雑感『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
心とは何か
『世界の終り〜』において「心」とは、「過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性」と定義される。
この独自性を情報スクランブルにおけるブラックボックスとして利用するのがシャフリングシステムだ。
一方、過去の記憶が失われた状態でも、心はその自律性により機能することが可能であるとしている。
では、「心を失う」とはどういうことか。「世界の終り」パート(以下、EWパート)では「影」の死がキーとなる。
心を失って初めて、「街」の永続性のシステムに組み込まれることが可能になる。図書館の少女の影は幼いころに壁の外に出され、17歳のとき、亡くなるために街に戻り、りんご林に埋葬されている。ゆえに少女には心がなく、影が死んでいない「僕」は彼女と心を通わせることができない。
作中では「心を失う」の前段階、「心を疲れさせる」ことにも触れられている。
なお「自己憐憫」は中編『街と、その不確かな壁』にも「暗い心」に群がるものとしてあげられている。
物語内の時間性、因果性
さて、本作において「心」はたとえ記憶を失っても、その自律性により機能すると先に述べた。ここでは「心」は時間性、因果性であると大胆に仮説したい。
本作において「心(自我)」は、その永続性を妨げるノイズとして描かれている。
逆に言うと、心があれば時間が、そして時間性の産物である因果が生じることになる。
「ハードボイルド・ワンダーランド」パート(以下HWパート)において、「私」が物語序盤にシャフリングを行ったことにより「第三回路」(「私」の意識の核を博士がビジュアライズし編集し直した思考システム。すなわち「世界の終り」)が開きっぱなしになり、深層の変容に合わせて「第一回路」(表層意識。そもそもの「私」の思考回路)との間で補正作業が進行しているとされる。
先の「心」の定義からすると、思考システムの独自性を生み出す大本である記憶が変化すれば、世界の変化にあわせて心も変化するといってよい。
だが、これに対し「私」は以下のように反論する。
時間制とはつまり因果性のことである。「Aが起こった。だからBが起こった」。これが通常の時間性、因果性だ。記憶が変化したからといって、今ある世界が変化するわけがないというのが「私」の反論だ。
これに対し、博士はまさにタイム・パラドックスが起こっている可能性を示唆する。
世界の再編に伴う、心の変化。時間性と因果性の混乱。これがHWパートで起きていることだ。
記憶の改変による世界の再編
「私」の「認識によって捉えられる世界」は、まさに読者が読んでいる物語世界と言ってよい。HWパートが基本的に現実世界をベースにしつつも奇異に映るのは、そのためである(巨大なエレベーター、胃下垂、地下世界、やみくろ…)。
また、HWパートとEWパートの関係も、この視点から読み解ける。物語の構成上、HWパートの最後でEWパートへの移行が語られるため、時系列としてはHW→EWと考えると一応の筋が立ち、そのように読むことも可能である。ただ、それではつじつまが合わない、つまり因果関係が逆転するケースが登場する。
たとえばHWパートの「私」が「図書館の女性」に惹かれる場面。
しかし、これに先立つEWパートで「図書館の少女」の髪について、
と、EWパートの描写が先行している。
また、物語後半の「ダニー・ボーイ」、頭骨が光るくだりなどは、やはりEWパートがHWパートに先行、または同時進行(共鳴)しているように読める。
こういった時間性の矛盾は、「街」の完全さの維持についての記述で説明が可能になる。
「エントロピーが常に増大する」とは、物事の不可逆性、因果性、時間性といってもよい。たとえば、我々はコップから水をこぼすことがあるが、こぼれた水がひとりでにコップに戻ることはない。しかし、「街」の完全性は「それぞれの存在を永遠にひきのばされた時間の中にはめこ」むことで成立する。
つまり、因果性や時間性が成立する要因となる「心の泡」を排除することで、街は完全性、永続性を維持している。そこでは原因と結果がしばしば逆転する(こぼれた水はコップに戻る)。あるいは意味を持たない。そして頭骨の中の「心の泡」は時間性と脈絡を欠きつつも、過去や未来を示唆するものとして描かれる。
村上作品の主人公
HWパートの「私」は脳手術により、記憶を奪われている。
そしてEWパートの「僕」は影を引き離されたことで、それまでの「私」の記憶を失っている。
村上作品において、主人公に名前がないことが少なくない。これは巧妙に過去や個人情報がカットされているからではないか(例えば、ブッククラブでも話題に上った初期三部作「僕」「鼠」分離説。『ねじまき鳥〜』の岡田亨の過去は外科手術のように切り離され、『国境の南〜』のハジメとなったこと)
父母などの家族関係がほとんど描かれないことも含め、物語を展開するうえで主人公が身軽になっている必要を著者は感じているのではないだろうか。
感情的な殻、資格
HWパートにおいて「私」が「感情的な殻のようなもの」を持つことで、特別な存在になることが描かれている。
このエピソードで思い出されるのが『ねじまき鳥〜』の間宮中尉だ。死と隣り合わせの極限状態で、井戸の底に届く日の光の「恩寵」を受け止めきれずに失われてしまった人間として描かれる。
また、『街とその不確かな壁』で女性の亡霊を見る老人も「それを目にすれば、人は二度と戻れない」と振り返る。
意識の核、恩寵、亡霊……。それに耐えうる人間は資格を持っている。感情的な殻を持ち、過去を失っており、それでも現実に生きようとしている人物だ。
本体と影、幽霊——記憶の継続性
HWパートの「私」は「世界の終り」への移行を死として捉えている。なぜなら、移行した先の「僕」は「私」の記憶を引き継がないからだ。
一方、『街〜』の「私」は影として現実へ帰還したはずなのに、「私」の記憶を引き継ぎ、「私」として生きる。子易さんは死してなお幽霊としてその記憶を継続する。
『世界の終り〜』では記憶を共有しない「私」と「僕」が、それでも同じ「自己」として直接は交わることなく物語をつむいでゆく。そのダイナミズムが読者を惹きつけると考えると、『街と〜』はやや弱い気がする。これを著者の後退と考えるかはともかく、比較して読むことはなかなか興味深い。