見出し画像

ただ日記 2

花火大会が終わった。
陸くんは 閉店後 数字にこだわって
昨年との結果を 比べてくれた。
数字は嘘をつかない。そう言った。
アルバイトだからと ただこなす
そんな仕事ではなく いろんなことに
意識を高く向けて 頑張ってくれたことが それだけでも伝わってくる。
働くということが どういうことか
そのなかで 喜びへとつなげてゆくことが 
また 自分をひとつ高いところへと
向かわせてゆけるちからになるのだと
わかっているひとの 所作だと思う。


若いのに えらいなと思うが きっと
それが彼に与えられた音色 ギフトなのだと思う。
共鳴するちから
そのことばが わたしが感じとった 彼という存在の印象に 一番ちかい ことばだ。

客数も 売上げも 昨年を遙かに
越えた。一時間あたりの客数が130人
すごく嬉しかった。
陸くんとも 打ち上げ花火の音を
きいて いい音してるねー と
本当に 気持ちよく笑い合えた。
今年の夏の 楽しい思い出になったことが こころにでっかい花火を
ドカン♪と打ち上げさせてくれた。
陸くんにも お客さまにも 応援してくださった すべての方に 感謝したい。ありがとうございました。


薄くすきまが 透けたような気持ちで来年は 陸くんいないもんね と
ぽつり つぶやくと 応援に来ましょうかと言って 笑ってくれた。
冗談とも 本気とも とれる言葉だが
冗談にしても なかなか出てこないであろう言葉だけに 状況が整えば 可能なのかと 半分だけ真に受けた。


わたしには 職場がふたつある。
もうひとつのほうは いわば副業と
よばれるものになるのだが
働くことに 本業も副業もないと
思っている。働く場所がそこにあり
お世話になっている会社が そこにある。それが わたしの場合 ふたつあるというだけの話だ。
毎年 税金の申告をしなくてはならないのだけが 少々 面倒くさい。


わたしは 孤独を愛する民でもある。
そして 同時にひとりになんかなるなと 友が 託してくれた言葉を愛し
自分に言い聞かせる民でもある。
ふたつの場所で 働いているあいだは
考えたくないことを 少なくとも忘れていられる。感情に揺さぶられずに
いられる時間を得ることで それに邪魔されずに 瞳にうつるもの 感じたものを わたしだけの記憶として 脳裏に焼き付けてゆくことに 集中しているのだろうと思う。きっと そうやって エネルギーを ためているのだ。

当然 自由になる時間に 制限が
かかってしまうのだが 惰弱な心身を
鍛えるという意味も込めて 働きに出かけている。いまや この季節 袖のない服を着るのには 勇気がいる。
筋肉がついてイカついのだ。
望んだとおりの筋書きで ご満悦でもあるのだが これが どれ程の威力を持つものとなったのか 残念なことに それを試すすべは 
いまのところ見当たらない。 
サバイバルな生活でもするときには 野に放たれて 本領発揮してくれると いいなくらいで留めておくのが 丁度よいのかも知れないと 思っておこう。


大好きな ゆで玉子に例えれば 食べるには 半熟が好きだけれど わたしは固いゆで玉子に なりたいのだ。笑
ハードボイルド🔥 
なんちゃって だー。笑
つい 江口寿史先生が 恋しくなり
愛と敬意を込めて 書いてしまったが
タフでなくては。← これは野望。
なりたいものに なれるのであれば
プロレスラーだっ✨✨← 願望だ。
望みが沢山あると 愉快になれるのだと いまさらながら 気がついた。🌝
書いてみて 初めてわかった。



なんというか こころもからだもメンタルも 鋼鉄のようでいて バランスよく絡み合っている そんな
マッチョになりたかった。
ムキムキだけではなく 飛ぶ鳥が
空を飛び続けるような 勢いのある
細マッチョが いいなと思う。
そうだな 映画のなかの
ジェイソンさまのよーに✨✨
素敵だー✨✨
鳥さんは 落とさずに 飛ばせておいて あげたい。
そんな優しい 勢いがいい。




働くということの こころ構えは
どこにあっても 変わらない。
なぜ こんなことを わざわざ
書いているのかというと
ふたつ目の職場のほうで 最近新しく
入ってきた 麗ちゃんと 夕べ
仕事帰りに 話したことが心に残っている。深夜のひそひそ話し 闇夜がそっと耳を澄まして聞いていた。笑 
闇夜がひそひそ話しをして あたり
一面に 広まらないことを望む。



わたしが 花火大会で休んだために
穴埋めしてくれたかたが いたのだが
その彼と ふたりだけで仕事をするのは キツいな と話してくれた。
これからも そういうことがあるのかと 気にしている様子だった。
話を聞いていて その理由は はっきりとした言葉にはならないものの 相容れないものが目につきすぎて 拒否反応を起こしているような感じがした。嫌すぎる とは言っていた。
猫さんでいえば 全身の毛を逆立てて
寄るなーと 叫んでいる状態だ。
にいさん 嫌われちゃったかー💧
いやいや まだ余白は残っている。
にいさん がんばれー🌸

穴埋めしてくれた彼は 悪いひとではないと思うとは 伝えたけれど
本当ですかー❓️と言われ なんだか
そのストレートな物言いに すこしだけ たじろいだ。こわい。💧
悪いひと認定の ハンコなどは持たないでくれ。💧


麗ちゃんは 彼の仕事の様子にも
不審感が 拭えない感じだった。
麗ちゃん そのにいさんに ちからを
借りることだってあるのだ。
ある程度の関わりが できるように
しておかなくては。



それは わたしも通ってきた道筋でも
ある。彷徨って 辿りついたのは 自分でいさせてもらえるという自由だった。
自分も自由であれば ひとも自由だ。
どんな気持ちで働きにきてるかは みんなそれぞれ違うから あのひとは あのひとなりの働きようでいい。
そんな 折り合いをつけてみた。
雇っている側にしたら とんでもない
ことだろうが 兎に角 頭数が足りないと シフトがまわらない。
わたしのこころにも 折り合いが
必要だった。そして ひとの働きよう が 気にならなくなると そこへパワーが持っていかれないぶん 作業が驚くほど はかどるようになった。
そうなると どうしても放置プレーに傾きがちになってしまう。笑 
意図的に 放置するのではなくて
結果的に というものだ。
自分のセカイ まっしぐらで働いていると にいさんのはたらくセカイが 遠いところへ 行ってしまう。 
温情のある 放置プレーとゆきたいところだが にいさんのセカイへ 寄り添いにゆくと なにもせず ふわぁ〜
疲れた〜とか言っている。なにが?と
中指を立てたくなるときも 勿論あるのだが 温情を掲げただけに そこは中指を立てるのではなく 親指を立ててゆこう✨💡✨
そんな様子でいる にいさんを 決して褒めたりはしないのだが 一応様子は聞いてみることにしている。
そして 分け与えられる いいところは いっぱい受け取ってやろうと 思っている🌸にいさんをめぐる 発見だ。



自分は どうありたいか それを探して その気持ちで働いていさせてもらえることが わたしであることの
愉しみだと思う。 そう思って ひそかに愉しんでいる。そこには天使もいるし なりそこねの天使もいる 笑
頑張ってるなーと思うと みんな
かわいく見えてくる。たまには
かわいくねーってのも いるが
がんばってねーな なときはそう思う。何しに来てるのかな。
会社のことも考えて にいさん
がんばってくれ。



麗ちゃんは 本当にごく普通の感覚を
持った いいひとだと わたしは認識
しているのだが そのごく普通の感覚で お話できるひとが いままで
あまり居なかったので わたしが感じていることは 特殊なのだろうかと
思うこともあり あまり表に出してこなかった。


有り難いことに 麗ちゃんとは
本音のところで 絡み合える。
それを出してゆけ という合図を
頂いたのだろうかと 半信半疑ながらも感じている。やや怖さもある。
歩みをとめ 暫くやってきてないことを するのだから 怖いのだろう。


難なく ひとがやってきていることを
わたしが やってこなかっただけなのだが 遅ればせながら 自分を分かち合うことの楽しみを リアルなところで再びやってゆくのだろうなと 思っている。


自分の感覚と ひとの感覚とが違うのだとわかっておくことは
大事だということは 知っている。
仮に 一般的な感覚ではないとして
その 自分の感じていることを うまく伝えきれるのだろうか。



わたしが今まで 分かち合ってこなかったことで そういえば うっかりと
ご迷惑をおかけしたことも あったなと 思い出した。



朝早い方の職場で ご一緒している
先輩さまが お客さまご夫婦のことを
見て 釣り合わないと酷評してきて 同意を求められるような 場面があった。
「ねぇ あなた そう思わない?」と言われても 思わないものは思えない。思いませんと言えは良かったのかも知れないが、それが適切とも思えなかった。よそのおうちのことで なに言ってんだかわからないし そんな扱いに腹立ちと 面倒くささが相まって
「余計なお世話なんじゃないですか。」と つい本音を言ったら 怒らせてしまった。(笑)
うっかりにも ほどがある。
そんな 笑い話のようなこともあった。感覚のちがいは なくならないのだ。


先輩さまは そんなふうに思っていて
そのお客さまの前では いい顔しているのがとても滑稽で 見るに耐え難かったので つい 言ってしまったのだが 「わたしが思ってることなんだから いいじゃない。」と言って 角を出す勢いで怒っていた。左右に2本の角で
ぷんぷん怒るてはなく さいのように 真ん中1本の にょっきり生えた立派な角だ。 戦闘モードに近かったのか。その瞬間に 先輩さまの描いてきた背景が 崩壊しかけていたのかも知れないのだ。


されど その角をはやした頭で 先輩さまが思ったこと そのものが わたしにとっては 余計なお世話だったから それをバッサリ 余計なお世話で斬ってしまったのだ。 
角もそのときに バッサリ斬り落とせば良かったのかもしれないが 彼女にとって それは望む未来でなかったら
それも また 余計なお世話である。
とにかく やっちまったのだ。笑



そしたら やっぱりマズかった。
その わたしのひと言で 先輩さまが 何回斬られたのだろうと思うと こころから かたじけなく思う。
わたしが どんなひとか わかっていたら 同意を求めたりしなかっただろう。誠に申し訳ないことをした。
罪深いわたしを ゆるしたまへ。
合掌。



あまり二面性を うまく使い分けているのも なんだかなー である。
創造性のない 無限ループのようだ。  
それが機能させられない身体の状態になったときに こわい発言を連発することになるのを 見てきているだけに できるだけ統合というのか
思考と感情のつながりを 矛盾しないものに しておきたいと思っている。
それを助けてくれるのが まなざしをいろんなところへ 移動させてみるというものだった。


それは これでもか
というくらい 笑えるくらい いろんなところへ 納得ゆくまで まなざしをあちこちへ飛ばし その位置での感情の観察をして楽しむことで 成りたっている。


感情が 思考を否定しなくていいように まなざしを 移動させることで 感情を変容させてゆき 納得したら
理解して 落とし込む そんな作業を
普段から 愉しんでやっている。
わたしには職人的な 作業が性に合うのだが これはやりはじめると かなり癖になる。粘土をこねるのと よく似ている。出来上がったかたちが 気にいらなければ 潰してもう一度 はじめの過程から こねあげるのだ。



わたしが見てきたひとは
生命の尊厳とは言っていたが 表裏の
その機能が働かなくなったときに
障害者に 尊厳などあるわけがないと言い放ち わたしを瞬時に凍らせた。
すごく怖いことを言っていると 感じて 凍りつきながら 同じいのちだからと 言わないように説明してお願いしたのだけれど 無駄なこととなり 届かなかった。



本人が それを経験しないと わからないことだったのかも知れない。
そのひとは のちに障害認定を受けることになり 人目につく外出もしたがらなくなってしまった。すごく落ち込んだことだろうと思う。自分が 尊厳がないと思っていた者に なり得てしまったのだから 相当なショックを受けたことだろう。


憐れみを向けられて 受け取るか 受け取らないかは そのひとが決めることなのだと思っているのだが そんなふうに選択できるということすら 思い描けなかったことだろう。
そこまで 運んでいってあげるパワーも わたしには足りていなかった。
 


でも どんなに生きたくても 頑張っても 生きられないいのちだってあるのだ。
悲しみに埋もれることなく 生き抜いていただきたかった。
生きたくても 生きられないほうの
いのちは せめて希望を と 生きてゆくためのエネルギーにつながるものを一生懸命にさがし求めていた。
わたしは そのどちらにも 同時期に触れていたのた。


なにを言わんや であるが どんな意識で 日々生きてゆけるのかが 状況が変わろうが 世界がひっくり返ろうが 自分の尊厳を 一番自分で守れるのだということを 教えられたのだと 思っている。



コントロールドラマというものを
ご存知ののかたは 多いだろう。
さっくり言うと どうやって
エネルギーを得るかというものだが
たとえば
自分が可哀想なひとだと 思っているひとが いるとしよう。
そのひとは 自分が可哀想なひとになることで 周りから 可哀想と思ってもらい そうすることでエネルギーを得ているのである。
そうなると 可哀想と思ってもらえなくなると エネルギーを得られない。
可哀想であることが エネルギーを
得る方法なのである。


あなたは 可哀想なひとと思われたいだろうか? 思われたくなければ 自分は可哀想なひとなんかじゃない と言って 可哀想だと差しのべてくれた手を 振りはらわなければ 可哀想なひと以外のものには なれない。
これは こころのなかのおはなしだ。
実際に 手を振りはらう行為をするのではなく こころで決めることだと 言っている。


わたしは ことばを渡すときに 可哀想とは使わずに ほかのことばを使うようになった。可哀想では そこに留まらせてしまうエネルギーになりそうで 相手がこころから望むところのものへと つなげてゆける 強いちからにはなれないと 感じたからだ。
言葉と それが持つ性質のまえで 立ち止まり 可能性を閉じて終わって欲しくはないと思った。

恐らくは わたしが見ていた そのひとにとって 障害者は 可哀想なひとに見えていたのでだろう。
わたしの知る限りでは 障害をもつ彼らは 可哀想なひとと思われたいとは 望んでいなかった。
むしろ 可哀想なんかじゃないと思うからこそ 権利を主張できたのだと思う。


強くてもいい。 弱くてもいい。
どちらでも 構わない。
ちから及ばずなら 逃げてもいい。
可哀想なひとになんか なるなと思う。これは 可哀想なひとに なって
欲しくないという わたしの想いでもある。そこに留まっている理由が 可哀想であって欲しくない。


もっと 素晴らしい先へと目指せる
力強い 可哀想以外のエネルギーが
いっぱいある。そうやって 置き換えてゆく ちからは みんな 内側で
扉が叩かれることを 待っている。
持てるかぎりの ちからを使って 
その扉を叩きながら あたらしく見えてきた世界を ともに眺めてゆける
そんな 自分でありたいと願う。







いいなと思ったら応援しよう!