塁ランナーを還した。この回クリーナップは3点を還した。サインはヒッティングだけだった。
5回裏には疲れの見え始めたリリーフのAは1失点したがチームのみんなの表情は柔らかい。その雰囲気の中、2年生エースNが再登板した。
コースは狙わず、ど真ん中めがけて全力投球をした。力みは見えなかった。地面を蹴り、身体をしなやかに使い、ピッチャーズサークルの前方の空間に美しい大の字を描いた。躍動感あふれる自分のピッチングを取り戻した。
6回には4点を奪い7対8と一点差に迫った。
2年生エースNのストレートは回を追うごとにスピードを増し、相手打者はバットに当てるのが精いっぱいだった。逆に相手投手のストレートはだんだんと勢いを失い、際どいコースがボールになり、ランナーを貯めた。
そして最終回となる7回には決定的な3点を奪ってついに逆転した。もう誰もN中学校を止めることはできなかった。
ついにソフト部は県大会の出場権を得ることができた。
決勝戦は3年エースが先発し、持ち味でもある打たしてとる巧妙なピッチングを見せた。バットを振り回すのが大好きなN中ソフト部の選手たちは早々に相手投手を打ち崩し、大勝した。
この地区大会で、彼女たちはあきらめないことの大切さを知り、仲間を信じることが奇跡を生む力になることを身をもって体験した。
県大会ではエラーで失点し、相手投手を打ち崩せず1回戦で敗退した。N中ソフト部らしい 戦いだった。
帰りのバスでは涙はなかった。むしろみんな清々しい表情をしていた。
だが顧問の翔だけは、「ソフトボールは野球と一緒で、投手を含めた守備がやはり重要だ」とつくづく感じていた。
18 非行少年
翔たちが見舞いに行って、三月も経たないうちに安岡は息を引き取った。52歳の早すぎる死だった。
安岡の住んでいた名古屋駅の近くの市営葬儀場でお通夜が営まれた。お通夜では急遽第三十代寮長として、第三十五代寮長の安岡孝之の弔辞を翔が読むことになった。
翔は急いでメモとペンを葬儀場で借りて、弔辞の下書きを作成した。お通夜までは2、3時間しかなかった。
下書きをしながら実の弟のような安岡の屈託のない笑顔や悪戯な仕草が目に浮かび、翔の目からは涙が勝手にこぼれた。
下書きを終えて、お通夜までにはまだ時間があったので、翔は寮生たち4、5人で、元遠洋漁業の船長だった安岡の父に息子のことについていろいろ話を聞いた。
孝之は私が年が往ってからできた一人っ子だったので、とてもかわいがった。目がくりっとして、愛嬌があってかわいい子だった。私は自分が買える者は何でも与えた。
孝之が中学生になっても自分が長期間、海に出ていたため、会話する機会が少なかった。母子家庭のような家庭状況で、妻は孝之のわがままをだんだんと抑えきれなくなっていった。
やがて孝之の部屋が子どもたちのたまり場となって悪さを覚えた。そこから絵にかいたように非行に走った。
妻は喫煙や飲酒、無免許運転などで、何度も高校に呼び出された。途方に暮れた私たちは幾度か警察に相談にいった。妻はその心労がたたって病に倒れた。
そんな孝之が高校の先生たちの粘り強い指導のお陰で何とか卒業できた。その後、孝之から、
「オレ、東京の大学に行くから」
と聞いて、私たちはほっとした。
孝之が前向きに進路を考えてくれたことより、正直いえば親元を離れてくれることに安堵した。
大学生となり、久しぶりに実家に戻ったわが子を見て、ずいぶんと大人らしくなったと感じた。乱暴だった言葉づかいも柔らかくなった気がした。
「何の目的もなく生きていたような子が、目を輝かせて寮のみなさんの話をしたり、いろいろな出来事を楽しそうに話をしてくれました。小さいころの透き通ったような目をしていました。高校生になってからあの子のそんな表情は見たことがありません」
と言って小さく肩を震わせた。
何度目かの帰郷の時、孝之は、
「おやじ、俺は人の役に立つ会社を起業して、迷惑をかけたみんなに恩返しをする」
と言って、屈託のない笑顔を私に見せた。そして、
「今までありがとう」
と感謝の言葉さえ口にするその姿に私は心で泣いていた。そして大学卒業後、孝之は病気になった妻を約束通り、亡くなるその時まで付きっきりで看病してくれた。
妻が死んだ後も、わざわざ私の近くに移り住んで、私の世話をしてくれた。
そんなことを父親は涙を流しながら翔たちに話してくれた。
「始めはなんて親不孝な息子だろうと恨みもしましたが、本当は心根の優しい孝行息子だと分かって私は幸せでした。同時にもっと他の子どものように親に甘えたかっただろうと思いました。だからもう少しでもいいから、孝之と一緒に暮らしていたかった」
と言って、また肩を大きく震わせた。
そして、
「よくぞ息子をここまで一人前にしてくれました」
と安岡の父親は何度も何度も翔たちに頭を下げて、ありがとうとお礼を言った。
でも、本当は生きている内に、自分の息子に礼を言いたかったに違いない。
安岡にとって入寮したことが人生の大きなターニングポイントだった。
真実の道を探し、本気で生きようとする若者たちの、打算のない人間関係でしか得られないものがあったに違いない。
寮生たちはいろいろな悩みを抱えていた。
長く生きられないと分かっている寮生。
いろいろな障がいを抱えて困難な道へ進む寮生。
被爆二世として不安を抱えている今を生きる寮生。
今なお封建的な差別と闘っている寮生。
出生の秘密を抱えている寮生。
寮にはいろいろな社会的弱者が大勢いた。
でもみんなほんとうに明るかった。恐れることなく、なんにでも挑戦しようとする気概を常に忘れなかった。そんな寮生を見て、自分の不幸を他人のせいにして虚しく生きることよりも、人に尽くす幸福感が自分の使命と安岡は知ったのだ。
その時から彼の人生は光を放ちながら輝き始めたのだろう。だから死を目前にして、かつての仲間たちと会える機会を得て、最後の命を燃やし尽くしたのかもしれない。
翔は下書きに安岡の父から聞いた話を付け加えて弔辞を読んだ。
19 弔辞
翔は一度目を閉じ、深呼吸をした。そして原稿を読み上げた。できるだけ淡々と感情にとらわれずに。
あなたが高校生の頃は手のつけられないやんちゃ坊主だったと今日初めてお会いしたお父さんから聞き、寮生一同少々驚きました。
少々というのは、実はあなたの振る舞いからそのやんちゃぶりがうすうす推察できたからでした。
それは運命としか思えないA大学学生寮に入ったときから始まりました。
あなたは同期の誰よりも、4、5日早く入寮し、面倒見のいい金城君の部屋に棲み付いていました。
初めの2日間は関西訛りの標準語で敬語を使い、謙虚に振舞っていました。しかし、3日目からもろ名古屋弁でのタメ口で、寮生よりも寮生らしい雰囲気を醸し出していました。そして、同期の新入寮生に対し、いろいろ指図をして、いつのまにか寮を仕切っていましたね。
わがままで自分勝手なあなたは、きっと親御さんたちを苦労させてきたことでしょう。しかし、その苦労を引き継ぐ勇気ある伴侶に恵まれたあなたは本当に幸せ者でした。
K市と言いながらK村のような山奥にある寮で春夏秋冬を過ごし、寮生の生活を体験したあなたは日一日と目を輝かせ、見えない敵に目を凝らし、受け身だった生き方を変え、人のために生きることの幸せを自覚していきました。
2年生になり早くも寮長として、生きる権利を熱く語り、寮生の先頭に立って奮闘してくれましたね。それはまるで自分の埋まらない寂しさを紛らわすかのような激しさもありました。
ときどき疲れを癒すかのように、私たち4年生の部屋に来て場を荒らし、好き放題をしていくあなたを誰も憎めませんでした。それはみんなが寮生のために身を粉にして尽力するあなたの秘めた優しさを知っていたからです。自分を成長させたい、人を幸せにしたいというあなたのあせりにさえ似た気持ちを皆、感じていたからです。
われわれ48年度生が寮にこだわり、寮自治会にこだわった熱い気持ちをあなたは真摯に受け止め、引き継いでくれました。ありがとう。48年度入寮生を代表して、衷心からお礼を言います。
しかし、あなたの本当の苦しみを知っていたのは鈴子さんでした。自分の悩みだけでなく、あなたの悩みさえも一人で背負った彼女は、寮生たちがお見舞いに来た時も気丈に振舞っていました。
その時、あなたも苦しい素振りを見せず、ガンとの闘いの中間総括をしてくれましたね。どんな敵にも怯まないあなたの勇気を感じさせてくれました。
寮の歌集である「どらごえ」を「ぼっさく」なるまで肌身離さず持ち歩き、本当に寮を愛していたことを思い知らされ、胸が熱くなりました。
こんな若さで、こんな熱い情熱を持ったあなたとのお別れは本当に辛く思います。この込み上げる思いは言葉に尽くせません。
でも、われわれは決して忘れません。あなたのような素晴らしい後輩がいたことを。
寮でみんなで歌った懐かしい曲を口ずさむ度に、あなたがよくお土産に持ってきた「ういろう」を食べるたびに、あなたがかっこよく指に挟んでいたショートホープを見る度に、安岡孝之君、きっと君を思い出すでしょう。
あなたも天国から優しかった親御さんやご家族を見守ってください。そして、誰よりもあなたを愛し続けた鈴子さんを見守り続けてください。
最後にあなたの仲間であり、兄弟だったわたしたち寮生たちを寮長の時のように見守ってください。
A大学学生寮生の誇りと愛着を持って、わたしたちは君を忘れません。
20××年、8月24日(日)
48年度寮生代表、第30代寮長 松永翔
翔の弔辞は途中から言葉にならなかった。
弔辞を読んでいる途中で、安岡の遺影を見、その横に飾られた結婚を祝う会の新聞を見たのがいけなかった。
翔はしゃくりあげながらも、声を絞り出して、読み続けた。最後は咆哮するかのような声になった。
後輩の弔いの役目を果たさなければならないのだ。そう自分に言い聞かせて、最後まで弔辞を読んだ。
途中からしっかり読めなかった気恥ずかしさを胸に抱えて席に戻った。そんな翔を元寮生たちは無言で「おつかれさま」と見守っていた。翔も少し気分が落ち着くと、じっとガラス窓を打つ雨の音に耳を傾けていた。
この日は朝から雨が降り続いていた。地雨のように降りやまず、地面も建物も黒く覆ってしまいそうだった。
静岡の富士宮に伝えられる話で、「虎が雨」と言って七月初めに降る長雨がある。
曾我兄弟が討たれた日に、兄の曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)の愛人である虎御前(とらごぜん)が流す涙だと言われている。
今日のこの雨も、きっと志半ばで倒れた愛する人を弔う鈴子の涙雨かもしれないと翔は思った。
お通夜が終わって帰るころになっても雨は止まず、ますます激しくなるばかりだった。
20 長雨(ながあめ)
降り続く雨の中、帰りの新幹線は名古屋駅を出発したが、大雨洪水警報であっけなく運転停止になった。
翔が大学を卒業した5年後に発売された「青春18きっぷ」を思い出した。正式名称は「普通列車普通車自由席用乗車券」という。5回(人)は自由に列車に乗れる優れものだ。けれどこんな名前じゃ誰も買わないだろうなと思った。時間があればどこへでも行けそうな「魔法のキップ」だった。「青春18きっぷ」、なんて心をくすぐるネーミングだろうと思った。
けれど世の中はそうしたのんびりとした旅をする鈍行列車よりも高速列車を求めた。大正ロマン電車ではなく、夢の超特急。より速く、より緻密で、より精密な新幹線が鉄道の主流となった。
しかしその繊細さが天変地異を敏感に受け止め、結局各駅停車の鈍行よりも遅れて到着させることもある。今回も新幹線で二時間程度の予定が三倍以上かかり、夜明け前にやっと三島駅に到着した。
お通夜の朝から降り続いた雨は、夜雨(よさめ)となり、暁雨(ぎょうう)となり、夜来(やらい)の雨となった。翔たちは駅で長時間タクシーを待ってやっと帰宅した。
翔はこの日、夏季休暇を取得していたので、まずシャワーを浴びて、それからゆったりとベッドに横になった。すぐに眠りに落ちた。思ったよりも心身は疲れていたのだろう。妻のさくらも同じようにシャワーを浴びて、自分の部屋に入って寝た。
翔は少し寝るつもりが夕方近くまで寝てしまった。これじゃ夜は眠れないなと思った。さくらはすでに起きて夕餉のの支度をしていた。
翔はリビングのテーブルにパソコンをおいて、自分が在籍したA大学学生寮について画像検索してみた。
すると懐かしい寮の姿が飛び込んできた。
だが、その二枚の写真はわざとなのか薄暗いモノトーンの色調のものや薄暮の蒼白な色合いに浮かぶ幽霊ホテルのような映像だけだった。かつて学生が住んでいたという息遣いは全く感じられなかった。
おバカな学生たちが寮を幽霊屋敷にして遊んでいた。歪んだ自己顕示欲に翔の悲しみは深くなった。
学生寮は大学が創立した1966年に一緒に建てられた施設だろう。だから40年は経過している建物である。劣化も老朽化もしているだろう。
だが廃墟のようにみえるコンクリートブロックの虚しさよりもたくさんの寮生を見守り続けてきた場所として感謝の気持ちの方が強かった。写真を見ているとそんな施設を誰もいたわってくれない寂しさと哀れさに涙がこぼれそうになった。
画像検索をやめてウェブ検索に切り替えた。
いろいろググっていたら、7年前ほど前の2001年に卒寮したという女性のブログを発見した。翔より23歳も年下だった。
彼女はA大学の偏差値が大幅に下がり今や〇〇になり下がったと書いて嘆いていた。そしてA大学卒業を隠したいと冗談めいて(真剣にか?)書いていた。
翔は先輩として彼女に伝えたかった。
そんな世間のくだらない価値基準が、今の世の中の腐った学歴社会を生んでいるということを。数字信仰の日本人の危うさはそこら中にある。
学校現場でもPISAの結果が出るやいなや、成績が前より下がった、先進国の平均点以下だと世間の批判を浴びて、あわてて詰め込み教育が復活した。世間といっても政財界である。教育の研究者でもなければ現場の教師でもない。
その結果、教員の持ち授業時数は小学校では週25時間以上あるらしい。中学でも翔が勤務している中学校でも20時間は下らない。
教師たちは毎日多忙で、生徒の話をじっくり聞く時間がない。ほんとうに大切なのは記憶偏重の知識の量なのか、生徒の豊かな感性や人間性なのか、責任者出てこい! と叫びたいと思っている。
今までの「ゆとり教育」の成果と問題点をしっかり研究分析したのだろうか。
毎日、小学校の担任は子どもたちの前で5時間もプレゼンテーションをやっているのである。ただそばにいるだけではないのだ。政治家は子どもらに飽きさせないで5時間も演説を続けることができるだろうか。
数字の根拠も検討せず、その印象から生まれた森だけを見て、血が通う一本一本の木を見ようともしない偉そうな人間に振り回されていはいけない。
A大学の卒寮生として堂々と胸を張って、自分の生きざまを見せてほしい、と彼女に伝えたかった。
21 学生寮よ、永遠に
パソコンで見つけた後輩のブログをさらに読み進めていくと、驚愕の事実と出会った。
「歴史ある学生寮だったんですが2021年3月末に完全閉寮予定らしいです。私がいた頃から古かったけどあれから20年……残念だけども、建物の老朽化も激しいだろうしな。寮食のおばちゃんにお手紙書こうっと」
とあった。
ついに閉寮という文字を見つけてしまった。やっぱりな、という思いと一緒に、学生寮への愛着あふれた文面に思わず笑顔になった。「手紙を書こうっと」という表現に彼女の人懐こいかわいらしさが垣間見えた。
彼女のブログを離れて、なおもネットサーフィンを続けると、「緑の旗」という懐かしい文字が飛び込んできた。「緑の旗」とは全国学生寮自治会総連合の機関誌の名である。
そこにはその年の新入寮生に対する中央執行委員長の歓迎のあいさつが掲載されていた。記事は4年前のものだった。これ以外の記事は見当たらなかった。
その文面を追っていくと、その委員長は翔がいた学生寮の寮長だった。29歳後輩の活躍に、なんだかうれしくなった。といっても、もう親子の年齢差だった。
寮という建物はなくなっても、人はこうして残っているんだと翔は思った。かつてプロ野球の野村克也監督の言葉を思い出した。
「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」
A大学学生寮は姿を失っても人を残したのだと思った。
全寮連第4X期中央執行委員長はあいさつの中で断言した。
「寮というのは、1、教育の機会均等を保障する役割、2、(寮自治を通して)自主的民主的な人間形成の場を保障する役割の二つの役割を持っています。これは文部科学省でも、寮の役割として位置づけています。
ですから、寮が寮の本当の役割を果せない限り、経済的に困難な寮生、自治や寮の施設で悩む寮生はいなくなりません」
経済発展の名のもとに、無駄といわれる箱もの事業が強引に継続され、老朽化の名のもとに学生寮などの貴重な厚生施設が次々と消えていく。
また受益者負担の名のもとに、奨学金に高い利息が付けられ、短期間での返還を求められる。憲法で保障されているはずの教育の機会均等が金のある者だけの特権となっていく。
「国家の百年の計は人にあり」という。
一を植えて一の収穫があるのは穀物であり、一を植えて十の収穫があるのは木である。一を植えて百の収穫があるのは人である。つまり、人を育てるのは時間がかかる。
だが百年かけた国家の計画を完成させるためには有能な人材の育成が欠かせないのだ。
翔は寮長の先輩として、全寮連第4X期中央執行委員長に伝えたかった。「自分の信念に自信をもって前に進みなさい」と。
※
2024年の年賀状が安岡鈴子から届いた。
翔自身は2年前に年賀状終いをしていたので、彼女から葉書が来たのは思いがけなかった。
今年、翔はたまたま「メディアプラットホームNote」のことを日曜の朝のTV番組「ガッチリマンデー」で知った。それで自分の思い出をそこに書き綴ろうと思い立った。
そして元旦から「Note#書初め」にフィクションとして、さらに「♯(ハッシュタグ)学生寮」といれて、自分の大学生時代の思い出を書いていた。
記憶があいまいで、本当のような嘘の話や嘘のような本当の話を書いていった。すると最初に、かつて弟のように可愛がっていた後輩の死を思い出し、彼へのレクイエムとして書こうと思った。その後輩というのが鈴子の夫、安岡孝明だった。どこまで書いたらいいのか迷ったので小説という形で輪郭をあいまいにした。
送られてきた葉書を見て、これもきっと何かの縁かもしれないと感じた。すると安岡の悪さをするときの悪ガキぽい表情を思い出した。
年賀状には鈴子の近況をまとめた手記が印刷されていた。そのはがきの隅に懐かしい筆跡で、次の文が書き添えられていた。
「昨年11月、上京の折、寮の跡地に足を運んでみました。跡形もなく、ひっそりとした地面を目の前にするとやはり寂しさいっぱいでした。また集まれる日、楽しみですね」
とあった。
きっと今年はみんなと会おうと翔は思った。
A大学学生寮よ、永遠なれ。
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