保育園廃業を決定した理由をお話します
保育園を閉園するに至った話をしたいと思います。
ちなみに、保育事業はやめますが、社会福祉法人の事業はすでに別の展開をしていて、継続しますので、M&Aのお誘いとかはお断りです。
事業廃止までの流れ
基本的に法人は、すぐに活動をやめるとか解散することはできません。手続きは数枚の書類を所轄庁や市町村役場に提出することでできるのですが、そこに至るまでに、何度も理事会(役員会)をしなければならず、令和6年3月で保育事業を止めようと決めたら、バックキャストで計算し、半年前までには所轄庁に保育事業を止めることを報告する。その1年前には保護者や職員に対し説明会を開く。さらに説明会の半年前の理事会では、理事会の了承を得ておく。その決定に至るまで、数回の理事会で将来展望を話し合って、保育事業廃止以外の可能性も探っておく。
となると、おおよそ2年から3年かかって、保育事業廃止が進められていくことになります。 時々ニュースでいきなり 「来度の園児募集しません」と年度末になって事業所が報告し、 保護者や役場職員が困るといったニュースがありますが、そういうのは本当に最悪で、社会福祉事業の廃止に至るための責任を全く果たしていないですね。 先にも書きましたが、うちの場合は数年にわたり、将来展望を予想しながら、あらゆる可能性を探りながら決定にいたりました。
克服できなかった、廃園を決定的にしたいくつかの事情
少子化です。
うちのは定員20名だったのですが、その中でおよそ3分の1が兄弟で在籍してくれています。仮にすべての兄弟が二人兄弟だったとして、その兄弟組の1組が親の都合で引っ越しをするとかなると、10パーセントの園児が減ります。
もともと定員20名でやっていますから、子どもが少ない地域です。
減った10パーセントを補う目途がないのです。
つまり、少子化です。
もっと言えば、出産年齢の女性がいないのです。
気づけば園児と保育者の奪い合い
少子化で困っているのはうちの園だけではありません。
近隣の幼稚園、こども園はどこも定員割れをしています。うちの園はもともと僻地すぎて競合しあうこともなかったので、送迎バスは出していませんでしたが、近隣の園はそれぞれの園が特徴を出し、送迎バスを出し、遠方から園児を連れてきて、必死な努力をして運営しています。
職員(保育士や調理師)の募集もずっとしている感じです。
ちなみに、うちの保育園は職員がなかなか辞めず、新卒で入った保育士が10年経っても一番若手だったりしました(今は一人後輩ができました)。おかげさまで、保育士不足にすごく悩んだことはなかったですが、辞められてしまうと、次の成り手が見つからないことは確かだったので、その不安は常にありました。
集団生活の確保ができない
保育園、幼稚園、こども園は、小学校にあがる前に集団生活を経験し、競い合い、喧嘩をし、喜びを分かち合い、互いに切磋琢磨して、その子の成長を育むことができる場所です。
しかし、あまりにも在園児が少ない状況では、集団での学び(育ち)を確保してあげられないのです。チームを組む必要のある遊びはできませんし、日常の保育(子どもたちの活動)もできることが限られてしまうのです。
運動会や発表会だって、少ないなりの工夫をしてどうにか行事として行っています。
もう一つ、ときどきデメリットとして感じるとこは、ずっとメンバーが変わらないこと。少人数保育、少数集落のいい面もあるのですが、あえて言うなら、一度出来上がったヒエラルキー構造はなかなか覆せないのが少人数コミュニティです。
また、「保育園や学校がなければ、若い夫婦が住めなくなるから、一人でも子どもがいる間は続けて欲しい」というご意見を何人もの方からいただきましが、、、そのありがたい御意見の「一人の子ども」は自分の子や孫ではないはずです。集落存続のために一人の子の学びや体験を犠牲にすることは、社会福祉法人のやるべきことではないのです。
若者の労働力の多くが福祉に雇用されている問題
数少ない生産年齢人口の労働力のほとんどが、子どもや老人の福祉に携わっています。
栗生集落の林業、漁業が衰退し、人口が減り始めてすでに50年以上が経ちます。
うちの保育園の開園は62年前ですから、人口が多い時代に必要とされて開園しました。それが、産業の衰退と共に、労働者やその家族が仕事を求めて都会へと出ていきました。保育園はいまや貴重な労働の場となっています。しかも労働者の多くは女性です。
保育園は100パーセント税金で運営されますから、国からお金をこの田舎に持ってきて、それを田舎の生産年齢(子育て世代)の女性に分配できる大事な役割でした。
ただ一方で、人口が減っていくことが分かっている地域で、人を相手に、しかも子どもを相手にした仕事をし続けるには限界があり、いよいよ保育園が役割を終えていくタイミングが差し掛かっていました。
その時に、その職を失った若い女性労働者たちの多くは、再び経験のある福祉の仕事を求めていこうとします。
それはそれとして悪いことではないのですが、地域の産業の衰退が、人口減少の根幹にあるのであれば、私たち世代(30~50代)がもう一度この地の産業を作り上げる努力をしなければ、保育園から子どもたちを送り出したはいいけれど、その子たちが将来帰ってこられる環境を整えていないことになります。
それは、都会の将来の労働人口の下請けをしているようなものであり、このままだと本当に子育て世代はここで暮らせなくなってしまいます。
田舎の隅々まで行き届きすぎたインフラを維持するには
人口が減る集落で今までと同じレベルの生活を維持するには、今までの数倍のコストがかかります。だって一緒に上水道、電気、電線、テレビの共調アンテナ、道路などを維持してくれる人数が減るわけですし、これから物価は上がる方向へしか進みません。
今後、維持することが困難な少数集落に暮らすことは、そこに暮らす覚悟が要ります。あるいは、そのエリアをこれまでより数倍のコストをかけて維持してもいいくらい、価値を生み出すことが必要とされます。
保育事業は、そこに人が暮らすことが出来てこそできる事業です。暮らすためには、価値ある(お金を獲得できる)産業が必要なのです。私たち親世代が、もう一度ここの産業を作り上げようともがいてみなければ、集落消滅のカウントダウンはただ進む一方です。しかもタイムリミットはもうすぐそこに迫っています。
様々な視点から考えて、保育事業廃止を決定しました。
自分の今の労働力を何に注げばいいのかを考えた時、この地に新たな産業を生み出すことと、女性がこの田舎でもいきいきと生活ができ、子育てできるくらいの収入がある事業をつくり出すことではないかと思いました。
そして、私は一緒に動いてくれる(無謀なチャレンジをしてくれる)仲間作りをすることになったのですが、それはまた別の話。